第111話 待つ理由
別のも自由に書きたいので、中途半端ですが一旦ここまで。
続きはだいぶ用意してあるので、反応あれば気分次第で載せていこうと思います。
灰標団ベルディア支部の朝は、黒鉄の炉の前から始まった。
旧水車倉庫の入口には、夜の戦いの跡が残っている。
割れた石畳。
荷車騎兵の車軸。
灰境商の黒い鐘の破片。
神殿の折れた聖杖。
そして、看板の下に据えられた黒鉄焼却炉。
シェラが仮に名づけた、戻し炉。
それは人の名前を燃やすための炉だった。
だが今は、灰標団の支部に置かれている。
燃やすためではない。
燃え残った名前を取り戻すために。
炉の前には、透、リィン、シェラ、ネイラ、ルカ、バルザが集まっていた。
レオナ、マリウス、オルガ、ガレンも立ち会っている。
真由と美琴は写し用の紙束を持ち、芽衣は救出者たちの様子を見ながら耳を澄ませていた。
戻し炉の表面には、白倉系の封印膜が薄く残っている。
灰境商の焼却命令はネイラが殺した。
だが、内部の灰受け皿にはまだ触れていない。
そこに、名前の燃え残りがある。
シェラは炉の横へ膝をつき、灰殻の指で外枠を叩いた。
「外蓋、三層。第一層、黒鉄。第二層、封印膜。第三層、焼却粉袋の圧力留め。力任せに開けると、袋が破裂します」
バルザが腕を組む。
「力任せは駄目か」
「雑な力任せは駄目です」
「丁寧な力任せなら?」
「必要です」
バルザは牙を見せた。
「いい言葉だ」
ネイラは黒炎皿を持ち、炉の下部を睨んでいた。
「火は死んでる。だが、死んだふりをしている火がある」
リィンが青い針を三本浮かせる。
「蓋の内側に、閉じる命令。開けたら挟む」
マリウス査察官の顔色が悪くなる。
「挟む、とは?」
シェラが淡々と答える。
「開封者の腕を炉内へ引き込み、焼却粉で処理する仕組みです」
「処理……」
レオナが眉間を押さえた。
「名前を燃やす炉に、触った奴の腕まで燃やす仕込みか」
ネイラが冷たく言う。
「いかにもだな」
透は戻し炉を見下ろした。
黒鉄の外蓋には、廃石橋での衝撃痕がある。
灰重断で割った前面とは違い、ここはまだ生きている。
壊せば中身が散る。
丁寧に開けなければならない。
だが、開けるには力がいる。
透は右腕を動かした。
昨夜の痛みは、まだ残っている。
リィンの針で落ち着いてはいるが、灰重断の重さが完全に抜けたわけではない。
リィンがその動きを見て、すぐに言った。
「右、駄目」
透は横を見る。
「まだ何も言ってない」
「使う顔」
バルザが吹き出した。
「顔で止められてるぞ、主」
「主じゃない」
リィンは透の右腕の前に立つ。
「今日は左」
「左だけで足りない」
「バルザがいる」
バルザが胸を叩く。
「いるぞ」
「オルガもいる」
オルガは腕を組んだまま言う。
「私は槍使いだ。炉の蓋開け役になった覚えはない」
シェラが即座に言った。
「Aランク冒険者、炉蓋保持補助に適性あり」
「適性で仕事を増やすな」
「重要です」
レオナが低く笑った。
「諦めろ、オルガ。ここでは強い奴が荷を持つ」
オルガは小さく息を吐き、槍筒を下ろした。
「一度だけだ」
透は戻し炉の前に立ち、考えた。
右腕を使えば早い。
だが、ここで右を壊せば次に動けない。
灰重断は強い。
だが、まだ身体が追いついていない。
力は使う。
ただし、使い方を選ぶ。
透は短く言った。
「左で押す。バルザが右。オルガは奥を支えろ。リィン、閉じる命令を止める。ネイラ、粉袋の火。シェラ、皿を抜け。ルカ、落ちる場所があれば言え」
全員が動いた。
言葉は少ない。
だが、役割は明確だった。
バルザが炉の右側へ立つ。
透は左側。
オルガは背面へ回り、黒鉄の縁に両手をかけた。
