8 「子どものため」といえば許されるのか
朝からずっとそんな事ばかりを考えて、綾子のイライラは頂点に達していた。そうして、今朝の緑川夫人の顔色が浮かないことが、なぜ?という疑念を増幅させたのである。
―落合さんと何かあったんだね―
緑川夫人なら、何か力を貸してくれるのでは、と、綾子は思ったりもした。人一倍正義感の強い綾子は、とにかく違法駐車を繰り返す保護者への憤懣で爆発しそうだった。そんな事を繰り返して、もし、子供に何かあったら、と思わないのかしら。とにかくその日は、仕事にならないほどであった。
次の日の夜、例の説明会の日だった。予定では19時からだったが、子供たちには保育園でおにぎりを用意してくれる、というので、帰り道、綾子はいったん家に帰り、荷物を置き、お茶付けをさらさらと流し込んで、もう一度坂を登った時だった。緑川夫人がちょうど、車でどこからか帰ってきたところで、車から顔を出して、綾子と挨拶をした。そして、
「こんな時間にどうしたのか?」
となり、綾子は実は、と言って、今日の説明会の件を、緑川夫人に話したのだった。
「そうかい、それじゃあ、私も行ってみようかね。」
と、言うと、緑川夫人は車で長坂保育園に乗りつけたのだった。
綾子は、
「今日の説明会は父母会と保育園の話し合いだから。」
と、緑川夫人に言ったのだが、普段は良識があり、他人の気持ちまで全部わかってくれるような緑川夫人が、この時ばかりは、「言い出したら聴かないよ」とでも言わんばかりの風だったので、綾子は押されてしまった。
保育園に着くと、もう説明会は始まる様子で、ほとんどの父兄が椅子に座っていた。そこに、綾子と緑川夫人が入って行ったのだった。
「まあ、緑川さん。」
堀田園長が、緑川夫人に挨拶をした。隣家であるので、挨拶しても当然だったのだが、綾子はこんな時に緑川夫人が同席したがっていたので、ちょっとたじろいだりもしていて、堀田園長が好意的だった事にホッとしたのだった。
「近所でもめ事ときいてね、年寄りの好奇心がうずいちゃったんだよ。悪いけど、聞かせておくれ。」
緑川夫人はそう言うと、一番後ろの方に車いすのまま入って行ったのだった。
「さて、お隣とのいざこざの件ですが。」
堀田園長が静かに話し始めた。それによると、
「以前からお手紙などでお願いしておりましたが、何名かお願いしてもご理解いただけない父兄の方がいらっしゃるようで、隣家で以前駐車場として使われていたスペースに、他人の家であると言う事実を既に認識されているにも関わらず、再三の注意を無視して、車を停めているご家庭があるようです。その事が根底にあり、子供たちが園庭で遊ぶことにさえも、『うるさい』とクレームが相次いでいます。過日、庭の木を剪定した際に、子供たちが、そちらのお宅の窓際で大きな声を出し、その事がもとで、隣の方から子供たちが怒鳴られてしまい、ショックで登園出来なくなってしまったお子さんもいたようで、保育園でも苦慮しております。」
と、いう説明だった。そのことで、父兄の何人かは発言した。そのほとんどが、
「保育園児を連れてくるには、どうしても車があると便利なので、保育園に駐車場があれば、こんなことにはならないのでは?」
「隣のお宅も、車は使われていないようだから、朝ほんの一時車を停めさせてくれたって、罰は当たらないと思う。」
「車を停めたのは悪かったさ。だからって、なんのためになんの権利があって写真を撮ってるんだ。」
「だいたい、子供相手に『殺す』なんて言葉を使ったりして、いったい隣はどんな奴が住んでいるんだ。危なくて、子供をあずけられないだろ。」
と、冷静に考えれば、手前勝手で人の迷惑を考えない、飛んでもない意見ばかりだったのだが、『子供たちの安全』という名目のもと、議論は危うい方向に進もうとしたその時だった。
「まったく、いやな連中だねぇ」
そう発言したのは、緑川夫人だった。周りは一瞬、「連中」というのが、自分たちを指すとは気がつかなかった。
「お前たちは、それでも、人の親なのかい?近所でトラブルになっているっていうから、ちょっとのぞきに来てみたんだが、まったく情けないねぇ。」
慌てて、言葉を発したのは、堀田園長だった。
「待ってください。緑川さん。緑川さんもご近所ですし、ぜひお知恵を拝借出来ればと、この場に居ていただいています。あまり、興奮されずに…。」
