7 違法駐車は犯罪だということを認めない
登園の時間になる、ほんの少し前の事だった。急に真っ暗になった雨雲ばかりの天空から、大粒の雨が降って来て、少ししたら止むかも、という淡い期待を裏切るかのような、本降りの雨になってしまった。
「送ってやろうか。」
今日は客先に直行で行くので、いつもより少し遅くいくよ、と言っていた貴彦が、珍しく、坂の上まで車で行ってやる、と言う。
「助かるわ。」
そう、綾子は言った。でもその隣で、なんとなくみすずは嬉しいそうではない。
「あれ、みすず、嫌なの?」
貴彦はみすずの顔を覗き込んだ。
「車でいくとね、怒られちゃうんだよ。隣のおじさんに。みすず、怒られたくないから、歩いていく。」
と言った。
「じゃ、頑張ろう。」
そう言って、みすずは綾子と傘を持ってマンションの外に出た。
マンションの前から続く長い坂は、まるで滝水のような勢いで、雨水を排出していた。
その雨水の中を、黄色の長靴をはいたみすずは必死で登って行った。もう少しでようやく半分のあたり、緑川さんちの門のあたりに差し掛かる、というその時に、みすずは歓声を上げた。
「あっ!!やったあ。」
そこには懐かしい緑川夫人が、大きな傘をさして、こちらを向いて立っていたのである。
「おはよう。みすずちゃん。」
笑顔の緑川さんちのおばあちゃまがそこにいた。そして、いつものように、
「はい」
ときれいな飴玉を一つくれたのだった。
「こんな雨だからね、みすずちゃんが難儀して、ママを困らせてるんじゃないかと思ってね。雨だけど、こうして待っていたんだよ。よかったよ、会えて。」
緑川夫人は、門のところの屋根の下に、わざわざ椅子を持ってきて、ひざかけをかけて座っていた。隣にお手伝いさんが傘をもって立っていて、
「そろそろ中へ」
と言ったのだけど、久しぶりだから、と、緑川夫人は、ニコニコしながら、みすずの手を握ったのだった。
「おばあちゃま。手が冷たくなっちゃうから、おうちにはいってね。」
「ありがとうね。でも、みすずちゃんもこんな雨の日には、車があると良いんだけどね。」
と、緑川夫人が言った時だった。
「みすずね、隣のおじいちゃんに怒られたくないから、車には乗らないの。」
と、いうみすずの返答に、緑川夫人の表情が一瞬に曇ったのである。
「落合さんと何かあったんだね。」
緑川夫人の浮かない顔に、綾子は、『何かある』と確信したのだが、時間が気になってどうにもならない。そんな様子を察したのか、
「さあ、遅れるとママが困るからね。元気に後半分登るんだよ。」
そう言って、手を振ってみすずを見送ってくれた。
「ママ、今日何時ころ?」
「いつも通り18時過ぎくらい。」
時計がなんとなくわかるようになってきたみすずは、この頃、帰りは何時かと必ず聞くようになった。
「大丈夫よ。ちゃんと戻ってくるから。」
そういって、笑顔で別れ、綾子が職場に向かおうとした時だった。
「ねえ、ちょっと聞いてくださいよ。」
そう言って、綾子を呼び止めたのは、一つ下のクラスの斎藤タケルの母親だった。
「どうかしたんですか?」
「どうもこうも。車の写真撮られちゃって。」「車の写真?」
「ええ、さっきからのひどい雨で。どうする事も出来なくて、車で来たんですけどね。ちょっと停めて、荷物持って、子供の手を引いて降りたとたん、あの、落合って人が出てきて」
「それで写真?」
「ええ、もう思いっきり、バシャバシャバシャって。なに?って思ってる間に、そのまま、家の中に入って行っちゃって。」
「えっ。それで車は?」
「坂を下ったところに駐車場あるじゃないですか、あそこに停めてきました。それで長い坂登ってきたんで、びしょびしょです。」
斎藤タケルの母とタケルは頭からバケツを被ったかのようにびしょ濡れだった。あわてて、保育園の奥から、職員が大きなバスタオルを持ってやってきたのだった。
「こんなに濡れちゃって、タケルごめんね。」
タケルの母はそう言ってタケルを頭から拭いていた。
「まったく、ちょっとくらい、あそこに停めて何が悪いっていうんだろう。近くに駐車場がないんだから、しようがないじゃないか。」
と、タケルの母はブツブツ言いながら、タケルを抱きしめ、ずっと怒っていた。
「風邪引かないように。」
と言って、綾子はその場所を離れた。
保育園の外に出ると、綾子が家を出た時より雨が激しくなっている。ここから駅までの10分。坂ではないけれど、商店街を抜けると、長坂駅である。さっきも斎藤タケルの母が言っていたれど、長坂駅から、長坂保育園までの10分足らずの道のりに、どういうわけか駐車場がない。綾子たち親子の住む、坂下とは違い、みっちりと住宅が立ち並び、コインパーキングがないのだ。だから、つい、保育園の隣の落合さんちの前あたりに停めたくなる。落合さんちは坂のちょうど上にあり、長坂保育園と並んでいる。保育園と落合さんちの前は、大きな幹線道路なのだが、落合さんの家は、昔は何台か車を停めていたようで、駐車場のような空地が家の前にあって、少し引っ込んだ感じになっているからか、マナーの悪い駐車違反が多いのだ。駐車違反区域なのだから、取り締まられて当然で、それがわかると今度は、堂々と落合さんちの敷地に乗り上げるようにして車を停めている輩がいて、落合さんを激怒させた。
「怒られるに決まってるわ。他人の家に入り込んでるんだから。」
と、綾子と貴彦は話した事があった。その場所に停めていた何人かの保護者によれば、
落合さんちは、少し前まではずっと留守で、そこに車を停めようが問題にもならず、だれも住んでいる様子がないのを良い事に、違法駐車を繰り返していたらしい。それがある日、落合さんが家に戻り、違法駐車を繰り返していた保護者とトラブルになっているのだ。
そんな事を思い出しながら、ちょうどコンビニの前に差し掛かった時だった。
「早くして。」
そう言って車から子供を降ろしていたのは、みすずと大の仲良しの、井上みどりの母だった。
『おはよう』
と、声を掛けそうになって、あわてて止めた。
『しらないふりしないと』
綾子は見て見ぬふりをして、急いで通り過ぎたのだった。
小さな子供の手を引き、保育園用の大きな荷物を持つ。そして、雨の日に傘をさす。そんなの無理に決まっている。中には、0歳や1歳の子供を抱っこして、2人連れて登園する親もいる。車で連れて行きたい心情は理解できないわけではない。ただ、あの長い坂を登る結城家だって、車があったらどんなにラクか…でも、それをいいことに、道路に駐車したり、他人の敷地に勝手に停めたり、用もないコンビニの駐車場に車を停めている。そんな親が、落合さんを怒る資格は全くないわ。