6 「自分の子どもが可愛いと思えるのは自分だけ」という事実に気がつかない
みすずは結局、10時を過ぎてようやく目覚め、昼からでもお友達と遊びたい、と言うので、午後からの勤務に間に合うように、綾子と手をつないでマンションの外に出た。すると、もえちゃんが、
「あ、みすずちゃん」
と、大きな声をかけてきた。
もえちゃんは、もえちゃんの母としっかり手をつないでいるが、荷物も何も持っていなかったので、
「あら、今日はお休みなの?」
と、綾子が言った。もえの家は、この長坂よりもずっと川沿いで、少し離れた場所で魚屋を営んでいる、と訊いた事があった。
「ええ、まあ」
もえの母はそう言うと、
「あら、みすずちゃんちこそ、こんな遅い時間に・・・」
というので、
「ちょっと朝寝坊」
と言って別れた。反対方向に歩いてゆくもえちゃんを、みすずは何度も振り返った。
「今日はお休みなんですって」
と、綾子が言うと、
「もえちゃんって、このごろ、休みばっかりなんだよ。」
と、みすずが言った。
「あらそうなの?病気かな。」
「ううん、ママがおうちに居るからって、もえちゃん言ってた。
「え?ママがおうちに居るの?」
保育園に入ると、そこには数名のお友達しか登園していない。遠藤に事情を聞くと、今日はほとんどが休みなのだと言う。
「昨日のショックが消えないのかしら?」
綾子が言うと、
「そういう子供もいるようです」
と、遠藤が目を伏せるように綾子に言った。
「もし、気になる事があるようでしたら、園長がいろいろ対応していますので、そちらに聞いてください。」
綾子はとても気にはなっていたが、それでなくても、月末で忙しく、さらには午前中休んでしまったので気が急いて、この上、園長先生と話すなどという余裕がなく、気がかりなまま出勤したのだった。
「りさちゃん。あのさ~。」
みすずがりさに言った。
「あのね、りさちゃん、昨日お休みだったから知らないと思うけど、昨日さ、大変だったんだよ~。」
「え~、何があったのよぉ。」
「それがさ・・・・・・・・でね、・・・・・・・・・・・でさ。・・・・・・・・・・になってね。
『ころす』っていってさ~。」
「げ~~っ。『ころす』ってなによ!」
と、先生たちがどんなに子供の興味を他に逸らそうとしても、子供たちの口にとは立てられず、実際に、隣家の落合さんが言ったのは、
『殺されたくなかったら』
だったのだが、子供たちの間では、
「殺す」って。
と増幅してしまっていた。
「どうする、殺されちゃたら。」
「え~、やだよ。アタシ二宮君と結婚するんだもん。」
とみすずが言うと、
「ダメだよ。二宮君は、りさのママが結婚するんだよ。」
とりさは言ったのだった。
五嶋りさには父親がない。リサの母は今、24歳で、りさを18の時に生んでいて、その事を保護者会で自ら公表した。
「うちには父親はいません。必死で育ててます。」
そう言ったりさの母を、
「よく平気で言えるよね」
と、さげすんだ態度をとるようになった親もいた。それは、24歳という年齢だけではなく、まだ、若さの絶頂にいたりさの母は、一見すると、水商売風とも取られかねない、容姿だったせいもあるようだった。
「りさちゃんと遊んじゃだめ」
という親もいた。だけど、みすずの母・綾子は違っていた。綾子は、りさの母がどんなに礼儀正しく、厳しくしつけられたかを知っている。それは、保護者会のあとの事だった。「では、これで」
と、保護者会が散会となった後、携帯にかかった電話の用件を済ませて、教室に戻った綾子が目にしたのは、保護者の使った紙コップを集めて回っていた、りさの母の姿だった。
皆が、『お先に』という言葉でその場を後にしているその時に、りさの母だけが、教室の中を整理し、床に雑巾がけをしていたのだった。だから、綾子は、他の子が、親からの言いつけを守るかのように、りさを避けているのが許せない気持ちだった。綾子は事あるごとに、みすずに
