弟に婚約者を奪われ追放された薬草好きの伯爵令息、帝国の薬草園で幸せなスローライフを送る!俺がいなくなった領地は薬草不足で崩壊しました(ノД`)シクシク
小国ルクセンランド王国。
その北部にある名門――グレーヴェンマッハ伯爵家の庭園で、一人の青年がしゃがみこんでいた。
「うん……よく育ってる」
青年の名はアクセス=グレーヴェンマッハ。
緑の髪をした穏やかな青年で、貴族らしく剣や政治を学ぶより、薬草を育てることに夢中だった。
彼は小さな芽を優しく撫でる。
「この回復草があれば、怪我人も助かるはずだ」
だが――。
「兄上は、またそんなことをしているのですか?」
背後から、鼻で笑う声がした。
振り向くと、そこに立っていたのは弟のネトルド。
同じく緑の髪だが、鋭い目つきをしている。
その隣には――
黄色い髪の少女。
アクセスの婚約者だったはずのクレルボー子爵令嬢アルビーがいた。
「アルビー……?」
アクセスは困惑した。
するとネトルドは肩をすくめる。
「兄上、残念ですが――」
「アルビー様は、私の婚約者になりました」
「なっ……?」
アルビーは腕をネトルドに絡め、冷たい笑みを浮かべた。
「だってアクセス様って、薬草ばかりで貴族らしくありませんもの」
「私は将来、伯爵夫人になる方がいいですわ」
つまり――
兄は跡取り候補から転落し、次期当主は、弟になるということだ。
その夜。
アクセスは父、ワルソック伯爵に呼び出された。
「アクセス、お前には失望した」
豪華な執務室で、父は冷たい目を向ける。
「男のくせに薬草園ばかり。剣も政治も駄目だ」
横では継母のイライザが優雅に笑っている。
「まあ、あなた。アクセスは土いじりが好きなようですわ」
だが、その声には、明らかな嘲りが混ざっていた。
そして、父は決断を下した。
「今日をもってお前を勘当する」
「領地から出ていけ」
「え……?」
アクセスは言葉を失った。
「跡取りはネトルドだ」
「お前は、この家には必要ない」
すべて――
継母の策略だった。
アクセスの悪口を伯爵に語り、失望させたのだった。
領地内からの追放処分。
数日後。
アクセスは荷馬車に乗り、国境を越えていた。
行き先は隣国――スペイラ帝国。
この場所を選んだのは、屋敷の執事からの助言があったからだ。
旧モナコラ領で薬草園が盛んに行われている。
その言葉を耳にして、そこを目指すことにした。
所持金は少しだけ。
だが、彼の表情は意外と穏やかだった。
「……これで、自由に薬草を育てられる」
やがてたどり着いたのは、帝国の町モナコラ。
そこで彼は、一つの薬草園を見つける。
看板にはこう書かれていた。
エマ商会 薬草園
アクセスは思い切って扉を叩いた。
すると現れたのは、明るい女性。
「いらっしゃい。何か用かしら?」
「えっと……薬草の仕事を探していて」
女性は目を丸くした。
「薬草?」
「はい」
アクセスは畑を見て言った。
「この土、少し乾きすぎています」
「あと、回復草はこの植え方だと育ちません」
女性は驚く。
「……詳しいのね」
「薬草が好きなので」
女性は笑った。
「いいわ。今日から働きなさい」
「私はサリー。エマ商会の薬草園のスタッフでここの責任者よ」
こうして――
追放された伯爵令息は、
帝国の小さな薬草園で働くことになった。
◇
その年の秋。
アクセスの育てる薬草は驚くほど品質が高かった。
回復草
解毒草
止血草
どれも帝都でも評判になる。
「モナコラの奇跡の薬草」
そう呼ばれるようになった。
アクセスは毎日、畑を耕しながら笑う。
