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9.夜間巡回

 消灯前。部屋がいちばん静かになる時間に、リュシアはベッドの端で靴紐をほどいていた。


 カリナが壁にもたれて言う。


「……フォルティス。最近、顔色マシじゃね?」


 リュシアは淡々と返す。


「はい。回復が早くなりました」


「吐かなくなったしな」


「はい」


 そのまま、リュシアは靴を脱いだ。

 脱いだ瞬間、アンナベルが視線を落とす。


「……足」


 リュシアは自分の足首を見て、そこで初めて気づいた。

 右の踵が、靴下に張りついている。布が湿って、暗い色になっていた。


(汗……?)


 指先で靴下を摘まんで引くと、ぺり、と嫌な音がした。


「っ……」


 痛みが遅れて刺さる。

 剥がれた靴下の内側に、赤が残っていた。


 カリナが眉をひそめる。


「うわ。血ィ出てんじゃん」


 ミレイユが布団の中から顔を出し、吸い込むように言う。


「それ……痛くないの……?」


 リュシアは少し考えてから、事実だけを言った。


「……痛いです。でも、走ってる間は優先度が下がってました」


「下げんな!」


 カリナが即ツッコミを入れる。


 アンナベルはもう動いていた。

 自分の荷物袋から布と小瓶を出し、リュシアの踵を軽く持つ。


「見せて」


 リュシアは抵抗しない。見せるのが最短だと分かる。


 アンナベルは傷を見て、短く息を吐いた。


「皮、剥けてる。水ぶくれ潰れてる。……これ、いつから?」


「二日前から、違和感はありました」


「違和感で止めろ」


 声が冷たい。怒ってるというより、呆れている。


 セラが慌てて近づいてくる。


「消毒、あります。今日、配給で……!」


 リディが小さく言った。


「……靴、合ってないんじゃない?」


 リュシアは首を横に振る。


「サイズは合っています。……たぶん、紐の締め方と、踵の固定が甘いです」


 カリナが鼻で笑う。


「分析してる暇あったら言えよ……」


 アンナベルがリュシアの踵を布で拭きながら言う。


「じゃあ今から直す。明日、同じ締め方したら殴る」


「殴らなくていいです」


「じゃあ覚えろ」


 アンナベルは淡々と消毒を済ませ、布を当てる。


「セラ、包帯」


「はい」


 セラが包帯を渡す手が、少し震えている。

 リュシアはそれに気づいて、言葉を選ぶ。


「……怖がらせましたか」


「違います!」


 セラは即答して、次に少しだけ声を落とす。


「……痛いのに、平気な顔してるのが、怖いです」


 リュシアは言葉に詰まる。

 平気な顔のつもりはなかったが、そう見えるのは分かる。


 アンナベルが包帯を巻き終え、結び目を確かめる。


「明日から、踵に当て布。あと、靴下は二枚。蒸れてもいい、皮を守れ」


 カリナが不満げに言う。


「蒸れると臭くならね?ただでさえ風呂なくてきついのに」


 アンナベルは即答。


「臭いのは我慢できる。血が出るのは遅れる」


 その言い方があまりにも現実的で、部屋が一瞬だけ静かになった。


 ミレイユが、ぽつりと言う。


「……でも、フォルティスが遅れると、連帯で増える……」


 カリナが「それな」と頷く。


 リュシアはそこで初めて、申し訳なさに似たものを見つけた。

 謝る言葉を探して――やめる。


 ここで謝ると、また別の空気になる。


 だから、リュシアは決めたことだけ言った。


「……明日から、最初に言います。違和感の段階で」


 アンナベルが短く頷いた。


「それでいい。部屋で潰す」


 セラが小さく笑って言う。


「明日は、私が紐、見ます。……多分、きつく締めるの苦手ですよね」


 リュシアは一拍置いてから頷く。


「はい。苦手です」


 カリナがあくび混じりに言った。


「やっと自分の弱点言えたじゃん」


 リュシアは反論しない。

 包帯の感触が、足を現実に引き戻していた。


 消灯の合図が鳴って、部屋の会話が止んでも、眠りはすぐには来なかった。

 廊下の足音。遠くの咳。寝具の軋み。静かにしろと言われるほど、夜の音だけが浮き上がる。


 喉が渇いた。

 リュシアは水差しに手を伸ばして持ち上げ、そこで止まった。軽い。振っても音がしない。桶も同じだ。空。


 なら汲みに行けばいい。

 結論だけが先に立って、身体が動く。扉に手をかける。寝間着は薄いシフトだけ。肌着はない。屋敷ではそれが普通だった。


 扉の外に出た、そのとき。


 廊下の向こうから足音が近づいた。一定の速さ。迷いがない。巡回――。

