56.北方初日
砦が見えたのは、霧の切れ間だった。
荷馬車が最後の丘を越えたとき、一瞬だけ霧が薄くなる。灰色の壁が横に伸びていた。南方の主砦は高さが目に入ったが、ここは幅が先に来る。壁の端が見えない。霧がその先を食っている。
これがブラインドフォグか、とリュシアは思った。
話には何度も聞いたことがあった。視界が悪くなるだけではない。魔力の感知を阻害する霧。索敵精度が落ちる。反応の方向と距離が歪む。冬の間だけで、春先には通常薄くなると聞いていたが、今年は四月に入ってもまだ濃いようだった。
門前に着くと、南方とは手順が違った。
ここは静かだ。静かだが、動線に無駄がない。荷馬車が止まる位置、降りる順番、荷物の受け渡し、すべてに番号が振られている。
「異動着任者はこちらへ。書類を提示してください」
受付の下士官は淡々としている。リュシアが書類を差し出すと、一度だけ目が止まった。名前を確認したのだろう。だが、それだけだった。
「フォルティス少尉。第三中隊所属、魔法騎士班。中隊長への報告は明朝〇八〇〇。本日は官舎に入って待機。導線は案内係が付きます」
「了解です」
「官舎はこちら。案内します」
案内係の兵は、歩きながら最低限の情報だけを落としていく。食堂の位置、浴場の時間、医務室の場所。リュシアは一つずつ頭の中の地図に固定していく。
官舎の入口で、恰幅の良い女性が待っていた。
「フォルティス少尉ですね。ルース・ケンプです。女性兵の生活管理を担当しています」
声は事務的で、温度がない。歓迎の空気もなければ、警戒もない。ただ業務の匂いだけがある。
「リュシア・フォルティスです。ケンプ管理官。よろしくお願いします」
「部屋は単室です。将校区画になります。荷物は自分で入れてください。規則は部屋に置いてあります。読んでください」
「はい」
「明朝の中隊長報告の前に、私のところに一度来てください。提出書類があります」
リュシアは頷いた。ケンプ管理官は紙束に一つ印を入れ、鍵を渡した。それだけだった。
翌朝、ケンプ管理官のところで書類を済ませ、中隊本部に向かった。
壁に近づくにつれ、空気が変わる。官舎のあたりは静かだったが、壁寄りの区画には人の動きがある。走っている者はいない。だが歩く速度が速い。
中隊本部は壁の内側に張り付くように建てられていた。扉を叩くと、中から短い返事がある。
「入れ」
ギデオン・マークス少佐は机の向こうに座っていた。書類を片手に、もう片方の手で茶を持っている。顔を上げ、リュシアを見た。
「フォルティス少尉。着任報告は受けた。書類は後でいい」
ギデオンは茶を机に置き、立ち上がった。南方の上官たちとは体つきが違う。前線指揮官というよりも、長く現場を回してきた実務屋の体だと、リュシアは思った。
「南方での勤務実績は読んだ。悪くない。だが北方は別だ。まず見てもらう」
「はい」
「ハワード、連れて行け」
隣の部屋から男が出てきた。ハワード・ベイル大尉。魔法騎士班の班長だと、リュシアは事前の資料で把握していた。土魔法を扱うベテラン。目がリュシアを一瞬で測り、何も言わずに顎で扉を示した。
「壁上だ。ついてこい」
壁上に出ると、風が変わった。官舎のあたりとは違う、湿った冷気が頬を叩く。
壁上に立った時点では視界はあった。霧は薄い幕のように広がり、遠くが霞む程度。壁の下に広がる地形の輪郭は読める。
壁の外は、南方とは地形が違う。平坦な荒野が続き、遮蔽物が少ない。見通しが利く地形のはずだが、霧がそれを帳消しにしている。
「今日は軽い方だ」
ハワードが言った。リュシアに向けた言葉ではなく、独り言に近い。
その直後だった。