「いい天気だな」
「今日も薬草が元気だ」
サリーも笑う。
「あなたが来てから商会の薬草部門は大繁盛よ」
アクセスは思った。
(追放されてよかった)
心からそう思えた。
その頃 グレーヴェンマッハ領
「ぎゃああああ!!」
悲鳴が響く。
突然現れた魔物により、領地は大混乱になっていた。
戦いの中で――
ネトルドは重傷を負う。
腕と足をひどく斬られた。
「た、助けてくれ……」
だが医師は顔を曇らせた。
「回復草が足りません」
「以前は伯爵家の薬草園から届いていたのですが……」
そう。
アクセスが育てていた薬草だった。
しかし彼はもういない。
「治療が遅れると……」
「後遺症が残ります」
結果――
ネトルドは足を引きずる体になった。
アルビーは怒鳴る。
「こんな体じゃ将来が!」
そして、さらに。
魔物被害で領民が怒り出した。
「薬草が足りないのは伯爵のせいだ!」
「前の若様は薬草を作ってくれていた!」
こうして――
グレーヴェンマッハ伯爵家は
急速に没落していった。
その頃。
スぺイラ帝国の旧モナコラ領であるマタドラゴーネス侯爵領。
アクセスは畑でのんびりしていた。
「サリーさん、回復草が咲きましたよ」
「ほんと?」
「今年は大豊作です」
青空の下。
追放された青年は――
誰よりも幸せなスローライフを送っていた。
◇
――冬の気配が近づく頃。
グレーヴェンマッハ領の屋敷の一室で、ネトルドは片足を引きずりながら椅子に座っていた。
窓の外では、荒れた畑と痩せ細った領民の姿が見える。
「くそっ……こんなはずじゃ……」
机を叩いたその時、執事が一枚の新聞を差し出した。
「坊ちゃま。帝国から届いたものです」
「帝国だと?」
ネトルドは苛立ちながらも新聞を広げる。
そこには大きくこう書かれていた。
――モナコラの奇跡の薬草師、新種の治癒草を開発
――重度の後遺症すら改善
「……なに?」
記事の中央には、一人の青年の挿絵。
穏やかな表情で薬草を手にする姿――
「アクセス……!」
ネトルドの目が見開かれた。
さらに記事にはこう続いている。
――足の不自由だった兵士が、歩けるようになった
――神の奇跡とも呼ばれる新種の薬草
ネトルドの呼吸が荒くなる。
(そんな……馬鹿な……)
だが、すぐにその表情は歪んだ笑みに変わった。
「……なるほどな」
ゆっくりと呟く。
「つまり……あいつを使えばいい」
◇
数日後。
アルビーは豪華な馬車に乗り、スペイラ帝国へと向かっていた。
揺れる車内で、彼女は鏡を見ながら微笑む。
「ふふ……アクセス様。きっとまだ私のことを想っているはずですわ」
かつて自分に優しくしていた青年。
その性格は誰よりも理解している。
「少し甘い顔をすれば……すぐに言うことを聞くでしょう」
そう言って、薄笑いを浮かべた。
◇
モナコラの町――エマ商会の薬草園。
冬前の澄んだ空気の中、アクセスは畑を見回っていた。
「この土なら、来年はもっといい回復草が育つな」
「ほんと、あなたが来てから全部変わったわね」
サリーが腕を組んで笑う。
その時――
「アクセス様!」
甲高い声が響いた。
振り向くと、そこには見覚えのある姿。
「アルビー……?」
豪華なドレスをまとった彼女は、にこやかに近づいてくる。
「お久しぶりですわ。ずっとお会いしたかったんですの」
まるで何もなかったかのような態度だった。
サリーは眉をひそめる。
「……誰?」
「えっと……昔の知り合いです」
アクセスが困ったように答えると、アルビーは一歩前に出た。
「今日はお願いがあって来ましたの」
「お願い……?」
