7.訓練初日
王都の城壁が、朝靄の向こうにぼんやりと霞んでいた。
城壁の外、ゆるやかな丘と林をまとめてぐるりと囲った軍用地。
そこが、王国軍新兵訓練所だった。
前日、王都第一駐屯地に集められた新兵たちは、軍の荷馬車でこの訓練所まで運ばれ、一晩だけ宿舎で眠った。
今は、その翌朝。初日の「点呼前」である。
まだ空は白いだけで、太陽は出ていない。
土の広場に、新兵たちが列を作って立っていた。
騒がしくはない。
むしろ、静かすぎる。
リュシア・フォルティスも、その列の中にいた。
粗い布の軍服は、貴族の仕立てに比べれば着心地が悪い。
けれど、生地の強度と縫い目の簡潔さには理由がある、と彼女は思った。
呼吸は浅い。
胸の奥が硬く、肩に力が入っているのが自分でも分かる。
隣の少女がこちらを見て――すぐに目を逸らした。
なのに、もう一度だけ確かめるように見上げ、口を開きかけて閉じる。
声が出るまでに、ほんの一拍遅れた。
「あ、あの……」
少女が、小さな声で話しかけてくる。
「こ、怖いよね? 今日から、あの……色々、その……」
語彙が空中で迷子になっている。
リュシアは横目だけで少女を見た。
「怖い、という感情は、今はありません」
事実だけを、簡潔に答える。
「えっ……?」
「きついのは確定しているので、心臓は速いです」
そこで一度区切ってから、続けた。
「ただ、“どれくらいきついか”という情報が不足しています。だから今のところ、怖いかどうかを決められません」
「……分からないから怖い、ってことは?」
少女は、自分でも不安そうに首を傾げる。
リュシアは少し考えてから、首を横に振った。
「私の場合は、分からないときは『不明』とか『保留』になります」
「へ、へえ……」
少女の返事は、感心と困惑が半分ずつ、といったところだった。
「私は…昨日もよく眠れなくて」
「それは……大変でしたね」
言葉を選んだ末、そうまとめる。
「私は、眠れました」
「すご……。なんで?」
「今日はつらい。そこは変えられないので、前日までに削っていいのは不安だけです。睡眠は削りません」
少女は小さく「変わってるね……」と呟いた。
褒められているのかどうか、リュシアにはよく分からない。
名前を交換する前に、「整列!」という怒鳴り声が広場に落ちた。
二人はあわてて前を向く。
会話は、そこで中断された。
広場の前方に、訓練教官が一人、どん、と立つ。
厚い胸板。筋肉と無駄のない動き。
声だけで、新兵たちの背筋を一斉に伸ばせるタイプの人間だった。
「これから六週間、貴様らは“新兵”だ。
貴族も平民も、男も女も関係ない」
開口一番、そう言い捨てる。
「まず叩き込むのは、魔法じゃない。
走る脚と、物を持つ腕と、倒れても立ち上がる体だ」
一度、間。
「――だから最初に言っておく。
この六週間、魔法は禁止だ。」
新兵たちの列が、わずかにざわめいた。
「火も雷も土も風も出すな。
新兵が勝手に出した魔法なんざ戦場じゃ役に立たん」
リュシアは一度だけ頷いた。
「それから――」
教官は、列の端から端まで視線を滑らせた。
「俺の命令に対する返事は一つだ」
右手の指を一本、立てる。
「『はい』。以上だ」
簡潔で、分かりやすいルールだった。
リュシアは小さく息を吐き、背筋を正した。
午前中、彼女は自分の体についていくつもの予想外を受け取ることになる。
長距離走――ビリ。
丘を含む周回コースを走らされた最初の課題で、
リュシアは、見事なまでに最後尾に沈んだ。
一周目前半までは、中ほど。
一周目後半で、じわじわ後退。
二周目の坂に入る頃には、ほぼ最後尾。
坂の中腹で、脚が止まった。
止まりたくなかったが、止まった。
膝が折れ、手が土をつく。
喉が勝手に痙攣する。
「……っ」
次の瞬間、胃が反転した。
朝食と水が、そのまま逆流する。
胃酸の焼けるような感覚と、鼻に抜ける鋭い匂い。
視界が滲んだ。
泣いているわけではないが、涙腺はそういう区別をしてくれない。
しばらくえずいて、呼吸が戻るのを待つ。
横を、別の新兵たちの靴音が駆け抜けていく。
誰かが一瞬だけこちらを見る気配があったが、誰も止まらない。
それでいい、とリュシアは思った。
ここは、止まって助ける場所ではない。
えずきが止まるのを待ってから、彼女は立ち上がった。
足は震えていた。
それでも、歩幅を小さくして走り続けることはできた。
ゴールしたとき、彼女は最後尾から数えた方が早い位置にいた。
教官が彼女を一瞥した。
何も言わなかった。
リュシアは息を整え、列に戻った。
午後の腕立て伏せと腹筋でも、結果は似たようなものになる。
夕方。
「今日最後の課題だ」と言われて連れてこられたのは、広場の端に並ぶ三つの水樽だった。
たっぷり水の入った樽が三つ。
その先には、朝のコースより急な、短い丘。
樽の大きさと形、木材の厚み、水面の高さ。
見ただけで、四人がかりでようやく持ち上がるだろう、と分かった。
教官が顎で樽をしゃくった。
「あの樽を、あの丘の上まで運べ。
持ち上げて、運んで、戻ってこい。以上だ」
短く、それだけ。
新兵たちの列が、わずかに揺れた。
誰もまだ動き出さない。
リュシアは樽と周囲を見比べた。