リィンの青い針が、蓋の内側へ沈む。
ネイラの黒炎が炉の底へ細く伸びる。
シェラは灰受け皿の引き出し口へ灰殻指を差し込んだ。
ルカは道番の板を抱え、炉の足元をじっと見ている。
「開けます」
シェラの声。
透とバルザが同時に力を入れた。
黒鉄の蓋が、低く唸る。
重い。
ただの蓋ではない。
閉じようとする命令と、圧力留めの仕掛けが、内側から噛みついてくる。
透は左腕で押す。
肩ではなく、腰から。
足を床へ沈め、体全体で黒鉄を押し上げる。
バルザは反対側で歯を剥いていた。
「いい重さだな!」
黒鉄が軋む。
オルガの額にも汗が滲む。
「笑う重さではない」
「笑わないと重いだろ」
「黙って押せ」
蓋が少し開いた。
その瞬間、内側から赤い火線が走る。
リィンの針が青く光った。
「閉じる命令、止めた」
ネイラの黒炎が底を舐める。
「粉袋、火を噛んでる。押さえる」
シェラの指が灰受け皿を掴む。
だが、皿は動かない。
「固定爪あり。力が必要」
透が歯を食いしばる前に、リィンが言う。
「右、使わない」
「わかってる」
透は左腕の力をさらに乗せた。
床が軋む。
黒鉄の蓋が、もう少し上がる。
シェラが灰殻腕を展開した。
少女の腕の中から薄い装甲板が開き、内部の保守爪が皿の縁を掴む。
「引きます」
灰受け皿が動いた。
ぎ、と音を立てて、黒い灰の詰まった皿が少しずつ外へ出てくる。
その途中で、ルカが叫んだ。
「止まって!」
透、バルザ、オルガが同時に止まる。
皿も止まった。
ルカは炉の下を指す。
「下の袋、息してる。今動かすと、落ちる」
ネイラが目を細める。
「本当だ。粉袋の縁が膨らんでる」
シェラが即座に補正する。
「圧力変化。ルカの警告により破裂回避」
バルザが荒い息を吐く。
「道番、炉の中まで見るのか」
ルカは首を横に振る。
「道じゃない。でも、落ちる道」
オルガが小さく笑った。
「それも立派な斥候だ」
ネイラが黒炎をさらに細く伸ばし、粉袋の反応を押さえる。
リィンの針が蓋の閉じる命令を深く縫った。
シェラが再び皿を引く。
今度は、動いた。
灰受け皿が外へ出る。
黒い灰の中に、白い骨片が混じっていた。
小さな骨札。
焼けかけた名前。
半分だけ残った文字。
灰に埋もれた細い金属板。
シェラが皿を受け取り、慎重に証拠台へ置く。
「灰受け皿、回収成功」
透たちは、ゆっくりと蓋を戻した。
黒鉄が閉じる。
どん、と低い音。
戻し炉は沈黙した。
透は左腕を下ろした。
右は使っていない。
だが、全身が重い。
リィンはすぐに透の右腕と左肩を見た。
「左、熱」
「問題ない」
「座って」
「またか」
「座って」
透は少しだけ黙り、近くの木箱に座った。
レオナがその様子を見て、真由へ小声で言う。
「命令の通し方を教えてほしいな」
真由は苦笑した。
「たぶん、真似できません」
リィンは透の左肩へ青い針を一本刺す。
右腕ではない。
今日は左。
透は黙って受けた。
ルカがそばに来て、小さく言う。
「今日は戻るの早かった」
「何が」
「座るの」
バルザが笑いを堪えきれず、ネイラにまた足を踏まれた。
シェラは灰受け皿の前に立っていた。
灰を風で飛ばさないよう、透明な薄板を被せる。
灰殻の指先が、黒い灰を少しずつ分ける。
中から、骨札が出てきた。
一枚目。
焼けているが、読める。
「ノイ・バルト」
ルカが顔を上げた。
「たぶんじゃない?」
シェラが頷く。
「ノイ・バルト、確定」
支部の奥で、ノイが自分の半白札を握りしめていた。
小さな狐血の子は、何度も瞬きをした。
「……ぼく、ノイ?」
ルカが走っていき、彼の前にしゃがむ。
「うん。たぶんじゃない。ノイ・バルト」
ノイは骨札を見た。