 リュシアの視線が止まる。次の瞬間、ランタンの光が壁を舐め、女の影が現れた。


 ジャネッタ軍曹。

 女だが、立ち方と圧が軍人そのものだった。


「……おい」


 低い声ひとつで、空気が固まる。


 リュシアは扉の縁に指をかけたまま、背筋を伸ばした。


「水がなくなったので、汲みに行きます」


 ジャネッタ軍曹の視線が、リュシアの格好を一度で拾い、眉間が寄る。


「お前、バカか?」


 言い切りが刃物みたいに鋭い。

 リュシアは言葉を失い、代わりに呼吸だけが浅くなる。


「その格好で共用廊下に出る気だったのか。軍規以前だ。常識で考えろ」


 リュシアの表情に「規則にない」という色が出たのだろう。軍曹が鼻で笑った。


「書いてねぇよ。だから今、叩き込む」


 軍曹はランタンを少し持ち上げ、廊下の先を一瞥した。誰か来ていないか確認してから、顎で部屋を示す。


「入れ。ここで騒ぐな」


「……はい」


 リュシアが後ずさって部屋に戻ると、軍曹も扉の内側へ入った。

 その瞬間、同室の空気が一斉に固まる。


 アンナベルが半身を起こす。

 ミレイユは口に手を当てる。

 リディは布団の中で硬直する。

 カリナだけが眠そうな目で軍曹を見た。

 セラは起き上がりかけて、途中で止まる。


 ジャネッタ軍曹は扉をきっちり閉め、ランタンを床に置いた。灯りが部屋の顔を照らし、逃げ場がなくなる。


「聞け。今見たことは、ここで終わりだ」


 男言葉のまま、命令が落ちる。


「外で喋った奴は、部屋ごと潰す。連帯で罰走。――返事」


 返事が揃う。


「はい」


 ミレイユの声だけが、少し震えた。


 軍曹の視線が、まっすぐリュシアに刺さる。


「フォルティス。共用廊下は“外”だ。男がいるとかいないとか、その前の話。夜に一人で出歩くな」


「……はい」


「水がないなら当直に言え。勝手に動くな。どうしても今飲むなら、部屋長に言え。部屋のルールで回せ」


 アンナベルが一瞬だけ目を上げた。

 軍曹はそれを見て、言葉を切る。


「部屋長。アンナベルでいいな」


「……はい」


「話が早そうだ」


 短く頷き、軍曹はまたリュシアに戻る。


「寝る格好は好きにしろ。だが扉を開けるなら羽織れ。毛布でも上着でもいい。――“部屋の外に出る”ってだけで、意味が変わる」


 リュシアは言葉を探し、短く答えた。


「……理解しました」


「理解じゃねぇ。次やったら終わりだ」


 軍曹の声は理不尽ではない。ただ容赦がない。

 容赦がないから、刺さる。


 カリナが乾いた声で呟いた。


「……マジでこいつ、体力ないだけじゃなく、なんもわからないんだな」


 軍曹がカリナを睨むかと思ったが、しなかった。代わりに落とす。


「言い方は最悪。だが事実だ。――だから教えろ。笑って放置すんな」


 カリナが一瞬口を閉じ、鼻で息を吐いた。


「……はい」


 そのとき、セラが布団から出た。小さく、でも確実に前へ出る動き。

 毛布を一枚持って、リュシアの肩に掛けた。


「……リュシア。これ、羽織ってください。寒いですし」


 毛布の重さが、肩より先に胸に落ちた。

 リュシアは喉が詰まり、短く息を整えてから礼を言う。


「……ありがとうございます、セラ」


 セラは小さく頷いて、続けた。


「水なら……少し残してあります。今夜だけ、分けます」


 ジャネッタ軍曹が「よし」と短く言った。


「それでいい。足りなきゃ当直が持ってくる。――フォルティス。二度と同じことをするな」


「はい」


「アンナベル。明日、部屋の常識をまとめろ。フォルティスは“軍規にない穴”に落ちる。穴の縁に柵を作れ」


「……はい」


 軍曹はランタンを持ち上げ、扉へ向かった。

 出る前に一度だけ振り返り、声を落とす。


「今夜のことは、見なかったことにする。――見なかったことにできるのは、お前らが黙ってる間だけだ」


 扉が閉まる。

 闇が戻り、部屋の呼吸が戻る。


 ミレイユが布団の中で小さく息を吐いた。


「……やば……」


「やばいじゃなくて、学べ」


 アンナベルが低く言い、リュシアを見る。


「困ったら、まず私に言う。勝手に動かない。約束」


「はい。約束します」


 セラが水の入ったカップを差し出す。

 リュシアは受け取り、一口だけ飲んだ。喉の渇きが、ようやく形になる。


 恥ずかしい。

 でも、それ以上に――危なかった。


 リュシアは、今夜の“部屋の常識”を、忘れない形で頭に刻んだ。

 軍規に書いていないことは、部屋に聞く。勝手に動かない。

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