棒があれば担げる。身長の近い者同士で組めば負荷は均等になる。方法はある。
言うべきかどうかを、数秒だけ迷った。
列のあちこちで、鋼兵候補らしき体格の新兵が樽へとじりじり近づく。
少し考えてから、リュシアは右手を上げた。
「教官」
自分の声が、思ったよりもよく通って、少し驚く。
「フォルティス候補生」
教官の目が、ぴたりと彼女を捉えた。
“フォルティス”の名に、周囲の空気がわずかに硬くなる。
「質問と、確認があります」
リュシアは手を下ろさずに言った。
「質問は一つにしろ」
「はい、教官」
一度区切って、言葉を選ぶ。
「この樽を、人力だけで運ぶのは、訓練としては理解できます」
それは事実だった。
限界を試すための課題として、意味はある。
「ですが、実戦を想定した場合――」
教官の目が、わずかに細くなる。
周囲の新兵たちの肩が、ほんの少しすくんだ。
リュシアは、その反応の意味を取り切れないまま、続けた。
「――棒を使って四人で担ぐ形にした方が、負傷の危険と時間のロスが少ないと考えました。
その場合でも、『自分の足で運べ』という命令の趣旨からは外れないと判断しましたが――」
最後まで言い切る前に、教官が一歩踏み込んだ。
距離が詰まる。息がかかるほどの近さ。
土の匂いと、汗と、革の匂いが一緒に来る。
教官は怒鳴らない。
声量を落とした分だけ、逆に広場の空気が凍った。
「フォルティス」
「はい、教官」
反射で返事は出た。
教官は、リュシアの上げた手を見たまま言った。
「……俺はお前に、“方法を考えろ”と命令したか」
一瞬、周囲の新兵が呼吸を忘れたように静まる。
「いえ」
リュシアは短く答えた。
「俺が出したのは何だ」
「樽を、丘の上まで運ぶ命令です」
「返事は」
教官の声が、さらに一段だけ低くなる。
「……はい」
教官はそこで、ようやくリュシアの手から視線を上げ、列全体を見回した。
「よく聞け。戦場で“より良い案”を出すのは否定しない。だがそれは、場と順序がある」
指先で地面を軽く叩く。乾いた音がした。
「今ここは、命令を通す訓練だ。
命令が通らない隊は、立ってるだけで死人が出る」
そして、リュシアに視線を戻す。
「お前は賢い。……賢いからこそ、間違える」
言い方に罵りはない。ただ、断定だけがあった。
「その賢さを“命令の上”に置くな。置いた瞬間、隊は割れる」
教官は顎で樽を示した。
「フォルティス。樽を持て」
「はい」
リュシアが動こうとした瞬間、教官が追い打ちのように言葉を足す。
「一人でだ」
ざわ、と列が揺れた。
教官は列へ向けて言い捨てる。
「今のは見本だ。
“自分の正しさ”を出したいなら、まず命令を完遂してからだ」
視線が再びリュシアに戻る。
「フォルティス。樽を抱えて運べ。丘の上。戻れ。以上だ」
「はい、教官」
リュシアは樽の前に立つ。
満水の重さが、見た目のままにそこにある。
両腕を回して抱えようとして、樽はわずかにしか動かない。
木が軋む。
教官は、助けない。
近くにも寄らない。言葉だけが飛ぶ。
「持ち上がらないなら、まず“持ち上げろ”。工夫は許可していない」
許されているのは、命令の完遂だけ。
リュシアは息を一度吸い直し、指を縁に掛け直す。
膝を落とし、背中を丸めすぎないようにして、腹に力を入れた。
樽が、ようやく地面から浮いた。
その瞬間、腕と腰に鋭い痛みが走り、視界が一瞬白くなる。
それでも、落とさなかった。
教官の声が、淡々と背中を押す。
「走れ」
リュシアは一歩目を出す。
樽の重さで上体が前に引かれ、足がもつれる。
土が靴底を取る。
息が荒くなる。歯を食いしばる音が自分で聞こえる。
列の方から、誰かの喉が鳴る音がした。
教官は列を見たまま言った。
「今、助けに出るな。助けるのは“俺の命令”があってからだ」
釘を刺すような一言で、新兵たちの足が止まる。
「――隊は、命令で動く。善意で動いた隊は、善意で崩れる」
リュシアは樽を抱え、丘へ向かって進む。
途中で腕が痺れ、指先が感覚を失いかける。
樽の縁が胸の骨に食い込み、息が詰まる。
それでも、落とさない。
丘の麓で一度、足が止まりそうになった。
膝が笑い、前に倒れかける。
教官の声が、飛んだ。
「止まるな。止まるなら、落とせ。落とすなら、最初から落とせ。――どっちだ」
選択肢は二つだけ。
完遂か、失敗か。
リュシアは一歩を踏み込んだ。
樽が揺れ、水が中で暴れる。
重さが予想よりもさらに増したように感じる。
歯を食いしばって、もう一歩。
もう一歩。
丘の上に着いたとき、リュシアは樽を置くのではなく、落とすように下ろした。
木が鈍く鳴り、水面が跳ねた。
呼吸が追いつかない。
目の前が暗くなる。
それでも、倒れなかった。
教官は、丘の下から声を張った。
「戻れ」
「はい、教官」
返事は掠れていたが、形にはなっていた。
リュシアは踵を返す。
背後で、教官が列へ言う。
「いいか。命令は、誰のためにある。――お前らのためだ」
誰かが息を呑む。
教官は続ける。
「ここで学べなかった奴は、実戦で困る。困るのは俺じゃない。お前らと、お前らの隊の奴だ」
「はい、教官」
その「はい」は、さっきまでよりも短く、そして重かった。