そして、声を出さずに泣いた。
二枚目。
「ミア・フェル」
鳥羽の少女が肩を震わせる。
芽衣がそっと背中を支える。
「ミア・フェル。名前、残ってたよ」
ミアは両手で口を覆い、小さく頷いた。
三枚目。
「ロク・セッタ」
犬耳の少年は、自分の胸に手を当てた。
「ロク……セッタ……」
まるで、失くした靴を見つけたように、何度もその名を口の中で転がす。
四枚目、五枚目、六枚目。
名前が出る。
半分焼けたものもある。
姓だけ残ったもの。
名の頭だけ残ったもの。
種族特徴と搬送元だけ残ったもの。
シェラは一つずつ分類する。
「白。名前確定」
「半白。名または姓の一部」
「灰。特徴のみ」
「黒。番号のみ」
「赤。死亡または焼却済み可能性」
イーシャが灰信線越しに棚の準備を伝えてきた。
――名簿番より。白札、半白札、灰札、黒札、赤札の棚を増やしました。地上支部と同じ分類で受けます。
ケイルからも文字が来る。
――骨札写しは二系統に分けろ。地上保管、奈落保管。荷札形式は混ぜるな。
ダンからも来た。
――灰受け皿を洗う水を普通の水瓶から取るな。汚れ水桶を使え。終わったら灰は埋めずに保管。
ネイラが低く呟く。
「水番、本当に細かいな」
ルカは真剣に頷く。
「水は大事」
マリウスは、名前が戻っていく様子を見ていた。
彼の査察帳には、戦闘記録や証拠分類だけではなく、今、子どもたちの名前が書き足されていく。
彼は小さく言った。
「これを、中央で読ませます」
レオナが問う。
「何をだ」
「炉の構造だけではなく、炉から戻った名前を。白倉本庫印や灰境商の帳場だけでは、数字として処理される可能性がある。ですが、名前が並べば違う」
透は木箱に座ったまま、マリウスを見た。
「数字にするな」
マリウスは頷いた。
「はい。数字にしません」
その時、ガレンが支部の入口から入ってきた。
外を見張っていた巨盾のAランクは、表情を少し険しくしている。
「レオナ。中央から早馬だ」
レオナが顔を上げる。
「もうか」
「いや、中央そのものではない。王都方面から来たギルド伝令だ。中央本部の仮命令を持っている」
支部の空気が変わる。
レオナが伝令を入れるよう合図した。
入ってきたのは、泥に汚れた若いギルド伝令だった。
息を切らし、手には封筒を握っている。
封蝋は中央ギルドのもの。
ただし、緊急仮命令を示す赤線が入っていた。
レオナが封を切る。
読み進めるにつれ、眉が上がる。
「内容を読む」
支部の全員が静かになる。
「一つ。白花修道院、北巡礼宿、廃石橋、灰境商、白倉本庫印に関する証拠を、ベルディアギルドおよび中央査察官マリウスの共同管理下に置くこと」
マリウスが小さく頷く。
「妥当です」
「二つ。灰標団ベルディア支部を、暫定的に中央ギルド保護対象施設として扱うこと。神殿、王都騎士、貴族家、商会による単独接収を認めない」
支部内に、低いざわめきが走る。
レオナの口元がわずかに上がった。
「盾が一枚増えたな」
透は何も言わない。
レオナは続ける。
「三つ。灰標団を、S級案件対応候補として暫定登録。正式審査のため、中央本部より高位査察団および特別冒険者を派遣する」
バルザが笑う。
「また強いのが来るのか」
オルガが言う。
「特別冒険者という書き方なら、Sランクか、その代理だな」
支部の空気がさらに重くなる。
Sランク。
Aランクの先。
街を守る者ではなく、戦場を変える者。
透は静かに聞いていた。
レオナは最後の文を読む。
「四つ。篠宮透個人については、Sランク審査対象として記録。なお、当人の拘束、移送、強制鑑定、職能抽出、神殿引き渡しを、中央ギルドの承認なく行うことを禁じる」
真由が息を呑んだ。
美琴は胸元を押さえる。