アルビーはわざとらしく目に涙を浮かべた。
「ネトルド様が……大けがをなさって……」
「!」
「医者も手の施しようがないと言って……このままでは……」
震える声。
だがその奥にある計算高さに、サリーはすぐに気づいた。
「だから――あなたの薬草を分けてくださいな」
空気が凍る。
サリーは一歩前に出た。
「……ふざけないで」
低い声だった。
「追放しておいて、今さら何を言ってるの?」
「それは……」
「この人がどんな扱いを受けたか知ってる?」
アルビーは言葉に詰まる。
サリーはさらに畳みかける。
「帰って。ここはあなたたちの来る場所じゃない」
その言葉に、アルビーの顔が歪んだ。
だが――
「……サリーさん」
静かに、アクセスが口を開いた。
「薬草……分けてあげてもいいですか?」
「は?」
サリーが振り返る。
「どうして!?」
アクセスは困ったように笑った。
「だって……助かるなら、その方がいいと思うんです」
「でも――!」
「僕が育てた薬草で、誰かが助かるなら……それでいいです」
その言葉に、サリーはしばらく黙り込んだ。
そして――深くため息をつく。
「……本当にお人好しね、あなた」
「すみません」
「謝らないで」
サリーは腕を組み、そっぽを向いた。
「今回だけよ」
「ありがとうございます」
アクセスは深く頭を下げた。
◇
数日後。
グレーヴェンマッハ領。
「う……あ……?」
ベッドの上で、ネトルドが目を覚ます。
そして――ゆっくりと体を起こした。
「動く……?」
足に力を入れる。
立つ。
歩く。
「なっ……!?」
驚愕の声が上がった。
「完全に……治っている……!」
医師が震える声で言う。
「信じられません……あの傷が……こんな短期間で……」
ネトルドは笑い出した。
「はは……はははは!」
そして、ゆっくりと呟く。
「やっぱりな……アクセス……」
目に浮かぶのは、弟を見下す優しい兄の顔。
だがその目は、もはや兄弟を見るものではなかった。
「これは使える」
低く、歪んだ声。
「あの薬草……我が領地で育てれば……」
机を叩く。
「莫大な金になる!」
アルビーも笑みを浮かべる。
「ええ。あの人は簡単に利用できますわ」
ネトルドは立ち上がった。
「次は……薬草の栽培方法を吐かせる」
「手段は問わない」
その目に宿るのは、欲望と執念。
◇
一方、モナコラ。
アクセスはいつも通り畑に立っていた。
「今年もいい出来だな……」
柔らかな風が吹く。
だがその背後で――
静かに、悪意が近づいていることに。
彼はまだ、気づいていなかった。
◇
――数日後。
モナコラの薬草園に、一通の手紙が届いた。
「アクセス宛てよ」
サリーが無造作に差し出す。
「実家からみたいね」
「実家……?」
アクセスは一瞬だけ表情を曇らせたが、ゆっくりと封を切った。
中には、重々しい筆致の文章が記されている。
『グレーヴェンマッハ伯爵ワルソックより命ずる。
過去の処分を取り消し、お前の勘当を撤回する。
速やかに帰還し、伯爵家の薬草園を再建せよ。
これは命令である』
短く、冷たい文面だった。
そこに謝罪の言葉は一切ない。
アクセスはしばらく無言でそれを見つめ――
「……そっか」
小さく呟いた。
「何よ、それ」
サリーが横から覗き込み、すぐに顔をしかめた。
「命令って……ふざけてるの?」
紙を奪い取り、乱暴に読み上げる。
「追放しておいて、都合が悪くなったら戻ってこい? しかも命令? なにこれ」
そのまま紙をぐしゃりと握りつぶした。
「こんなの無視しなさい」
怒りを隠そうともしない。
