表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/17

8.洗礼

 日が落ちきる前に、訓練はようやく終わった。

 号令で解散になっても、体のどこかが終わった気がしない。腕も脚も、まだ震えている。


 宿舎の玄関に戻ると、掲示板の前に人だかりができていた。

 紙が一枚。部屋番号と名前が並ぶだけの簡素な表だ。


 リュシアは人の隙間から覗き込み、自分の名を探す。

 見つけた瞬間、少しだけ息が戻った。未知が一つ、確定に変わる。


 同じ番号に、見覚えのない名がいくつか続く。

 ――そして、朝に隣にいた三つ編みの少女の名もあった。


(セラ。あの子も同室)


 胸の奥に、小さく安心に近いものが浮かんだ。理由は自分でもうまく言語化できないが、ゼロではない。


 廊下を進み、指定された扉の前で立ち止まる。

 中から、布の擦れる音がした。誰か、もういる。


 ノックをするか迷って、リュシアは一拍置いてから叩いた。


「……入ります」


 中から返事が返るより先に、扉が内側から開いた。


 立っていたのは、同年代の少女。背筋が妙にまっすぐで、髪はきっちりまとめられている。部屋の空気を仕切っている匂いがした。


「どうぞ。……あなたが、フォルティス?」


「はい。リュシア・フォルティスです」


「アンナベル・ルーシェ。荷物はそこ。通路を塞がないで」


 指示が早い。声の温度は高くないが、敵意もない。

 場を回すことに慣れている人の喋り方だとリュシアは思った。


 荷を置いたところで、扉が乱暴に開いた。


「はぁ……。やっと終わった……って、ここ? 六人部屋?」


 入ってきた少女は、眉間に皺を寄せたまま部屋を見回し、リュシアで一度止まった。


「……あんたがフォルティス?」


「はい」


「カリナ。よろしく……って言えばいいの? とりあえず、邪魔しないでね。マジで」


 言葉は刺さるが、視線は逸らさない。正面から来るタイプだ。


 その直後、控えめなノックが鳴って、扉がそっと開いた。


「す、すみません……ここ、合ってますか」


 三つ編みの少女――朝の隣の子が、恐る恐る顔を出す。


「……セラ」


 リュシアが名前を呼ぶと、少女は一瞬だけ目を見開いて、それから小さく笑った。


「覚えててくれたんだ……。セラです。よろしく」


 その声には、今日一日で擦れた疲労の中でも、変わらない柔らかさがあった。


 最後に、荷物がやたら大きい少女が、扉を肩で押して入ってきた。


「ここで合ってる? ……狭っ」


 声が部屋にぶつかる。


「あなたがミレイユね」


 アンナベルが「荷物は壁際」と淡々と告げ、ミレイユは不満げに舌打ちして従った。


 六人部屋の空気が、形になっていく。


 ――その形の中に、自分の居場所があるのかどうか。

 リュシアはまだ判断できない。


 その時、廊下の先から夕食集合の号令が響いた。


「……行きましょう」とセラが言い、カリナが「やっと飯」と呟く。

 アンナベルは何も言わず立ち上がり、ミレイユは大げさに肩を回した。


 最後の1人は、扉の前で一拍置いてから入ってきた。


「あの…リディです」


「よろしく。あなたはあそこね」


 自信無さげに立つ少女にアンナベルが指示を出す。


「急げよ。飯の時間だ」


 カリナに続いて、リュシアも立ち上がった。


 胃の奥が、きゅ、と嫌な動きをした。

 さっき吐いたはずなのに、まだ中身が残っているような感覚。


(夕食……食べられる量を、最初に見積もるべきですね)


