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第84話 旗のない砦

 灰置き場の朝は、音で始まった。


 水路を叩く小さな槌の音。

 骨杭を地面へ打ち込む鈍い音。

 布を裂き、縫い、灰を染み込ませる音。

 炉の中で灰が低く鳴る音。


 かつては、誰かの咳や、呻き声や、遠くの魔物の気配に怯える沈黙が多かった場所だ。


 今は違う。


 まだ暗い。

 まだ寒い。

 まだ豊かとは言えない。


 それでも、灰置き場には仕事の音がある。


 ガルドは中央の広場に古い板を立て、片腕でそこへ骨片を差していた。


「水番は二組に分ける。昼と夜で交代だ。水瓶は中央に三つ、外縁に二つ。外縁の水は戦闘時以外触るな。逃げる子どもと怪我人用だ」


 ダンが頷き、粗い地図へ印をつける。


「外縁の二つは、灰布で覆っておく。泥避けもいるな」


「イーシャに頼め」


「わかった」


 少し離れた場所では、イーシャが灰布を縫っていた。


 ただの布ではない。

 地上から持ち帰った丈夫な布に、炉の灰と砕いた灰導石粉を少しだけ混ぜ、さらにリィンの青い封印線を細く通す。


 強い防具にはならない。


 だが、追跡札や弱い拘束術式が触れた時、少しだけ鈍らせる。

 逃げるための一呼吸を稼ぐ布だ。


 イーシャは針を動かしながら、傍にいる子どもたちへ言う。


「ここ、強く引っ張らないで。灰の線が切れるから」


「切れたら?」


「トオルさんかリィンさんに見てもらう。でも、自分で気づけた方がいい」


 子どもの一人が、真剣に灰布を覗き込む。


「これ着たら、首輪つけられない?」


 イーシャの手が止まった。


 足の追跡札の焼け跡が、少し痛む。


「絶対じゃない。でも、逃げる時間は作れる」


 子どもは頷いた。


「じゃあ、作る」


 イーシャは少しだけ目を細めた。


「うん。一緒に作ろう」


 別の場所では、ネイラが黒炎皿を並べていた。


 黒い皿の中で、小さな炎が揺れる。

 普通の火ではない。

 魔力の匂いを覚え、呪いや札の命令に食いつく黒炎だ。


 ネイラは王冠印の残灰を皿の縁へ近づける。


 黒炎が鋭く伸び、残灰だけを舐めた。


「この匂いは覚えた。次に来たら、札ごと焼ける」


 セイルが慌てる。


「証拠まで焼かないでくださいよ」


「わかっている。証拠は残す。命令を焼く。何度も言うな」


「あなたが焼くと言うと不安になるんです」


 ネイラは不機嫌そうに目を細めた。


「私が雑に燃やしたことがあるか?」


「あります」


「いつだ」


「昨日、蜂蜜の皿を焦がしかけました」


「あれはお前が横でうるさかったからだ」


 そのやり取りを聞いて、周囲の者たちが小さく笑う。


 ネイラは舌打ちしたが、黒炎は少しだけ柔らかく揺れた。


 シェラは炉の横で、古代保守板と地上から持ち帰った小型魔道部品を並べていた。


 右目の光が瞬くたび、板の上に灰置き場の簡易図が浮かぶ。


 外縁。

 水路。

 骨杭。

 灰骨外壁。

 黒炎標。

 帰灰標(きかいひょう)

