人生の出発
「ここもずいぶん都会になったな」
ぶつぶつと独り言を呟く。それが白い吐息となって俺のもとから離れてゆく。
俺は、てらてらと綺麗に光るネオン街は嫌いじゃない。それでも、自分が生きてきた街がこんな風に変わって行くことに、何かを感じずにはいられない。
そしてそれは、決して気分の良い感情ではなかった。きらびやかな街並みに反吐が出そうになる。
それに比べると、眼前に浮かぶ黄土色の球体なんて汚いもんだと思う。だが闇を背にして空に据わっている。それが艶やかな魅力となって俺を惹きつける。そのうちに心を落ち着かせてくれる。今日は少しも欠けていなかった。
昔から変わらずにあるもの、昔はそんなに好きではなかったもの、そんなものに興味を持ち始めている自分は、歳をとったのだろう。
いずれ、昔は良かったなどと言い出すのだろうか。苦笑せずにはいられない。
少し、気分を変えよう。今の時間、一人で飲むならどこがいいだろうか。そもそも今は何時なのか。
時刻を確認するために、左手を空に翳す。やめた。この腕時計にライトがついているのを思い出したからだ。
おもむろにボタンを押すと、光り、数字が浮かんできた。まだ十二時前だ。
「しかし便利になったもんだ。俺と同い年くらいの奴はダサいなんて言って、いまだに文字盤の時計をはめてやがるが、デジタル時計も悪くない」
そう小さく呟いていると不意に、「ダサいなんて、もう死語ですよ」ひかりちゃんの可愛い、甘ったるい声が脳内で再生された。
最近、行ってなかったな。俺は即座に決断すると、今来た道を少しだけ戻り、横断歩道を渡る。
幸い信号は青だった。赤だったとしても一、二分待たされるだけだが、今はその時間が惜しい。
遊具が見える。俺がいつもあの店に行くとき、抜け道として使わせてもらっている、比較的大きな公園だった。
珍しいこともあるものだ。声が聞こえた、公園の方からだ。相当酔っているようで、呂律がうまく回っていない。
よく考えればおかしなことではなかった。こういう場所は得てして浮浪者の溜まり場になりやすいものだ。むしろ今まで、何百回と通った中で一度も出会わなかったことのほうが、不思議といえば不思議なのだ。
かまわず足を踏み入れる。どうやら浮浪者ではないらしい。大学生ぐらいのが白熱灯の下、三人で飲んでいた。ノッポにデブにチビ、よくもまあ、特徴的なのがそろったもんだ。
俺は無視して通り過ぎようとしたが、三人は急に立ち上がり、顔を俺に、視線を遠くに向けながら近寄ってくる。ノッポが右腕を掴んできた。何となくそんな予感はあったのだが。
「おい、おっさん何無言で通り過ぎようとしてんだ。礼儀ってもんを知らねえのか、おい」
「そうだそうだ。あんたらおっさんは、よく言うじゃねえか、礼儀礼儀って。自分らはちゃんとしてるんですかって話だ」
「はら早くなんか言えよ」
三人は大体こんな風なことを言った。呂律が回っていないのでかなり怪しいが…… 何にせよこんなことをガキに言われて黙ってるほど俺はお人好しじゃあない。
俺は掴まれた右腕を強く振って、ついている手を引き剥がした。
「何で俺が何も知らないお前らに話しかけにゃならんのか。お前らは会う人会う人に、こんにちは、とでも言ってんのか、ガキ共」
「喧嘩売ってんのか」
そう、叫び声を上げ、チビが殴りかかってきた。俺は軽く避けて腰をひねり、右手を繰り出し顔面に一発食らわす。倒れた。酔っ払いなんぞ相手じゃない。
ノッポとデブが左右から殴りかかってくる。単純な攻撃だ。酔っているからか、それとももともとの知能か。
右にいるデブの腹に跳び蹴りを食らわす。デブが吹っ飛ぶ。両足が着地すると同時に体をひねりノッポと向き合う。真後ろで聞こえるのは重いものが勢い良く地面とぶつかった時の低い、加えて砂利の上を転がる高い大きな音。
ノッポとの距離が縮まる。パンチを繰り出してきた。俺はしゃがんで避け、その勢いを殺さず、アッパー。
ずいぶんと弱かった。最近の若いもんはこの程度か。
一度呼吸を整えるための溜息をつき、歩き出す。しかし、俺は何をするつもりだったか。家に帰る途中か。思い出せないので辺りを見回す。遊具、公園?