だが次の瞬間、ふと視線を落とす。
「……まさか、帰るつもりじゃないでしょうね?」
少しだけ、不安そうな声だった。
アクセスは驚いたようにサリーを見る。
「どうしてそう思うんですか?」
「だって……」
サリーは言葉に詰まる。
「……あんたの家でしょ」
ぽつりと呟いた。
アクセスはしばらく黙っていたが――
ふっと笑った。
「僕の居場所は、ここですよ」
そして、サリーの手から手紙を受け取ると。
びり、と音を立てて破いた。
ためらいはなかった。
「え……」
「もう、あそこは僕の帰る場所じゃないです」
細かく裂かれた紙片が、風に乗って舞う。
「ここで薬草を育てて、誰かの役に立てるなら……それで十分です」
その言葉に、サリーはしばらく呆然としていたが――
やがて、ふっと笑った。
「……ほんと、変な人ね」
けれど、その表情はどこか嬉しそうだった。
◇
一方その頃。
グレーヴェンマッハ伯爵家では――
「戻らないだと!?」
ワルソック伯爵の怒声が屋敷に響いた。
机を叩き、顔を真っ赤にする。
「生意気な……!」
「所詮は落ちこぼれと思っていましたが」
イライザが扇子で口元を隠しながら笑う。
「少しは自我があるようですわね」
ネトルドは椅子に座ったまま、静かに目を細めた。
「……いいえ、父上」
「問題ありません」
「何か考えがあるのか?」
ネトルドはにやりと笑う。
「兄上は……甘い人間です」
「情に弱い」
そして、ゆっくりと告げた。
「アルビーに“病気になった”ことにしましょう」
「余命わずかで、兄上に会いたがっている、と」
イライザがくすりと笑う。
「まあ……悪趣味ですこと」
「ですが効果的でしょう?」
ネトルドは確信していた。
「あの人は、昔アルビーに惚れていた」
「必ず来ますよ」
◇
数日後。
再び、モナコラの薬草園。
「……また手紙?」
サリーが眉をひそめる。
嫌な予感がした。
アクセスは静かに封を開く。
そして――顔色が変わった。
「どうしたの?」
「アルビーが……」
震える声で言う。
「重い病気で……もう長くないって……」
「……は?」
サリーは思わず間の抜けた声を出した。
「そんな都合よく?」
手紙を奪い取り、ざっと目を通す。
「……怪しすぎるでしょ」
率直な感想だった。
「嘘なんじゃないの?」
「でも……」
アクセスは視線を落とす。
「本当だったら……」
その一言に、サリーは口を閉ざした。
しばらくの沈黙。
やがてアクセスは顔を上げる。
「少しだけ、様子を見に行ってきます」
「ダメ」
即答だった。
「絶対に罠よ」
「かもしれません。でも……」
「でもじゃない!」
サリーは思わず声を荒げた。
「まだ好きなの? その女のこと」
空気が張り詰める。
アクセスは驚いたように目を見開いた。
そして、ゆっくりと首を振る。
「昔は、好きでした」
少し間をおいてから続ける。
「でも……今は違います」
サリーの視線が揺れる。
「じゃあ、なんで――」
「放っておけないだけです」
少し照れたように笑った。
「それに……」
一歩、近づく。
「今は、サリーさんといる毎日が楽しいです」
「……え?」
一瞬、時間が止まった。
サリーの頬が、じわじわと赤くなる。
「な、なに言ってんのよ……!」
だが次の瞬間――
ぐい、とアクセスを引き寄せた。
ぎゅっと抱きしめる。
「……馬鹿」
小さな声。
「そういうの、今言うな。照れるでしょ……」
アクセスは戸惑いながらも、少しだけ笑った。
「すみません」
「謝るな!」
サリーは顔を隠したまま言う。
やがて、そっと離れる。
「……で?」