 浄水室への通路。

 換気塔への道。


 その中央に、炉。


「防衛段階、第一から第二へ移行準備」


 シェラが告げる。


 ガルドが歩み寄る。


「第二とは何だ」


「外縁接触時、自動警告。帰灰標揺動。黒炎標反応。灰骨外壁の一部起動。避難誘導音、未実装」


「音はいるな」


「候補。骨笛、鉄片、炉鳴り」


 ガルドは少し考える。


「骨笛は魔物の追い笛と紛らわしい。鉄片にしろ。三つ鳴れば子どもは水路側へ。二つなら外縁防衛。長く一つなら火災か毒」


 シェラが即座に記録する。


「警告音規則、登録」


 ただの記録ではない。


 決まりが生まれている。


 誰がどこへ行くか。

 何を守るか。

 何を捨ててでも逃がすか。


 灰置き場は、少しずつ砦の形を得ていた。


 透は炉の前で、灰骸刀を膝に置いていた。


 抜いてはいない。


 鞘の上から手を置き、刃の奥に沈んだ王冠印の残滓を感じている。


 灰骸刀は静かだった。


 だが、以前よりも深い。


 剣杯の魔剣を喰い、旧水門の自壊命令を斬り、東水路の王冠印を喰った。

 そのたびに、刀は新しいものを覚えている。


 ただ斬るだけではない。


 命令の味。

 呪いの癖。

 術式の逃げ道。

 魔力核の腐り方。


 それらを刃の奥へ沈めている。


 リィンが隣に座り、灰骸刀を見た。


「王冠の線、まだ残ってる」


「喰い切れてないか」


「喰えてる。でも、奥がある」


「上位印か」


「たぶん」


 透は鞘を指で軽く叩いた。


「次に同じ系統が来たら、もっと早く斬れる」


「うん。刀が覚えた」


 リィンはそう言ってから、透の右腕を見た。


「腕は?」


「問題ない」


「灰、少し濃い」


「炉へ流す」


 透は右腕の灰殻手甲に意識を向け、余分な灰を炉へ落とした。


 灰が炉の中で静かに沈む。


 無理に体へ抱え込まない。

 必要な分を残し、余ったものは炉へ戻す。


 それも、最近覚えた制御の一つだった。


 ルカが近づいてくる。


 手には小さな板を持っていた。


 板には、子どもの字でいくつかの印が書かれている。


「できた」


 透は板を見る。


 線と丸。

 入口。

 水瓶。

 炉。

 骨杭。

 子どもが逃げる道。


 粗い。


 だが、道としてはわかる。


「地図か」


「道番の地図」


 ルカは胸を張った。


「こっちが水。こっちが炉。ここは行っちゃだめ。ここはガルドが怒る」


 ガルドが遠くから言う。


「怒るのではない。危ないから止める」


「同じ」


「同じではない」


 ルカは気にせず板を指す。


「ここに蜂蜜を隠す」


「隠すな」


「みんなで分ける場所」


「なら、貯蔵だ」


「ちょぞう」


 ルカは新しい言葉を覚えるように繰り返した。


 透は板を返す。


「いい地図だ。シェラに写してもらえ」


 ルカの顔が少し明るくなる。


「うん」


 彼女はシェラの方へ駆けていった。


 その背中を見ながら、バルザが透の横に来る。


「道番、張り切ってるな」


「ああ」


「いいことだ。役がある奴は、目が死ににくい」


 透は何も言わない。


 バルザは続ける。


「奈落に落ちてきた奴は、最初に自分が何の役にも立たねえと思う。水を飲むだけで悪い、飯を食うだけで悪い、生きてるだけで場所を取るってな」


 彼自身も、封環をつけられた傭兵だった。


 首輪に命じられ、牙を奪われ、奈落へ落とされた。


「だが、役ができると違う。水を運ぶ。布を縫う。道を覚える。骨を立てる。火を見張る。誰かが自分の名前を呼ぶ」


 バルザは牙を見せる。


「そうなると、死ににくくなる」


 透は灰置き場を見た。


 水番。

 道番。

 黒炎番。

 灰布番。

 骨杭を打つ者。

 地図を写す者。

 炉を守る者。


 それは戦力だけの話ではない。


 生きる理由の話だ。


「増やす」


 透が言うと、バルザは満足そうに笑った。