そうか、あの店に行くつもりだったのだ。馬鹿に絡まれて若干行く気が失せたが、ここまで来て何もせずに帰りたくはない。
そう思い足を踏み出す。途端。右耳に激しい衝撃。一瞬意識が飛び、突っ伏す。続けざまにくる横腹への蹴り。
俺は蹴りを食らわしてくる奴のいる方とは反対側に転がり、片手を地面に押し付けるよう力を入れ、立ち上がった。チビが正面に立っている。白熱灯の明かりが届かないところに来てしまったので、顔は良く見えないが、低い背の細い体に、殺気立った雰囲気を漂わせていた。
幾分、酔いを醒まさせてしまったかもしれない。チビの直ぐ横で倒れていた影が起き上がる。デブだ。ノッポに放ったアッパーには相当の手応えがあった、そうたやすく起きられるとは思えん。
少しまずい状況になったか。俺は肩で息をしているのがばれないよう必死に取り繕いながら、正面の二人と距離をとる。
長い時間見合っていた。向こうも、もう短絡的な攻撃はしてこなかった。
言葉はない。ただ立っているだけだ。一人を除いて。
しかしこんなガキ共にてこずるとは、中間管理職なんてものが俺をここまで腐らせたのか。それとも、元々この程度だったのか。あまり、歳のせいだとは思いたくなかった。
そうは言っても歳をとったことは認めざるを得ない。この勝負、先に動いた方が不利だということも若いころなら分からなかっただろう。
そして、今目の前にいるこいつらはそれを分かってない。それはとても幸せな事だ。俺にはもう感じることができない。そういう肌と肌だけでぶつかり合う、手探りの感覚は。
痺れを切らして、チビが突っ込んできた。今度はちゃんとカウンターを警戒されている。俺は避けた。それ自体はそう難しいことではない。だが、ここで決めなくてはならない。ここで決めなければ負ける。
結局、避けるのが精一杯だった。これは優劣が逆転したかもしれない。
デブが波状攻撃を浴びせてくる。これは避けきれない。俺は腕を体の前に出し、間に頭を隠してガードする。意外と強い拳がきた。それでもよろけずにデブのすねを蹴り上げる。
正確に命中した。そうほくそ笑むのと同時に来る左耳への衝撃。舌打ちをする。そう思ったができずに倒れていた。
くそ、こいつはそんなに耳を狙うのが好きなのか。寒空の下、耳への攻撃は叫びたくなるほど痛い。
知ってか知らずか、耳への攻撃は多かった。それ以外にも腹、顔を踏まれた。痛みを通り越して腹が立つ。
とにかく攻撃から逃れようとした。しかし、デブも耐久力だけは凄まじいらしく、すねの蹴り上げにもめげずにチビと両側から蹴りを入れてくるもので避ける場所がない。
どれくらい経っただろう。蹴りが止んだ。いくらか、意識が飛んでいたのだろうか。誰の気配もない。立ち去る音も、聞こえなかった。
負けたのだ。悔しくて涙が出る。達観はしていたが俺も、真剣に戦っていたのかもしれない。声を出して泣いているつもりだったが、声は出なかった。目も開けられない。無理やり開けようとしても痛みが襲ってくるだけ、大分ひどくやられたようだ。
そうやって涙を流していたが、不意に違和感に気づいた。音が聞こえないのだ。
今いるのは、無音の世界。静けさすら音があるからこそ感じられるものなのだと、はっきり分かるほど不気味な感覚だった。
人の気配がする。視覚もなく、聴覚もない世界では触覚が研ぎ澄まされるのか。
二つの物が腕に絡み付いてくる。細い、だけどもごつごつとした男であろう人の手と、もう一つは俺の手首に合うサイズの円い物。これもまたごつごつとしている。何より冷たい。氷を押し付けたように。これは鉄製の物だろう。
だがそれが何なのか、ここにいる男が何の目的で俺の腕を掴んでいるのか、それが分からない。怖い。はっきりと恐怖を感じている。情報がないというのはここまで恐ろしいものなのか。
増える気配。俺の体が複数の手によって持ち上げられる。それと同時に冷たい手首の感触は消えた。そして何か、ハンモックのような物の上に置かれる。ゆっくりと丁寧に。それでも、痛い。その上に布、いや毛布か。ともかく何かをかぶせられる。
敵ではないのか。俺の扱い方を肌で感じてそう思う。それだけでもかなり安心することができた。
口の周りに何かを取り付けられた。何だ、これは。次に来るのは揺れ。地震か。音のない揺れはとても奇妙だ。ただ快いかと聞かれれば、不快だ、と即答するだろう。
これは時々止まり、また始まる。そうか、地震ではなく車だ。これは自信をもってそう言える。あまり冴えてはいないが少し余裕が出てきたか。
そうして、今自分が車の中にいると認識するやいなや、ここが外と比べてかなり暖かいことに気づく。暖房器具が点いているのだろう。俺は、目が開けられないことも相俟って眠りの道に誘われた。
「おい、しっかりしやがれ。力仕事には自信があるんじゃなかったのか」
人使いの荒い奴だ。こんだけ働かしておいて日給八千円たあ、いい度胸じゃねえか。
とはいえ、そんなことを言えるはずもなく渋々体を動かす。四十四の俺にはきつすぎる仕事だった。それでもこっちの方が性に合っている、と思う。
「今晩あいてるなら、飲みに行かないか。いい店があるんだが」