「行くの?」
「はい」
「はぁ……」
深いため息。
「一週間よ」
「それ以上は許さない」
「はい」
「絶対に戻ってきなさい」
「もちろんです」
アクセスは優しく頷いた。
「ここが、僕の帰る場所ですから」
その言葉に、サリーはもう何も言えなかった。
ただ、小さく頷く。
◇
翌朝。
アクセスは荷物をまとめ、モナコラの町を出た。
向かう先は――
グレーヴェンマッハ伯爵家。
かつて自分を追放した場所。
そして今――
嘘かもしれない“呼び声”に導かれて。
彼は歩き出す。
その先に待つものが、罠だとも知らずに。
◇
――数日後。
グレーヴェンマッハ伯爵家の門の前に、アクセスは立っていた。
重厚な鉄門。見慣れたはずの屋敷。
だがその空気は、かつてよりもどこか冷たく感じられた。
(本当に……アルビーは大丈夫だろうか)
胸の奥に不安を抱えながら、門をくぐる。
使用人たちは彼の姿を見ても驚く様子はなく、むしろどこか無表情だった。
やがて、応接間へと通される。
扉が開いた瞬間――
「アクセス様! お久しぶりですわ!」
明るい声が響いた。
「……え?」
そこに立っていたのは、アルビー。
しかも――
血色もよく、元気そのものの姿だった。
「アルビー……? 体は……」
「ええ、とっても元気ですわ!」
くるりと一回転して見せる。
その様子に、アクセスは完全に言葉を失った。
「そんな……だって、手紙には……」
「手紙?」
アルビーは首をかしげ――
そして、くすりと笑った。
「ふふ……あれは嘘ですわ」
「なっ……」
その瞬間、背後から低い声が響く。
「やっと来たか、愚か者め」
振り向くと、そこにはワルソック伯爵とネトルドが立っていた。
アクセスの顔から血の気が引く。
「父上……これは……」
「決まっているだろう」
伯爵は冷たい目で見下ろす。
「お前を呼び戻すための策だ」
「策……?」
「手紙を送ってから、どれだけ待たせたと思っている」
次の瞬間――
バキッ!
鈍い音が響いた。
「ぐっ……!」
アクセスの頬に、伯爵の拳が叩き込まれる。
そのまま床に倒れ込んだ。
「な、なぜ……」
「なぜだと?」
伯爵は吐き捨てる。
「命令したはずだ。すぐに戻れと」
「それを無視して……のうのうと過ごしていたとはな」
アクセスは唇を噛みしめた。
「……僕は、もうこの家の人間じゃないはずです」
「だから……戻るつもりはありません」
ゆっくりと立ち上がる。
「アルビーが無事なら……僕は帰ります」
「モナコラに」
その言葉に、ネトルドの眉がぴくりと動いた。
「帰る、だと?」
「はい」
はっきりと言い切る。
「僕の居場所は、あそこです」
――次の瞬間。
ドゴッ!!
「がはっ……!」
ネトルドの拳が、腹にめり込んだ。
呼吸が止まり、その場に崩れ落ちる。
「調子に乗るなよ、兄上」
低く、冷たい声。
「誰が帰っていいと言った?」
アクセスは必死に息を整えながら顔を上げる。
「僕は……もう……」
「黙れ」
ネトルドは無表情で言い放つ。
「お前には、まだ価値がある」
「その薬草の知識……すべて吐き出してもらう」
背後で、伯爵が頷く。
「薬草園を再建させる」
「それが終わるまで――」
ネトルドが指を鳴らす。
すると、屈強な兵士たちが現れた。
「こいつを連れていけ」
「地下牢へ」
「はっ!」
腕を掴まれる。
「や、やめてください……!」
「僕は……」
「うるさい」
そのまま引きずられるように廊下を進み、暗い階段を降りていく。
湿った空気。
重い鉄の扉。
――ギィィ……
地下牢の中へと放り込まれた。
ドサッ!
