何故大衆を馬鹿にしてはいけないのか
私は高校生くらいまで「大衆は馬鹿なので超越しなければならない」みたいな事を考えていましたが、30超えたあたりから段々と違うのではないかと思うようになりました。他者を冷笑し馬鹿にする側に立つ時、人は神になって人間でなくなってしまうからです。
生まれたての赤ん坊は世界と自分の境界が分からないそうですが、世界と触れ合う事で自他境界を学び、自己を認識できるようになり大人になっていきます。しかし自己を認識するという事はいい事ばかりでもありません。自己を認識することで、利己的に他者から生命を奪い生命活動の糧とする自己の醜さに気づく事になりますし、自己の死を理解する事にもなるでしょう。そういった現実に向き合いながら折り合いをつけていくのが人間として成長するという事でしょう。
ところがインターネットやSNSが隆盛する現代では受け取る情報を取捨選択し気持ちいい情報だけ摂取する事が容易になってしまいました。やろうと思えば自己と向き合わずに幻想の世界を生きていくことすら可能です。例えばTwitterなんかを開いてみれば自分と考えの違う人の矛盾した発言を冷笑するバズツイートやバカな事をやった人物が袋叩きにされている様なんかが流れてきて簡単に気持ちよくなれてしまいます。
そうやってアホな連中を眺めていると、自分が抱えている矛盾なんて取るに足らない事に思えてきますし、極悪非道な大量殺人犯なんかを取り出してみれば自分の醜さなど気にならなくなってきます。……このように他者を見下して冷笑してばかりいると、自分が見えなくなってきます。世界を包括する視点を持ちながら誰とも共有する事ができない孤独も、巨大な自我を持ちながら世界の一部の中に消えていく矛盾した運命も視界に入らなくなります。矛盾なんてものは消失し自分が正義の白の側に立って世界と調和しているような気すらしてきます。
確かに自分と向き合い過ぎてしまうと辛すぎて生きていけなくなる恐れはありますが、全く自己を省みないというのはそれはそれでもったいないように感じます。矛盾した状態で生き続けるのが息苦しいのはそうかもしれませんが、どうせそのうち死んで強制的に世界と一体化させられて矛盾とは無縁になれるのですから、何も焦る必要はありません。生きているうちは矛盾してなんぼでしょう。矛盾こそが自我であり生命であり人間なのです。鳥になったら空を飛んでみたくなるように、チーターになったら走ってみたくなるように、せっかく人間に生まれたのだから人間にしかできない自己を見つめてみるという事をやってみるのもいいんじゃないでしょうか。
そのためにはまず他者を見下すという事をやめなければなりません。他者も自分と同じ人間であるという事を信じ、願わなければなりません。これはただリベラル的に平等を訴えればいいとか戦争に反対しとけばいいという簡単な話ではありません。差別する人間や戦争で民間人を虐殺する独裁者すらも同じ人間であると信じなければならないのです。例えば大量殺人をしている男がいたとして、彼を「お前は人間じゃない」と非難する事は簡単ですが、彼が人間性のゆえにこそ非道を行っているという事も考えられるという事です。彼は自己の矛盾に気づいてしまったからこそ、目をそらす為に他者を痛めつけ、矛盾を解消しようとしている……そういう風に考えることもできるでしょう。そして我々も、自分の矛盾から目をそらす為に何かを攻撃するという点では、彼と同様の愚を犯していると考える事もできます。もちろん差別や虐殺を批判するなと言いたいわけではありませんし、それはそれで大いに批判すればいいでしょう。しかし「あいつらは人間じゃない」というように他者を安易に非人間化しているようでは自己が見えなくなるだけで憎しみの連鎖はいつまでも終わりません。肝心なのは他者の中に人間を、自分自身を見い出すことです。
ドストエフスキーは町中の酔っ払いや娼婦はもちろん非道の思想犯や強盗殺人犯すらも複雑で巨大な人間として描いています。こういった描き方に対して「どいつもこいつも面白い人間ばかりで不自然だ。現実にはこんな深みのある人間ばかりではない」とドストエフスキーを批判する事はできるかもしれません。しかし他人の内心というのは知りようがありません。本当は誰もかれも本当は面白い人ばかりなのかもしれません。肝心なのはドストエフスキーは他者の自我の巨大さを信じたという事です。それこそが彼の示した最も重要な道徳でした。
人は自分を映す鏡とはよくいったもので、自分が何を信じたいかで他者の見え方は全く違ってきます。同じ一人の人間を見たとしても、その生き方に人間性を見出すこともできますし非人間性を強調して見下して悦に浸る事もできます。しかし他者を見下して自我の正当性を補強するようなやり方では、いざ自分が死にそうになった時にいきなり矛盾を突き付けられる事になりかねません。見下して見下して見下して、神になったつもりになっていても、結局見下した連中と同様に醜く老いていってたった一人で死ななければなりません。一緒にアホを見下してくれた仲間も誰も助けてくれません。「私は神のように巨大な人間のはずなのに、どうして一人で老いて死んでいかねばならない?」そうやって死の床に就いてから今さらに自己の矛盾に気づくより、あらかじめ心の準備をしておくに越したことはないでしょう。まずは自分が大衆であると、人間であると気づくことです。他者が自分と同じように人間であると気づくことです。世界平和がありうるとすればその先にしかないでしょう。