「そうだ。それが王ってやつだ」


「違う」


「まだ言うか」


「王になりたいわけじゃない」


「なりたい奴だけが王になるとは限らねえよ」


 透は答えなかった。


 その時、外縁の鉄片が二つ鳴った。


 乾いた音。


 外縁防衛。


 灰置き場全体の空気が即座に変わる。


 笑い声が消え、子どもたちはルカの指示で水路側へ動く。

 イーシャは灰布を抱え、ダンが水瓶の蓋を閉じる。

 ガルドは防衛隊を骨杭側へ走らせる。

 ネイラの黒炎皿が外縁で揺れ、シェラの右目が強く光った。


「外縁接触。対象、腐骨鼠群。数、二十三。追跡札反応なし。後続、骨蛇二」


 セイルが息を呑む。


「魔物ですか」


 バルザが爪を鳴らす。


「試運転にはちょうどいいな」


 透は立ち上がった。


「全員、決めた通りに動け」


 声は大きくない。


 だが、灰置き場の者たちはそれで動いた。


 ガルドが叫ぶ。


「水路側、下がれ! 外縁組、骨杭の内へ入れるな! 黒炎番、合図まで待て!」


 ネイラが不満そうに黒炎を抑える。


「待てと言われると燃やしたくなる」


「待て」


 リィンが短く言うと、ネイラは舌打ちした。


 外縁に、腐骨鼠の群れが現れた。


 灰置き場の周辺に漂う水と食料の匂いに引かれたのだろう。

 骨と腐肉が混じった大鼠たちが、壁の隙間から滑り込もうとする。


 以前なら、これだけでも混乱していた。


 誰かが叫び、誰かが転び、骨杭の隙間から入り込まれ、水瓶へ向かわれていたかもしれない。


 だが、今は違う。


 灰骨外壁が、低く光った。


 腐骨鼠の先頭が骨杭に触れた瞬間、灰色の線が走る。


 鼠の体に絡んでいた腐敗命令が鈍る。

 動きが一拍遅れる。


 その遅れに、ガルドの防衛隊が槍を突き出した。


 骨槍が先頭の鼠を押し返す。


 ネイラの黒炎標が、ガルドの合図で燃えた。


 黒炎は鼠の体そのものではなく、腐った魔力の筋に食いつく。

 鼠は甲高い声を上げ、灰になって崩れた。


 イーシャの作った灰布を被った少年が、水瓶の前で震えながらも立っている。


 ダンが彼の肩を叩く。


「下がりすぎるな。ここを守るだけでいい」


「う、うん」


 骨蛇が二体、鼠の群れの後ろから滑り込んだ。


 長い骨の胴が、骨杭を巻き折ろうとする。


 バルザが前へ出る。


 一体の頭を掴み、地面へ叩きつける。

 だが、もう一体が横から抜け、灰布を抱えた子どもたちの方へ向かう。


 ルカが板を抱えたまま叫んだ。


「右の道、閉じて!」


 シェラが即座に反応する。


「右小路、閉鎖補助」


 古い保守板が動き、骨材で作った簡易柵が倒れて道を塞いだ。


 骨蛇の進路が変わる。


 そこへ、リィンの青い封印針が飛ぶ。


 針は骨蛇の頭に刺さらない。

 胴を動かす死んだ命令線を、空中で一点だけ縫い止める。


 骨蛇の動きが止まった。


 透が灰糸(かいし)を伸ばす。


 線の根元を喰う。


 骨蛇はただの骨束になって崩れた。


 最後に残った腐骨鼠の群れが、黒炎から逃げるように外縁の隙間へ走る。


 ガルドが叫ぶ。


「逃がすな、追うな! 外で倒す必要はない!」


 透は手を上げた。


 外縁の灰骨外壁に喰い止め(くいどめ)の灰が走る。


 腐骨鼠たちは壁の外側で動きを鈍らせ、黒炎標がその腐敗命令だけを焼いた。


 数匹は逃げた。


 だが、灰置き場の中へ入ったものはいない。


 水瓶も、炉も、子どもたちも無事だった。


 シェラが告げる。


「外縁防衛、成功。侵入、ゼロ。負傷、軽微二。水瓶被害、なし」


 静寂。


 次の瞬間、灰置き場に歓声が上がった。


 大きな勝利ではない。

 相手は腐骨鼠と骨蛇だ。


 だが、灰置き場にとっては違う。


 全員が決めた役割で動いた。

 子どもが道を閉じる指示を出した。

 灰布が水瓶を守った。

 黒炎標が命令を焼いた。

 灰骨外壁が侵入を鈍らせた。