「うっ……」
冷たい石の床に打ち付けられる。
扉が閉まり、鍵の音が響いた。
「ここから出たければ――」
外からネトルドの声がする。
「薬草園を作ると言え」
「それまで出さない」
足音が遠ざかっていく。
やがて、完全な静寂が訪れた。
暗い。
冷たい。
何もない空間。
アクセスはしばらくそのまま動けなかった。
やがて――
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
「騙された……」
ぽつりと呟く。
「僕が……悪かったのかな……」
膝を抱える。
頭の中に浮かぶのは――
モナコラの青空。
暖かな日差し。
そして――
『ダメ。絶対に罠よ』
サリーの声。
「……サリーさん」
胸が締め付けられる。
「あなたの言う通りにしていれば……」
ぽろり、と涙がこぼれた。
「こんなことには……ならなかったのに……」
拳を握る。
だが、力は入らない。
「まさか……ここまで……」
震える声。
「こんなことまでして……僕を……」
信じていたわけではない。
それでも――
ここまで冷酷だとは思っていなかった。
「……ひどいな」
小さく呟く。
涙が止まらなかった。
暗い地下牢の中で。
追放された青年は――
再び、すべてを奪われようとしていた。
◇
――翌日。
アクセスは、再び地上へと引きずり出されていた。
「ほら、さっさと働け」
兵士に背中を押され、彼はかつて自分が世話していた薬草園へと連れてこられる。
だが――
「……っ」
思わず息を呑んだ。
そこに広がっていたのは、かつての面影を完全に失った荒れ地だった。
土はひび割れ、雑草が伸び放題。
そして――
「全部……枯れてる……」
回復草も、解毒草も、止血草も。
一本も生き残っていなかった。
アクセスは膝をつき、土を手に取る。
「……栄養が完全に抜けてる」
指先で崩れる乾いた土。
水分も、有機質も足りない。
「これじゃ……」
振り返る。
「父上。これを再建するには、最低でも一年は――」
「言い訳か?」
言い終わる前に、拳が飛んだ。
ドゴッ!
「がっ……!」
頬を打たれ、その場に倒れ込む。
「すぐにやれと言っている!」
伯爵の怒声。
「ですが、土が死んでいては……!」
「黙れ!」
今度はネトルドの蹴りが腹に入る。
「お前の事情などどうでもいい」
「結果を出せ」
息ができない。
だが、それでも必死に言葉を絞り出す。
「……無理です」
「モナコラから苗を持ってこないと……」
「は?」
ネトルドの目が細くなる。
「逃げる気か?」
「違います……再建するには、それしか……」
バキッ!
再び拳が振り下ろされた。
視界が揺れる。
「ふざけるな!」
横から、甲高い声が飛んだ。
「ほんと役立たずですわね!」
アルビーだった。
「こんな簡単なこともできないなんて」
さらに、継母イライザも口を開く。
「まあ……期待する方が間違いでしたわね」
冷たい笑み。
「土いじりしかできない無能ですもの」
嘲笑が降り注ぐ。
アクセスは地面に倒れたまま、何も言えなかった。
拳を握る力すら残っていない。
(……もう、無理だ)
心のどこかが折れかけていた。
◇
それから三日。
アクセスは、毎日薬草園に立たされていた。
だが状況は何も変わらない。
どれだけ手入れをしても、土は死んだまま。
芽すら出ない。
その日も、見張りの兵士が一人、腕を組んで立っていた。
「おい、さぼるなよ」
「……はい」
力なく返事をする。
その時――
「坊ちゃま」
低い声がした。
振り向くと、そこには執事が立っていた。
かつて、アクセスにモナコラを勧めてくれた人物だ。
「……何か?」
見張りに気づかれないよう、執事はさりげなく近づく。
そして――
すっと、小さな紙片を手に握らせた。
「……?」
そのまま何事もなかったかのように去っていく。
アクセスは胸の鼓動を抑えながら、そっと手の中を見る。
小さく折りたたまれたメモ。
広げる。
そこには、短くこう書かれていた。
『明日、昼。薬草園。
――マーク』
「……マーク?」
聞いたことのない名前。
だが――
(もしかして……)
脳裏に、ある人物が浮かぶ。
「……サリーさん」
かすかな希望が胸に灯った。
◇
翌日。
アクセスは、いつも通り薬草園へと連れてこられた。
見張りは、昨日と同じ兵士が一人。
空は晴れている。
風も穏やかだ。
(本当に……来るのか?)