霧が動いた。薄い幕だったものが、数呼吸の間に壁の外を塗り潰していく。壁直下の地面だけがかろうじて見えるが、その先は白い。さっきまで見えていた地形の輪郭が、何もなかったかのように消えた。
「——来るぞ」
ハワードの声が変わった。壁上の空気が一斉に締まる。リュシアの左右で、並んでいた兵たちが動き始めた。走らない。だが手順が速い。
リュシアの耳に、聞き慣れない音が入った。低い、連続した振動。地面からではない。霧の中から来ている。
壁上の兵たちの耳元で、何かが光っている。リンクだ。参謀からの指示が飛んでいるのだと聞いた。リュシアにはその内容は聞こえない。ただ、兵たちが指示を受けて動いているのが分かる。
ハワードが片手を上げた。壁上の魔法騎士が三人、前に出る。
「撃て」
火球が三つ、霧の中に消えた。着弾の音は遅れて返ってくる。低い衝撃と、獣の悲鳴が混ざったもの。
リュシアには目標が見えていなかった。霧の向こうに何がいるのか、壁上からでは分からない。だが撃った三人は迷いなく撃っている。リンクからの指示で方向と距離を受け取り、それに従って撃つ。
南方とは構造が違う。
南方では、自分の目で見て、自分で判断して、自分で撃っていた。ここでは、見えない。見えない相手を、見えない場所から指示を受けて撃つ。前線の魔法騎士は火力ではあるが、判断の起点ではない。
リュシアはハワードの横で黙って見ていた。
「少尉」
ハワードが視線を外さないまま言った。
「どう思う」
リュシアは正直に答えた。
「自分の目が利かない環境で、指示だけで撃っています。南方とは前提が違います」
「そうだ。ここでは頭はオペ室にある。正式には戦略情報室だ。お前の仕事は、指示通りに正確に撃つことだ。それ以上でもそれ以下でもない」
リュシアは頷いた。理解はできる。納得は、まだ遠い。
ハワードはそれ以上何も言わなかった。
戦闘は短かった。三度の斉射で霧の中の反応が途絶え、壁上の緊張が一段下がる。だが兵たちの隊列は解けない。まだ何かを待っているような構えだった。
リュシアは霧の外を見ていた。
見ていた、というより、読んでいた。壁上に立った時点から、索敵は動いている。魔力を広げ、反応を拾う。
フォグの中は読みにくかった。反応の輪郭がぼやけ、距離が歪む。南方の感覚で言えば、精度は確実に落ちている。
だが、読めないわけではない。
さっきの斉射で沈んだ反応が三つ。その手前にもう一つ、弱い反応が残っている。動いていない。致命傷ではないが、動けない程度の損傷だろう。壁からの距離は——霧越しでは正確に取れないが、二百メートル前後。
リュシアが視線をわずかにずらしたのを、ハワードが見ていた。
「何か見えるのか」
「一体、まだ残っています。動きはありません」
ハワードの目が変わった。霧の外に目を向け、それから再びリュシアを見る。
「距離は」
「正確には取れません。二百前後かと。フォグで歪んでいます」
ハワードは黙った。リンクに手を当て、短く何かを伝えた。数秒後、壁上の魔法騎士が一人、指定された方向に火球を撃ち込んだ。低い着弾音。反応が消えた。
ハワードはリュシアを見た。表情は変わっていない。だが、目の中にあった警戒の質が、少しだけ変わった気がした。
「……報告は中隊長に上げる。今日はここまでだ」
「はい」
官舎に戻り、靴を脱いで机に向かった。日記帳を開く。
『四月二日。壁上にて北方の迎撃戦闘を見学。ブラインドフォグ下での索敵は精度が落ちるが、反応の捕捉自体は可能。距離の精度に課題がある。南方とは前提が異なり、前線魔法騎士の判断起点はオペ室にある。明日以降、リンクの運用について確認が必要。』
ペンを置き、一度だけ窓の外を見た。霧はまだそこにある。