と、言ったのだが、緑川夫人は実はとても冷静で、興奮していたのは、緑川夫人以外の父兄だけだった。
「あんたたちは、そうやって、自分たちの権利ばかりを口にするが、隣にだって、静かに暮らす権利や、自分の家の敷地に違法に停められてる車に、文句言う位の権利は持ち合わせているんだよ。要は、あんた達に常識が無いって事だろうが。」
「なんだとう。」
そう言って、緑川夫人に喰ってかかったのは、川原裕也の父だった。何日か前、綾子は裕也の母から、裕也は兄弟が多く、日々隣家から、『うるさい、さっさと帰れ』と言われていると聞いていた。
「子供なんて、騒ぐのが商売だろうが。ああだこうだ言ったからって、静かになんてなりゃしないさ。子供は宝もんだろう。どうして、もっとあったかく見守ってやろうって気にならねえんだ。」
と、言った。すると、緑川夫人は、
「ひとんちの子供、あんた、可愛くてしかたないって言えるのかい?」
そう言うと、川原裕也の父は黙ってしまった。綾子は、居ても立ってもいられず、静かに発言した。
「あのう。」
「なんですか。結城さん。意見でしたら、どうぞ。」
「私。なかなか子供に恵まれなくて、ようやく、本当にようやく母になりました。嬉しくって、宝物です。でも、でも、もうほんと煩い。毎日煩い。居ない生活が長かった分、思うように働けない自分がじれったい。自分の子だって、あんなに煩い。よそんちの子、同じようにかわいいかって言われたら、残念ですけど、正直答えますが、同じようには可愛くはない。それが100人も居たら、煩いに決まってますよ。毎日朝から晩まで、煩いに決まってると思うんです…。」
川原裕也の父親は、ふんっと言った感じで綾子とは目をあわせなかった。
「それでもやっぱり、園庭の端っこをロープで区切って使わせてもらえない、なんて、正直、非常事態なんじゃないですか?ずっと、そうしてきたんなんて、保育園では落合さんと話し合いとか、申し入れとかしてないんですか?」
そう言ったのは、井上みどりの母であった。
「保育園では話し合いも申し入れましたが、落合さんのお宅はお留守も多くて…」
そう堀田園長が言った時、清水綾乃の母が言葉を遮った。
「あら、居ないんだったら、もう少し、子供たちがのびのび出来てもいいんじゃないですか?車もだめ、遊びもだめ、って。保育園なんですから、ダメって言われてもどうにもなりません。」
「そうよねぇ。」
「本当だよ。」
「だいたい、『子供を殺す』なんて言う奴は、警察に突き出してやりゃいいんだ。言ったんだろ。『殺す』って。」
と、裕也の父が混ぜっ返して、騒々しくなった。
「落合さんは、『殺す』なんて言ってないわ。」
綾子がそう言うと、裕也の父は、
「あんたはさっきから、どっちの味方なんだよ。言ったんだよ、『殺す』って。」
と、綾子を突き飛ばさんばかりの勢いで言ったのだった。
「本当に落合さんが、『殺す』って言ったのかい?」
緑川夫人が園長に向かって言った。
「正確にいえば、『殺されたくなかったら、静かにしろ!』です。そう言われて、騒ぎになりました。」
「そうかい、よほど、腹にすえかねたんだろうね。毎日煩い上に、車のトラブルで。うちは、竹垣のせいか、あんまり子供たちの声は聞こえないし、あの坂のせいか、違法駐車もないからねぇ、何も知らなかったけど、なんだか、落合さんが気の毒さぁ。」
「な、何が気の毒なんですか。被害者は子供でしょ。」
「そうよ、子供だわ」
親たちが口々に言い、父兄VS緑川夫人で言い争いのようになり収集がつかなくなった。綾子には、緑川夫人が間違っているとはとても思えない。
「だいたい、あんた、なんの権利があってここに居るんだい?」
そう言って緑川さんに喰ってかかったのは、やはり川原裕也の父だった。
「権利かい。言ってみりゃ、落合さんの欠席裁判だってわけだろ。私は、その代わりに来た。被告人代理だね。」
「被告人だなんて。」
そういって、堀田園長が間を収めようと必死だった。
「まあまあ、みなさん。こちらの緑川さんのおかげで、この園はやっていけるんですよ。静かにしてください。」
一瞬、静寂がやってきた。そうして、緑川夫人は、
「みなさんに、知ってもらった方がいいね」
そう言って、静かに20年前の話をし始めた。