8.洗礼
日が落ちきる前に、訓練はようやく終わった。
号令で解散になっても、体のどこかが終わった気がしない。腕も脚も、まだ震えている。
宿舎の玄関に戻ると、掲示板の前に人だかりができていた。
紙が一枚。部屋番号と名前が並ぶだけの簡素な表だ。
リュシアは人の隙間から覗き込み、自分の名を探す。
見つけた瞬間、少しだけ息が戻った。未知が一つ、確定に変わる。
同じ番号に、見覚えのない名がいくつか続く。
――そして、朝に隣にいた三つ編みの少女の名もあった。
(セラ。あの子も同室)
胸の奥に、小さく安心に近いものが浮かんだ。理由は自分でもうまく言語化できないが、ゼロではない。
廊下を進み、指定された扉の前で立ち止まる。
中から、布の擦れる音がした。誰か、もういる。
ノックをするか迷って、リュシアは一拍置いてから叩いた。
「……入ります」
中から返事が返るより先に、扉が内側から開いた。
立っていたのは、同年代の少女。背筋が妙にまっすぐで、髪はきっちりまとめられている。部屋の空気を仕切っている匂いがした。
「どうぞ。……あなたが、フォルティス?」
「はい。リュシア・フォルティスです」
「アンナベル・ルーシェ。荷物はそこ。通路を塞がないで」
指示が早い。声の温度は高くないが、敵意もない。
場を回すことに慣れている人の喋り方だとリュシアは思った。
荷を置いたところで、扉が乱暴に開いた。
「はぁ……。やっと終わった……って、ここ? 六人部屋?」
入ってきた少女は、眉間に皺を寄せたまま部屋を見回し、リュシアで一度止まった。
「……あんたがフォルティス?」
「はい」
「カリナ。よろしく……って言えばいいの? とりあえず、邪魔しないでね。マジで」
言葉は刺さるが、視線は逸らさない。正面から来るタイプだ。
その直後、控えめなノックが鳴って、扉がそっと開いた。
「す、すみません……ここ、合ってますか」
三つ編みの少女――朝の隣の子が、恐る恐る顔を出す。
「……セラ」
リュシアが名前を呼ぶと、少女は一瞬だけ目を見開いて、それから小さく笑った。
「覚えててくれたんだ……。セラです。よろしく」
その声には、今日一日で擦れた疲労の中でも、変わらない柔らかさがあった。
最後に、荷物がやたら大きい少女が、扉を肩で押して入ってきた。
「ここで合ってる? ……狭っ」
声が部屋にぶつかる。
「あなたがミレイユね」
アンナベルが「荷物は壁際」と淡々と告げ、ミレイユは不満げに舌打ちして従った。
六人部屋の空気が、形になっていく。
――その形の中に、自分の居場所があるのかどうか。
リュシアはまだ判断できない。
その時、廊下の先から夕食集合の号令が響いた。
「……行きましょう」とセラが言い、カリナが「やっと飯」と呟く。
アンナベルは何も言わず立ち上がり、ミレイユは大げさに肩を回した。
最後の1人は、扉の前で一拍置いてから入ってきた。
「あの…リディです」
「よろしく。あなたはあそこね」
自信無さげに立つ少女にアンナベルが指示を出す。
「急げよ。飯の時間だ」
カリナに続いて、リュシアも立ち上がった。
胃の奥が、きゅ、と嫌な動きをした。
さっき吐いたはずなのに、まだ中身が残っているような感覚。
(夕食……食べられる量を、最初に見積もるべきですね)
そう考えた瞬間、喉の奥がまた熱くなった。
――初日の“夜”は、たぶんまだ終わっていない。
夕食の食堂は、湯気と金属の匂いが混ざっていた。
長机が何列も並び、器がぶつかる音と、疲れた咀嚼の音だけが低く続く。
リュシアは与えられた席に座り、スプーンを握った。
口に運んだのは二口。三口目の手前で、喉がきゅっと縮む。
唇を結ぶ。呼吸を整える。
——間に合わない。
リュシアは立ち上がりかけて、椅子の脚が床に擦れる音を立てた。周囲の視線が一斉に寄る。
次の瞬間、彼女は口元を押さえ、食堂の端へ身を折った。
胃の中のものが、熱を伴って逆流する。
床板に落ちる音が、必要以上に響いた。