相良は目を閉じた。
職能抽出。
その言葉が、ここに書かれた。
つまり中央ギルドは、そこまで想定している。
透を、素材として扱う手を。
レオナは封書を下ろした。
「中央も馬鹿じゃない。白倉と神殿が何を考えるか、わかっている」
マリウスは深く頭を下げた。
「私の報告が届いたのだと思います。灰喰いを危険対象としてではなく、証拠保全と救出に関与する当事者として扱うべきだと書きました」
透は彼を見た。
「そうか」
「それだけですか」
「助かる」
マリウスは少しだけ驚いた顔をした。
それから、静かに頷いた。
レオナが封書を畳む。
「さて、ここで問題だ。聖灯孤児舎と廃石橋、王都東倉庫区、白倉本庫。道は出た。普通なら次は聖灯孤児舎へ踏み込む」
バルザが透を見る。
「行くのか」
透は答えなかった。
代わりに、戻し炉の灰受け皿を見た。
名前が戻り始めている。
だが、まだ全部ではない。
救出者は増えた。
捕縛者も増えた。
支部には戻し炉という重い証拠がある。
中央の仮命令も届いた。
神殿は引いたが、次の手を打つ。
白倉も灰境商も、炉を奪い返したいはずだ。
透は指を立てた。
「整理する」
全員が黙った。
「一つ。聖灯孤児舎はジグが口にした囮だ。名前が出た以上、敵も見られることを想定している」
二本目。
「二つ。廃石橋は潰した。だが、王都東倉庫区と白倉本庫の道は残っている。敵はそっちを守る」
三本目。
「三つ。戻し炉、骨札、捕縛者、救出者。今の支部には守るものが多い。空にすれば、奪われる」
四本目。
「四つ。中央の仮命令が来た。これは盾になる。盾が届いたなら、使う前に割らせる理由はない」
五本目。
「五つ。名前の復元が終わっていない。先に照合すれば、踏み込む場所と助ける相手が増える」
透は手を下ろした。
「だから今は行かない」
バルザが少し意外そうに眉を上げた。
「待つのか」
「待つ理由がある」
透は即答した。
「敵が燃やすなら行く。敵が逃げるなら追う。だが、敵が誘っているなら踏まない。ここで名前を戻し、支部を固め、中央の盾を使う」
レオナがゆっくりと笑った。
「いい判断だ」
オルガも頷く。
「無謀ではない。急ぐ理由と待つ理由を分けられるなら、指揮官としても扱える」
透は眉をひそめた。
「指揮官じゃない」
ガレンが低く笑う。
「今さらだな」
ルカが灰受け皿のそばで言った。
「今日は、戻る日?」
透は頷いた。
「そうだ」
リィンが透の左肩から針を抜く。
「なら、座っててもいい日」
「それは違う」
「違わない」
透は立ち上がろうとして、リィンに肩を押さえられた。
強くはない。
だが、透は止まった。
シェラが記録する。
「透、再着座。リィンの軽圧により停止。再現性高」
「記録するな」
「重要です」
支部の中に、また少しだけ笑いが戻った。
その笑いの中で、戻し炉の灰から、また一枚の骨札が見つかる。
半分焼けている。
名の一部しか残っていない。
ルカがそれを見て、炭筆を持つ。
「半白?」
シェラが頷く。
「半白」
ルカは小さな札に書いた。
――いつか戻す。
透はその文字を見た。
今は動かない。
だが、止まったわけではない。
待つ理由があるから待つ。
戻すために。
守るために。
次に踏み込む時、迷わず潰すために。
灰標団ベルディア支部の朝は、戻し炉の灰を分ける音と、骨札に名前を書く音で満ちていた。
外では、中央ギルドの赤線封書が扉に貼られる。
神殿も、白倉も、灰境商も、もうこの支部をただの倉庫とは呼べない。
そして透は、リィンに肩を押さえられたまま、灰受け皿から戻る名前を見ていた。
力で炉を持ち帰った。
理で踏みとどまった。
そのどちらも、灰標団の戦いだった。