「りさちゃんっていい子よね」
「りさちゃんはげんきなの?」
と、りさちゃんを意識させるようにしていた。みすずはりさちゃんを避けることなく、みんなよりちょっと大人びた、りさちゃんを憧れのまなざしで見つめ、仲良くしてきたのだった。
「ふうん、りさちゃんのママと結婚するんだ。じゃ、しかたない。」
と言って、みすずは少し寂しくなった。若いりさちゃんのママは、実はみんなの憧れの的である。みすずは、子供ながらに「りさちゃんのママなら負けても仕方ない。」、そう思っていたのである。
「ねえ、パパ。あたしが殺されちゃったらどうする?」
「え?そうだな。3日は泣くだろうな。」
「え~、たった3日かよ。」
その夜、なんとなくみすずの様子が気にかかる貴彦は、帰宅した。そして、久しぶりにみすずと入浴した。やはり、昨日の落合さんの一件が心を重くしているのか、みすずの口から出るのは、その話題ばかりである。
「ママは何日泣くかな・・・?」
みすずがそう言うと、
「ママにきいてごらん。すぐに泣いちゃうよ。」
と、貴彦はみすずの頭をごつん、としたのだった。
結婚して10年。貴彦と綾子は子供に恵まれなかった。2度妊娠したのだが、そのたびに流産してしまった。綾子はいつも、「母になれない私と離婚してもいいよ」と言い続け、折れそうになる綾子を、貴彦は必死で支えて、10年目にして、みすずを授かったのだった。綾子は号泣した。号泣して、母になったのだった。
「私はもう一生泣かないと思う。だって、一生分泣いたから」
が、綾子の口癖だった。だけど、いいや、だからこそ、みすずが殺されたりするような事があったら、綾子は泣くだろう。号泣するだろう。そうして、夜叉になるだろうと、貴彦は思った。
その日、みすずが眠りについた後、貴彦は綾子に言った。
「保育園の隣のじいさん、落合さんって言ったっけ?」
みすずを寝かしつけ、うとうとし始めた時だったので、
「んっ」
と、綾子は目を開けた。
「殺してやる。って怒鳴ったじいさん。」
「『殺してやる』なんて言ってないわ。『殺されたくなかったら』よ。」
「どっちだって、かわらないだろ。子供にそんな事言ってさ。」
「この間さ。」
「?」
綾子はベットに横たえていた体を起こして、枕元の明かりをぷちっとつけると、そばにあったカーディガンを羽織って話をつづけた。
「酔っ払った学生が、マンションの前で大トラに変身して大騒ぎしてた時、あなた、なんて言ったか覚えてる?」
「・・・・・」
「あなたは、『うるせえな。しばくぞ!』って言ってたのよ。この間、車に乗って3人で出かけた時も、窓開けて、カーステレオがんがんにかけてたオープンカーとすれ違ったも、おんなじ事言ってたじゃない。」
「俺に喧嘩を売るのかよ」
貴彦も話に熱が入って、体を起こした。
「そうじゃない。喧嘩なんて売らないけど、子供って、ほんと、うるさいのよ。私にとって、みすずはようやく巡り合えた天使だけど、あんなちびっちゃいのがたくさんいたら、嫌になるって思ったことない?ほら、一度、みすずの友達預かった時、あなた、逃げ出したじゃない。」
もう半年くらい前の事である。
「保育園のお友達と家で遊びたい」
と、みすずが言いだし、綾子は、もえちゃんのママにメールして、もえちゃんに遊びに来てもらったのだった。もえちゃんはとても良い子だったのだけど、もえちゃんが家に来てくれた事が嬉しくて嬉しくて仕方がないみすずは、とてもはしゃいで、マンションの部屋の中を駆け回った。翌日になってから、下の部屋の安西さんには、
「お嬢さん、元気だから。」
と、やんわり注意をされたほどだった。
「もえちゃんがやって来て、30分もしないうちにあなたは消えたわ」