 そう考えた瞬間、喉の奥がまた熱くなった。


 ――初日の“夜”は、たぶんまだ終わっていない。




 夕食の食堂は、湯気と金属の匂いが混ざっていた。

 長机が何列も並び、器がぶつかる音と、疲れた咀嚼の音だけが低く続く。


 リュシアは与えられた席に座り、スプーンを握った。

 口に運んだのは二口。三口目の手前で、喉がきゅっと縮む。


 唇を結ぶ。呼吸を整える。

 ——間に合わない。


 リュシアは立ち上がりかけて、椅子の脚が床に擦れる音を立てた。周囲の視線が一斉に寄る。

 次の瞬間、彼女は口元を押さえ、食堂の端へ身を折った。


 胃の中のものが、熱を伴って逆流する。

 床板に落ちる音が、必要以上に響いた。


「……またかよ」


 カリナの声は低く、苛立ちに寄っていた。だが席を立つのは早い。

 アンナベルはもっと早かった。言葉を挟まず、机の下から布を引き出し、器を一つ空ける。動きに迷いがない。


「水。こっち」


 アンナベルが短く言い、リュシアの前に器を置いた。

 リュシアは目尻の涙を拭う間もなく、器に口をつけて一度うがいをする。吐瀉物の匂いが鼻に残る。


「……すみません」


 掠れた声で謝ると、アンナベルは頷いただけだった。


「謝るのは後でいい。まず口、すすいで。呼吸」


 命令口調ではない。手順を言うだけの声。

 カリナが舌打ちを飲み込むように息を吐き、床の処理を手伝い始めた。


「勘弁してよ、マジで……」


 ぼやきはする。だが手は止めない。

 周囲の席からは、ひそひそ声が落ちてくる。


「……公爵令嬢だろ」

「こっちが食えなくなる」

「早く辞めればいいのに」


 直接は言わない。けれど刺すには十分だった。

 リュシアは背筋を伸ばしたまま、器を置く。視線は上げない。上げれば、目が合う。


「……続けられます」


 誰に向けたともつかない小さな声が出た。

 アンナベルが、ほんの少しだけ顔をしかめる。


「続けるのは分かった。今日は、食べる量を減らしておきなさい。倒れたら余計に増える」


 カリナが鼻で笑う。


「増えるどころじゃねえよ。巻き添えだからな、巻き添え」


 その言葉に、別の机から冷たい視線がまた増えた。


 ——翌朝、現実になる。


 


 二日目の外周走は、初日より早く始まった。

 足音が揃う。呼吸が揃う。揃わないものが浮く。


 リュシアは前を見て走った。昨日の反省で、最初から抑えた。

 それでも、途中で視界が狭くなり、胃が揺れる。


 最後の坂に差しかかる前、脚が一瞬だけ止まった。

 止まったのは一瞬だ。だが隊列は待たない。


「遅れた!」


 教官の声が飛ぶ。

 隊列の後ろが乱れ、数名が引きずられるように速度を落とす。


「はあ? ふざけんなよ!」

「お前のせいだろ!」

「だから言ったんだ、早く辞めろって!」


 怒鳴り声は、走りながらでも届く。

 教官は、乱れた隊列を見て、口元を歪めた。


「止まった奴が一人でも出たら、全員が止まる。——止まるな。終わってから止まれ」


 ゴール地点。

 整列。汗が落ち、土が靴に張り付いている。


「連帯責任だ。追加。腕立て」


 不満が一斉に広がる。視線が、同じ一点に集まる。

 リュシアは列の中で呼吸を整えようとして、うまくいかない。


「……っ、まじで最悪」

「公爵家? 知らねえよ」

「こっちの命が先だろ」


 そのとき、別の列から声が割り込んだ。


 低くて、乾いた声。


 振り向いた訓練生が、一瞬だけ言葉を失う。

背が高いわけじゃない。だが、立ち方が妙に落ち着いている。視線だけが鋭い。


ライオット・グランフォード。

その名は、すでに何度か耳に入っていた。グランフォード伯爵家の子息で、魔力量が大きいらしい。


「うるせえよ」


 短い。

 しかし、空気が変わった。


 ライオットが、教官の方を一瞬だけ見てから、同じ訓練生たちへ視線を投げる。言葉だけが鋭い。


「文句言う暇あったら腕立てしろ。増えたのはフォルティスのせいだけじゃねえ。俺らの隊列が崩れたからだ」


「でもよ——」


「でもじゃねえ。戦場でそれ言うのか? 『あいつが遅いから負けました』って」


 誰かが口を閉じる。

 教官は面白そうでも不機嫌でもなく、ただ淡々と命じた。


「いいからやれ。……数、数えるぞ」


 腕立てが始まる。

 土に手をつく音が、同じリズムで重なる。


 リュシアは遅れた分だけ、数える声が遠く感じた。

 それでも、最後まで膝はつかなかった。


 終わったとき、カリナが息を吐く。


「……言い方」


「現実だろ」


 ライオットはそれだけ言って、視線を外した。

 リュシアは立ち上がり、制服の土を払う。謝罪の言葉を探して、喉の奥で止めた。

 代わりに、リュシアは一つだけ言った。


「……次は、遅れません」


 それが約束になるのか、宣言になるのかはまだ分からない。

 けれど、その場の空気は、少しだけ前に進んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