不安と期待が入り混じる。
その時だった。
「ん?」
見張りの兵士が首をかしげる。
「なんだ、あれ――」
次の瞬間。
ゴンッ!
「ぐはっ!?」
背後から何者かに殴られ、兵士はその場に崩れ落ちた。
「なっ……!?」
アクセスが目を見開く。
現れたのは――
「よっ」
軽い調子の青年。
短髪で、身軽そうな装備をしている。
そして、その隣には――
「大丈夫?」
小柄な少女。
双子のようによく似た二人組だった。
「あなたたちは……?」
青年はにやっと笑う。
「俺はマーク」
親指で隣を示す。
「こっちは妹のライム」
「よろしくね」
ライムがにこっと笑う。
そしてマークは、少し真面目な顔になる。
「サリーさんから依頼された」
「……!」
やはり、そうだった。
「迎えに来たぜ」
「モナコラまでの案内役だ」
アクセスの胸が熱くなる。
「サリーさんが……」
「心配してたぞ」
マークは肩をすくめる。
「“絶対に面倒なことになるから、迎えに行け”ってな」
ライムも頷く。
「サリーさん、すごく怒ってた」
「……そう、ですか」
思わず、苦笑がこぼれた。
だが――
同時に、強い決意が湧き上がる。
「行きます」
迷いはなかった。
「ここから出ます」
「よし、決まりだな」
マークは周囲を見回す。
「見張りは今のところ一人だけ」
「でもすぐに気づかれる」
ライムが真剣な顔で言う。
「急いで」
アクセスは一度だけ、屋敷の方を振り返った。
かつての家。
だがもう――
戻る場所ではない。
「……さよなら」
小さく呟く。
そして――
三人は駆け出した。
モナコラへ向かって。
追放された青年の――
本当の帰る場所へ。
◇
――数日後。
長い逃避行の末、アクセスはついにモナコラの街へと戻ってきた。
見慣れた石畳。
懐かしい風の匂い。
そして――
「アクセス!」
薬草園の前で、サリーが駆け出してきた。
「サリーさん……!」
二人はそのまま、強く抱き合った。
ぎゅっと、離さないように。
「……よかった」
サリーの声は震えていた。
「ほんとに……よかった……」
「すみません……心配かけて」
「当たり前でしょ!」
顔を上げ、涙目で睨む。
「どれだけ心配したと思ってるのよ!」
「……はい」
だがその次の瞬間、サリーはまたアクセスを抱きしめた。
「無事で……ほんとに……」
しばらく、言葉はいらなかった。
ただ、お互いの存在を確かめるように、抱き合っていた。
やがて――
アクセスは、ゆっくりと口を開いた。
「サリーさん」
「……なに?」
「僕……気づいたんです」
真っ直ぐに、サリーを見る。
「僕がここに戻りたいと思った理由」
「薬草も、もちろん大事です」
「でも……それ以上に」
一歩、近づく。
「あなたがいるからです」
「……え?」
サリーの目が見開かれる。
「地下牢にいた時……」
アクセスは静かに続けた。
「このまま、もう二度と会えないんじゃないかって思って……」
「すごく、怖かった」
拳を握る。
「すごく、悲しかったんです」
そして――
「僕は、あなたが好きです」
はっきりと告げた。
「こんな僕でよければ……付き合ってください」
風が止まったように、静寂が落ちる。
サリーはしばらく何も言えなかった。
だがやがて――
ふっと、優しく笑った。
「……遅いのよ」
「え?」
「もっと早く言いなさいよ、ばか」
少しだけ涙を浮かべながら。
「……いいわ」
小さく頷く。
「付き合ってあげる」
