55.窓口3
王都に着いた日、実家に寄った。
二年半ぶりの屋敷は変わっていなかった。門の石畳も、玄関の紋章も、廊下の匂いも。変わったのは自分の方だった。
父は書斎で迎えた。立ち上がって、リュシアの顔を見た。少しだけ間があった。
「よくやった」
それだけだった。リュシアは頭を下げた。北方への転属のことは伝えてある。父はそれについて何も言わなかった。
母は食事の席で、リュシアの手を見ていた。指先は荒れて、硬くなっている。南方に発つ前の手ではなかった。母は何か言いかけて、やめた。代わりに、リュシアの好きだった菓子を出した。
一晩泊まった。自分の部屋はそのまま残されていた。ベッドに横になったが、柔らかすぎてうまく眠れなかった。
翌朝、発つ時、母が玄関まで出てきた。
「体だけは気をつけて」
「はい」
父は出てこなかった。書斎の窓から見ているのが、門を出る時にわかった。
王都の軍務連絡室は、南方の詰所とは匂いが違った。
湿った土も、油の染みた革もない。乾いた紙と蝋の匂いがする。机の上には書類が整然と積まれ、扉の向こうを人が行き交うたびに、低い声が短く交わされる。
リュシアは案内された椅子に座って待っていた。北方行きの経路確認と引き継ぎ書面の受領、その一環として呼ばれたと聞いている。
やがて扉が開いた。
入ってきた男を見て、リュシアは一拍遅れて立ち上がった。
ヴァレリオ・カラディン大尉。二年半前に渡された連絡先のことを、今まで全く思い出さなかったことに気づく。
「忙しいのに呼び立ててしまって悪いな」
「いえ。どのみち近くに来ましたから」
ヴァレリオは机の向こうではなく、斜め向かいの席に座った。必要以上に近くも遠くもない距離だった。
「北方行きの件で、こちらから一度話を通しておきたかった。向こうへ着けば、今までより書面も照会も増える。形式が増えるだけで、本質は変わらない」
「本質、ですか」
「君は現場で仕事をする。余計なことで煩わせない。それがこっちの仕事だ」
淡々とした口調だった。恩着せがましさはない。最初からそう決まっていた役割を、ただ確認しているだけのような言い方だった。
リュシアはその言葉を頭の中で反芻した。
余計なことで煩わせない。
南方にいた間、自分は王都のことをほとんど考えなかった。婚約破棄の余波も、公爵家の娘としての扱いも、王太子府の意向も、思ったほど現場へ入ってこなかった。戦うこと、報告すること、食べること、眠ること。その繰り返しで日々は埋まっていた。
それは、自分が忘れていただけだったのだと思っていた。
だが、忘れていられたこと自体が、目の前の男の仕事だったのかもしれない。
「私は、南方にいる間、王都のことをほとんど考えずに済みました」
リュシアは言った。
「それは偶然ではなかったのですね」
ヴァレリオは少しだけ目を細めた。
「偶然にしては出来すぎているな」
それだけだった。肯定は短かった。
リュシアは膝の上で指を組み直した。
「ありがとうございます」
「そういう仕事だ」
「ですが、感謝しています」
ヴァレリオは少しだけ黙った。
それから、話題をずらすように書類を一枚めくった。
「南方での記録は見ている。想定以上だった」
その言い方は、社交辞令ではなかった。軍人が軍人に対して下す評価の声だった。
「最初に聞いていたのは、索敵ができるほど魔力の制御が上手い公爵家の令嬢、扱いが難しい、くらいだったんだが」
そこで初めて、ヴァレリオの口元がわずかに緩んだ。
「ずいぶん変わったな」
リュシアは少しだけ首を傾げた。
「そうでしょうか」
「そうだ。初めて見た時は、線が細くて、風が吹いたら折れそうだった」
言ってから、ヴァレリオは少しだけ視線を外した。今の言い方は余計だったか、と自分で判断した顔だった。
「今は違う。返答も立ち方も、もう完全に軍人だ」
リュシアは黙って聞いていた。
軍人らしくなった、と言われることに、違和感はなかった。嬉しいかどうかはよくわからない。ただ、南方で積み上げたものが、外からもそう見えるのだとは思った。
「北方行きは保護ではない」
ヴァレリオは書類から目を上げた。
「南方でも役には立つ。だが、向こうではもっと代えが利かない。だから行く」
「はい」
「最初の頃の君なら、話は通らなかった」
その一言だけ、少し重かった。
リュシアはすぐには返事ができなかった。
最初の頃の自分はたしかに駄目だったと思う。見えているものを一人で処理しようとしていた。自分が正しいと思えば、順番を飛ばした。今は違う。違うからこそ、北方へ回される。
奇妙な形だった。
最初は、自分だけができる仕事を、自分で勝手にやりに行った。
今は、もっと自分にしかできない仕事がある場所へ、組織の判断で送られる。
「理解しました」
「理解が早いのは助かる」
「命令ですから」
「それだけでもないだろう」
ヴァレリオはそう言ったが、それ以上は踏み込まなかった。公の話としてここまで、という線の引き方が見えた。
リュシアは机の上の書面を見た。北方行きの承認、引き継ぎ、窓口の更新、照会先の変更。自分が北へ行くことは、もう完全に制度の上に載っている。
だが、その制度の中に、自分が前線で戦うことを許容するための誰かの手仕事が混ざっていたのだと、今はわかる。
「北方でも、引き続きよろしくお願いいたします」
リュシアは頭を下げた。
「こちらこそ」
ヴァレリオはそう返した。
「君が前で働けるように、後ろは引き受ける」
その言葉は、約束というより確認だった。
だからこそ、重かった。
短い面談はそれで終わった。
立ち上がって扉の方へ向かいかけた時、ヴァレリオが最後に言った。
「北方は南方より容赦がない。だが、君ならやれると思っている」
リュシアは振り返った。
「はい」
それ以上の返事は出てこなかった。
ただ、その評価が、貴族令嬢への気遣いでも王都側の方便でもなく、軍人としての言葉だということだけはわかった。
廊下へ出る。乾いた紙と蝋の匂いがまた戻ってくる。
南方では、王都のことを忘れていられた。
その忘却の後ろに、窓口として立っていた人間がいた。
リュシアは廊下をまっすぐ歩いた。
次に顔を上げるべき場所は、もう北の方角だった。