夜になり仕事が終わると俺は、作業着を自分のロッカーに入れながらアルバイトの若いのを一人誘った。長身で体格が良く、短く立った髪の毛がさわやかさを引き立てている好青年だ。名前は青木だったか。顔も悪くない。ただ誘った理由はたまたまロッカーが隣だったから、というだけのことだ。
「もちろんあいてますよ。いいすねぇ。行きましょう」
言葉遣いがなってないのが今のところの唯一の欠点か。気にはなったが、言わなかった。
「もう三年半も経つのか」
俺はあの場所に来ていた。というよりも、今から飲む店に行くには必ず通らなければならなかった。
「三年半……何かあったんすか。あ、いえ何でもありません」
最初、話しかけられたと思ったのだろう。独り言だと気づきやめた、といったとこか。四十四にもなってアルバイトをしてる俺が意味深なことを呟けば、それは触れてはいけないアウトな項目だということだ。
「いや、そのころにな絡まれたのさ。酔ったガキ三人にな」
そう言って空を見上げる。綺麗な満月だ。あの日も確か満月だった。何故あの喧嘩を買ってしまったのか。今になって見ればとても馬鹿らしいことではあった。
「そうだったんですか」
何も聞いてこようとはしなかった。それでも俺は歩きながら構わず話す。
「そうだ、最初はな優勢だったんだ。ガキ共も酔ってたしな。でも結局負けた。一人は倒したんだが、残りの二人にぼこぼこにされてな。気がついたら病院のベットの上さ」
あれの所為で職を失い、家族を失った。っと、家族を失った原因はそれだけじゃなかったか。何にせよ、あの当時は全てを失ったと思っていた。
「大変だったんですね。でも、その勝負負けてはいませんよ。黒井さんの勝ちだと俺は思います。だって三対一で相手の方が有利なのに両方とも一人ずつやられて損害は同じ。だったら文句なし黒井さんの勝ちじゃないですか」
良く分からない理屈だった。どっちが有利だろうが最後まで立ってる奴のいる方が勝ちではないのか。俺は適当に「そうか」とだけ返しておいて次の話を始めた。
「それでな、その後俺は捕まっちまったのさ。実刑は免れたがね。だが、職は失い家族もどっか行っちまった。そんな時ふらっと名前につられて入ったのが、今から行くバーなんだ。尤もバーになったのは二年くらい前で、最初は酒屋だったんだがな」
「へぇ、そんな経緯があったんですか。でも、今まで通い続けてるってことは相当思い入れがあるんですね。それに、酒屋からバーに変わったってのも珍しいですね」
「そうだな。名前も変わってるぞ。元が酒屋だってことを忘れたくないってんで名前に酒屋をいれちまったのさ」
「酒屋を? なんていう名前なんですか、そこ」
「口で言うより見たほうが分かりやすいだろう。あれだ」
そう言って、俺は正面を指差す。
「『酒屋≪翁≫』 本当に変わった名前ですね。ご老人が営んでいるんですか?」
「そうだ、白髪頭の、人の良さそうなしわくちゃな爺さんがやってる」
店に入ると爺さんは、俺と青木に一目くれ、それから「いらっしゃい」としわがれ声で言った。
俺は青木をカウンターに座わらせた後、自分も隣に座った。
「おまえさん、ここにくるのは初めてじゃないんかね」
「すみません。私は青木と申します。黒井さんの紹介でやって来ました。どうぞよろしくお願いします」
爺さんの言葉に、起立して敬語で答える青木。俺は、噴出しそうになるのを必死にこらえた。
「いや、すまんすまん。別にそういう意味じゃないんだ。最近物忘れがひどくてな、何回も来た事がある人を新参の客と思ったりするんだ。どうぞ座って」
無言で座る青木。顔は見てないが、真っ赤になってるんじゃないだろうか。
「爺さん、ついにぼけてきたか。でも、俺の顔は分かったじゃねえか」
「そりゃあんたの顔は分かるよ。一体何年の付き合いだと思ってるんだい。まだここが酒屋だったときからの古株じゃないか」
「そりゃそうだ」
「おっと、どうしたい。お若いの。さっきから静かにしちゃって。そうだ、おまえさんにやるもんがあるよ。忘れないうちにやっとこう。ちょっと待ってな」
ドアの向こうに消える爺さん。きっと、あれだろう。
「ほらこれ、初回来店記念ってやつだ。花もあんたに似合う物を選んどいた」
そう言って、青木に小さな瓶のウイスキーと花を渡している。あれは赤いアネモネの花だった。
俺が貰ったのはアネモネではなく錨草という赤紫色をした花だった。尤も、その頃は酒屋で、買った酒についてきた物だったが。孫が花屋をやっていてね、いいのが手に入るのさ。特にあんたには、この花がいいと思う。そんな風なことを言っていた。
その時は、変わった形をした花、ぐらいにしか思ってなかった。それでも何かに惹かれこの店に何度も来るようになり、花のことも詳しかった爺さんにいろいろ教わった。
いくつかあるが、錨草には人生の出発って意味もあるんだ。もうここがバーに変わってかなり経った時、爺さんは不意にそう、言った。どういう意味でそう言ったのかは分からない。だが、そのとき俺はここに通い続けてきた理由が分かった様な気がした。
そして、アネモネの花言葉は――
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