「サリーさん……!」
「ただし」
指を立てる。
「無茶したら、今度は許さないから」
「はい!」
その答えに、サリーはくすっと笑った。
そしてもう一度――
二人は、抱きしめ合った。
◇
その夜。
薬草園の奥の部屋で――
「さて、と」
サリーは真剣な顔に戻っていた。
「報告しないとね」
「報告?」
「ええ」
サリーは静かに告げる。
「エマ様に」
◇
エマ商会、本部。
豪華な執務室の中。
一人の女性が椅子に腰掛けていた。
長い髪と気品ある佇まい。
彼女こそ――
エマ商会の会長、エマ。
そして同時に――
スペイラ帝国の大貴族。
マタドラゴーネス侯爵夫人でもあった。
「……なるほど」
サリーの報告を聞き終え、ゆっくりと目を細める。
「つまり、我が商会の人材を拉致し、強制労働をさせたと?」
「はい」
サリーは深く頭を下げる。
「許しがたい行為です」
エマは静かに立ち上がった。
「すぐに動きましょう」
その声には、一切の迷いがなかった。
◇
数日後。
小国ルクセンランド王国――王城。
「な、なんですと……!?」
王は玉座の上で顔色を変えた。
「スペイラ帝国のマタドラゴーネス侯爵夫人から、正式な抗議が……!?」
側近が震える声で告げる。
「はい……内容は、グレーヴェンマッハ伯爵家による不当行為……」
王の表情が険しくなる。
マタドラゴーネス侯爵領は、この小国よりも広く、人口も多い。
その影響力は絶大だった。
「即刻、伯爵を呼べ!」
◇
王城の大広間。
グレーヴェンマッハ伯爵は、震えながら跪いていた。
「……申し開きはあるか?」
王の冷たい声。
「こ、これは誤解でございます!」
伯爵は必死に叫ぶ。
「息子を保護していただけで――」
「嘘です」
静かな声が響いた。
「なっ……!?」
振り向くと、そこには――
サリーとアクセスの姿。
「……お前は……!」
伯爵の顔が歪む。
サリーは一歩前に出る。
「私はサリー=ビジャレナル」
その名に、場がざわつく。
「ビジャレナル伯爵家の者です」
さらに――
「そして、エマ様の直属の部下でもあります」
完全に空気が変わった。
「この方は拉致され、地下牢に監禁されていました」
「強制的に働かされ、暴力も受けています」
王の目が細くなる。
「……本当か?」
「ち、違います!」
伯爵は必死に否定する。
「そのようなことは――」
「証人ならここにいます」
サリーは冷静に言う。
「アクセス、説明して」
アクセスが一歩前に出る。
その姿を見た瞬間、伯爵の言葉は止まった。
「……っ」
すべてが、終わった。
王は静かに告げる。
「グレーヴェンマッハ伯爵」
「貴様の領地は没収する」
「そして――」
「爵位も剥奪する」
「なっ……!」
膝から崩れ落ちる伯爵。
ネトルドとアルビーも顔面蒼白だった。
こうして――
グレーヴェンマッハ伯爵家は、完全に没落した。
◇
数日後。
モナコラの薬草園。
「……終わったんですね」
アクセスは静かに空を見上げた。
「ええ」
サリーが隣に立つ。
「これでもう安心だわ」
「はは……」
少し苦笑する。
「でも……」
サリーは優しく言った。
「これで、もう邪魔されない」
「ここで自由に生きていいのよ」
アクセスはゆっくりと頷いた。
「はい」
そして――
隣にいる彼女を見る。
「これからも、一緒に」
「……ええ」
サリーは微笑んだ。
こうして――
追放された伯爵令息は。
復讐を果たし、本当の幸せを手に入れたのだった。