 リィンの封印と透の灰が、要所だけを断った。


 透一人が全部倒したのではない。


 灰置き場が、自分たちの壁で守った。


 ガルドは片腕で杖を突き、深く息を吐いた。


「悪くない」


 それは、老兵にしては最大級の褒め言葉だった。


 ネイラは黒炎皿を見下ろし、少しだけ口角を上げる。


「燃え方も悪くない」


 イーシャは灰布を抱えた子どもを見て、目を潤ませていた。


「守れた……」


 ルカは板を胸に抱え、透を見た。


「道、合ってた?」


「ああ」


「道番、できた?」


「できた」


 ルカは小さく、でも確かに笑った。


 透は外縁を見る。


 低い灰骨外壁。

 まだ粗い。

 まだ弱い。

 王都の騎士団が来れば、一度で崩れるかもしれない。

 神殿の上位術者が来れば、何箇所も破られるかもしれない。


 だが、今は確かに守った。


 この壁は育つ。


 この場所も育つ。


 その時、シェラが右目を強く光らせた。


「地上帰灰標より通信反応。ベルディア側、緊急」


 灰置き場の空気がまた引き締まる。


 透は炉の前へ戻り、帰灰標へ手をかざした。


 灰の中に、ベルディアからの反応が浮かぶ。


 レオナの印。

 急ぎ。

 短い。


 ――王都神殿支部が動いた。

 ――聖令違反を理由に、ベルディアギルドへの監査団派遣。

 ――同行者に王都騎士三十、神殿封印官、勇者訓練隊への再召集命令。

 ――黒鞭・剣杯の残党も姿を消した。

 ――王冠印、次の中継点を消しに来る可能性あり。


 透は目を開けた。


 休む時間は長くない。


 灰置き場は一つ守った。

 だが、地上の戦いは進んでいる。


 ガルドが問う。


「戻るか」


「ああ」


「何人連れていく」


 透は灰置き場を見渡した。


 守るために残す者。

 地上で動く者。

 情報を運ぶ者。


 今までは、透たちだけで動くことが多かった。


 だが、これからは違う。


 勢力として動く。


「ガルドは防衛。ネイラは黒炎標を増やしてから地上入口まで来い。イーシャ、黒鞭の札を整理してシェラへ。ケイル、荷の移送計画を作れ。ダン、水番と避難路を固める。ルカは地上へ同行。道が要る。バルザ、リィン、シェラ、セイルは俺と戻る」


 指示が流れる。


 誰も、何をすればいいか迷わない。


 ガルドが頷く。


「灰置き場は任せろ」


 ネイラが黒炎皿を持ち上げる。


「入口まででいいのか?」


「ベルディア市内へはまだ出すな。魔族の姿は神殿に利用される」


「わかっている。面倒だが、今は燃やさない」


 イーシャが札束を抱える。


「すぐに整理します」


 ケイルが地図板へ向かう。


「荷の重さと人数を見ます」


 ダンは水瓶の蓋を確認する。


「水は守る」


 ルカは道番の板を抱え直した。


「道、見る」


 透は頷いた。


 灰置き場は、もう透がいないと何もできない場所ではない。


 まだ弱い。


 まだ小さい。


 だが、役がある。

 壁がある。

 道がある。

 連絡がある。

 残る者がいる。


 透は炉の前で灰骸刀の柄に手を置いた。


「地上へ戻る」


 灰が静かに舞う。


「王都が来るなら、こっちも整えて迎える」


 ガルドが低く笑った。


「砦らしくなってきたな」


 透は外縁の灰骨外壁を見た。


 旗はまだない。


 名もまだ掲げない。


 それでも、この場所はもう、ただの灰置き場ではない。


 捨てられた者たちが、自分たちの手で守り始めた砦だ。


 透は短く言った。


「行くぞ」


 リィンが隣に立つ。


 バルザが牙を見せる。

 シェラが記録板を閉じる。

 セイルが資料袋を抱える。

 ルカが道番の板を握る。


 炉の灰が、帰る道へ流れた。


 地上では、王都の次の手が動いている。


 灰の砦もまた、動き出した。


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