「……またかよ」
カリナの声は低く、苛立ちに寄っていた。だが席を立つのは早い。
アンナベルはもっと早かった。言葉を挟まず、机の下から布を引き出し、器を一つ空ける。動きに迷いがない。
「水。こっち」
アンナベルが短く言い、リュシアの前に器を置いた。
リュシアは目尻の涙を拭う間もなく、器に口をつけて一度うがいをする。吐瀉物の匂いが鼻に残る。
「……すみません」
掠れた声で謝ると、アンナベルは頷いただけだった。
「謝るのは後でいい。まず口、すすいで。呼吸」
命令口調ではない。手順を言うだけの声。
カリナが舌打ちを飲み込むように息を吐き、床の処理を手伝い始めた。
「勘弁してよ、マジで……」
ぼやきはする。だが手は止めない。
周囲の席からは、ひそひそ声が落ちてくる。
「……公爵令嬢だろ」
「こっちが食えなくなる」
「早く辞めればいいのに」
直接は言わない。けれど刺すには十分だった。
リュシアは背筋を伸ばしたまま、器を置く。視線は上げない。上げれば、目が合う。
「……続けられます」
誰に向けたともつかない小さな声が出た。
アンナベルが、ほんの少しだけ顔をしかめる。
「続けるのは分かった。今日は、食べる量を減らしておきなさい。倒れたら余計に増える」
カリナが鼻で笑う。
「増えるどころじゃねえよ。巻き添えだからな、巻き添え」
その言葉に、別の机から冷たい視線がまた増えた。
——翌朝、現実になる。
二日目の外周走は、初日より早く始まった。
足音が揃う。呼吸が揃う。揃わないものが浮く。
リュシアは前を見て走った。昨日の反省で、最初から抑えた。
それでも、途中で視界が狭くなり、胃が揺れる。
最後の坂に差しかかる前、脚が一瞬だけ止まった。
止まったのは一瞬だ。だが隊列は待たない。
「遅れた!」
教官の声が飛ぶ。
隊列の後ろが乱れ、数名が引きずられるように速度を落とす。
「はあ? ふざけんなよ!」
「お前のせいだろ!」
「だから言ったんだ、早く辞めろって!」
怒鳴り声は、走りながらでも届く。
教官は、乱れた隊列を見て、口元を歪めた。
「止まった奴が一人でも出たら、全員が止まる。——止まるな。終わってから止まれ」
ゴール地点。
整列。汗が落ち、土が靴に張り付いている。
「連帯責任だ。追加。腕立て」
不満が一斉に広がる。視線が、同じ一点に集まる。
リュシアは列の中で呼吸を整えようとして、うまくいかない。
「……っ、まじで最悪」
「公爵家? 知らねえよ」
「こっちの命が先だろ」
そのとき、別の列から声が割り込んだ。
低くて、乾いた声。
振り向いた訓練生が、一瞬だけ言葉を失う。
背が高いわけじゃない。だが、立ち方が妙に落ち着いている。視線だけが鋭い。
ライオット・グランフォード。
その名は、すでに何度か耳に入っていた。グランフォード伯爵家の子息で、魔力量が大きいらしい。
「うるせえよ」
短い。
しかし、空気が変わった。
ライオットが、教官の方を一瞬だけ見てから、同じ訓練生たちへ視線を投げる。言葉だけが鋭い。
「文句言う暇あったら腕立てしろ。増えたのはフォルティスのせいだけじゃねえ。俺らの隊列が崩れたからだ」
「でもよ——」
「でもじゃねえ。戦場でそれ言うのか? 『あいつが遅いから負けました』って」
誰かが口を閉じる。
教官は面白そうでも不機嫌でもなく、ただ淡々と命じた。
「いいからやれ。……数、数えるぞ」
腕立てが始まる。
土に手をつく音が、同じリズムで重なる。
リュシアは遅れた分だけ、数える声が遠く感じた。
それでも、最後まで膝はつかなかった。
終わったとき、カリナが息を吐く。
「……言い方」
「現実だろ」
ライオットはそれだけ言って、視線を外した。
リュシアは立ち上がり、制服の土を払う。謝罪の言葉を探して、喉の奥で止めた。
代わりに、リュシアは一つだけ言った。
「……次は、遅れません」
それが約束になるのか、宣言になるのかはまだ分からない。
けれど、その場の空気は、少しだけ前に進んだ。