貴彦は、そうだったけ?と言った表情をした。
「下の部屋の安西さんのところに、謝りに行くのも着いてきてくれなかった。」
「そうだったっけ?でも、それと今回の『殺してやる』っていうじいさんと関係ないだろうが。」
「関係ないけど、おんなじよ。多分。おんなじ。よそんちの子、可愛いと思う?思わないでしょ?それが普通よ。騒いでいれば、ただうるさいだけ。ひとんちのガキ、百人いて、毎日毎日朝から晩までエネルギー余ってるんだから、絶対うるさいよ。」
「で、子供相手に『殺す』って言うのかよ。」
綾子は、クスっと笑ってしまった。
「あなたの口癖も、関西じゃ、殴る、蹴るの乱暴を働くって事なんでしょ。実際そんな事するわけないって信じているから、何も言わなかったけど、『殺されたくなかったら』と、何も違わないじゃない?」
綾子の言うとおりなので、貴彦は何も言い返せない。
「私ね。みすずが宝物だけど・・・。宝物だけど、嫌になることだってあるわ。時折、わけもなくいやになるの。だからって、虐待したりはしないわよ。でも、怒鳴ったりすることはあるわ。あの隣の落合さんもきっとおんなじよ。自分の宝物じゃないんだもの。ぶっ飛ばしたいくらい、うるさかったのよ。きっと。」
「だけどさ、お前心配にならないのかよ。何かあったら、ってさ。」
「心配よ。たまらなく心配。」
ふっと両肩を力なく落とす綾子の姿に、やるせなさだけが大きくなった貴彦だった。
翌朝、綾子の携帯にメールが届いた。送り主は父母会の役員をしている、井上みどりの母からであった。
「なにかしら?」
綾子は携帯を覗き込んだ。
『緊急のお知らせ』
父母会からのお知らせです。ご存じの方も多いかと思いますが、過日より、保育園の隣家と駐車違反や子供たちの騒音問題で、トラブルが頻発しております。先日は子供たち相手に激怒された隣家の方が、「殺されたくなかったら」と過激な言葉を使われたらしく、情緒不安定になってしまった子供たちが多いようです。明日19時より保育園にて保育園からの説明を受けますので、余裕のある方は参加ください。取り急ぎ連絡まで。
と、言った内容だった。そっか、様子がおかしかったのはみすずだけじゃないんだ、と綾子は思った。
「ねえ、あなた。明日保育園で説明会だって。」
携帯メールを綾子が貴彦に差し出した。貴彦は、
「お前、聞いとけよ。」
と言って携帯を綾子に戻し、朝刊を読み始めた。
『いつもそうよね』
男なんて冗談じゃないわ、といつも綾子は思う。どうして自分が働いているか、考えた事があるんだろうか。綾子が働く理由、それは家族3人が、食べてゆくため以外の何物でもない。貴彦の収入だけではなんとも心もとない、だから、自分は働いている。でも、朝早くから家事を行い、みすずの保育園への送り迎えを行い、また家事をして、睡眠時間を削って、どうにか毎日が廻っている。それなのに、自分は、「仕事だけ」で、何を偉そうに、と言いたくなる事が毎日のようにある。実際、何度もそう言って喧嘩になった。そのたびに、みすずに
「ママはパパが嫌いなの?」
と、言われた。
「ええ、大嫌いよ」
と、その時の感情に任せて答えてしまい、みすずに大泣きされた事があった。
「パパがかわいそうだ。」
と。
「じゃ、ママは?ママはどうなるのよ」
と言いたいところをぐっと我慢して、その時から、綾子は決して貴彦に文句を言わなくなった。自分が黙って家事と育児と仕事をこなせば、それでうまくいくのだろう、と。号泣したいのはこっちだ、と貴彦に喰ってかかりたい事はたくさんある。毎日だってある。
「雑用を、なんでもかんでもこっちに回すな!。」
正直、さっきだって、そう言い返そうかと思った。でも、我慢した。貴彦はそんなことに気付いてもいないだろう。綾子にはそれがとても口惜しい。