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54.別れ

 出発の三日前、リュシアは荷造りを始めた。

 荷物は少なかった。軍の支給品は返却するから、自分のものはノートと筆記具と、数冊の本と、着替えが少し。ノートだけが嵩張った。二年分の記録が詰まっている。

 エリカは自分の寝台で本を読んでいたが、リュシアが荷物を詰めているのを見て、本を閉じた。


「あんたの方が先にいなくなるとはね」


「はい」


「向こうに行っても頑張りなよ。あんたなら大丈夫」


「はい」


 エリカは少し笑った。


「こんな時でもそんな感じなの。ほんとあんたって感じ」


 リュシアはノートを一冊ずつ鞄に入れていた。手が止まった。一番古いノート。着任直後のもの。字が硬い。


「……エリカ先輩」


「ん」


「私は、自分の感情がわからない時が多いです」


 エリカは黙って続きを促す。


「でも、感情はあります」


 リュシアはノートを持ったまま、鞄の横に座っていた。エリカの方は見なかった。


「他人の感情がわからないのに、自分の気持ちだけわかってほしいと思うのは、不公平だと思っていました。だから、今まで言いませんでした」


 エリカは何も言わなかった。


「でも、今は、エリカ先輩と離れるのが寂しいです」


 手が少しだけ震えた。リュシアは自分でそれに気づいて、ノートを握り直した。


「それを、先輩にわかってほしいと思っています」


 部屋が静かだった。


「……ばか」


 エリカの声が少し震えていた。


「そういうことはもっと早く言いなさいよ」


「すみません」


「謝らなくていい」


 エリカが寝台から降りて、リュシアの横に座った。リュシアの手からノートを取って、丁寧に鞄に入れた。


「私もあんたと別れるの寂しいよ。言わなくてもわかると思ってたけど、わかんないよね、あんたは」


「……はい」


「だから言う。あんたがいて楽しかった。二年半、同じ部屋でよかった」


 リュシアは膝の上に置いた手を見ていた。視界がぼやけた。泣いているのかもしれない。よくわからなかった。


「手紙くらい書いてよ。あんたの文章、わかりやすいから好きだよ」


「書きます」


 エリカはリュシアの肩を一度だけ軽く叩いて、自分の寝台に戻った。

 リュシアは残りのノートを一冊ずつ鞄に入れた。手は、もう震えていなかった。






 発つ前日の午後、荷物をまとめ終えたところで、リュシアはラウルを見つけた。


 第三小隊の区画の外、壁際に積まれた予備盾の点検をしている。いつもの手つきだった。何も変わらないように見えるのが、かえって不自然だった。


「ヴァイス曹長、確認したいことがあります」


「何だ」


「離任前に礼を述べたい相手が何人かいます。順番に伺おうと思うのですが、方面軍総司令官にはアポイントが必要ですか」


 ラウルの手が止まった。


「誰に」


「方面軍総司令官です」


「やめろ」


 即答だった。


 リュシアは少し考えた。


「必要な手続きがあるなら従います」


「そういう話じゃない」


 ラウルは予備盾を置いた。


「忙しい相手に、個人の礼で時間を取らせるな」


「ですが、自分が最前線に出ることを許容されていたのは、上の判断です。今ならそれがわかります。礼は相手に伝わらなければ意味がないと教わりました」


「限度がある」


 ラウルは低く言った。


「お前が勝手に飛び込んでいい相手と、そうじゃない相手がいる。総司令官にまで直接行くな。迷惑だ」


 迷惑。リュシアはその語を頭の中で一度転がした。


「では、書面なら差し支えありませんか」


 ラウルは一瞬だけ黙った。


「短くしろ。儀礼の範囲なら通る」


「わかりました」


「口頭で済む相手には口頭で言え。わざわざ全部書くな」


「はい」


 ラウルはそれで終わりかと思ったのか、また予備盾に手を伸ばした。リュシアはその横顔を見て、続けて言った。


「曹長にも、後で改めてお礼を言います」


「今じゃ駄目なのか」


「順番があります」


「そうかよ」


 ラウルはそう言ったが、追い払わなかった。





 その日のうちに、礼を言える相手には言いに行った。


 工兵詰所ではギャレットが顔をしかめた。


「礼なんて言われる筋じゃないです。北のことはよく知りませんが、障害の形くらいは最初に見といたほうがいいですよ」


「見ます。ありがとうございました」


「はい。お元気ですか」


 素っ気ないが迷惑そうではなかった。


 ロウソンは短かった。


「北は近い穴より遠い穴の方が先に人を殺す。お前の索敵なら、最初にそこを見る癖をつけろ」


「はい。お世話になりました」


「まだ終わってない。死ぬな」


 それだけだった。


 マーカスは地図の端を指で叩きながら言った。


「向こうは霧が厄介だと聞きます。地形が見えない時ほど、見えているつもりで歩かないことです」


「覚えておきます」


 リーナは少しだけ固い顔で敬礼した。


「お世話になりました。北方でもご武運を」


 以前ならもっと何か言っただろうに、今日はそれだけだった。だが、目はちゃんと前を向いていた。もう大丈夫だとわかる顔だった。


「カーター少尉も」


「はい」


 返事は短く、まっすぐだった。


 中隊長への挨拶は、やはり一番緊張した。レインズ少佐は書類から顔を上げただけで、特別なことは何も言わなかった。


「北方でも記録を取れ。あっちはあっちで使い道がある」


「はい。南方では大変お世話になりました」


「大した世話はしてない。もういい。行け」


 言葉は乾いていたが、軽くはなかった。


 アメリアには手紙を書いた。

 後方の病院に勤務しているというアメリアに返信するついでに一言だけ書き添えた。


 方面軍総司令官宛の短い書面は、結局レインズ少佐経由で回してもらうことになった。ラウルの言う通り、儀礼の範囲に収めた。短すぎる気もしたが、長くしても意味がないのはわかった。


 




 夜、部屋へ戻ると、エリカは荷造りの終わった鞄を見て言った。


「本当に行くんだね」


「はい」


「あんたの方が先にいなくなるとは思わなかった」


 口調は軽かった。だが、軽口だけではなかった。


「先輩も、お元気で」


「うん。あんたも。北で無理して倒れたら怒るよ」


「はい」


 それで十分だった。言うべきことはもう言った。今日は型通りで足りた。


 エリカはそれ以上何も言わず、寝台の上で片手を振った。リュシアも小さく頭を下げた。







 当日の朝、最後に残ったのはラウルとアデルだった。


 ラウルは荷車の近くにいた。北へ運ぶ私物は多くない。箱も袋も小さい。確認することはもうほとんど残っていなかった。


「曹長」


「おう」


 ラウルは積み荷を見たまま返した。


「お世話になりました」


「そうか」


「最初から最後まで、たくさん教えていただきました」


 ラウルはそこでようやく振り返った。


「最初は面倒なのを押しつけられたと思ったが、まあ、そうでもなかった」


 それだけだった。


 リュシアは少しだけ目を見開いた。皮肉のようで、違うことはわかった。


「ありがとうございます」


「礼はいい。向こうで勝手に飛び出すな。見えても全部抱えるな。渡せるものは渡せ」


「はい」


「最初はそれができなかった」


「はい」


「今は少しできる。だから呼ばれた」


 ラウルはそこで話を切った。


「行け。隊長を待たせるな」


「はい」







 アデルは第三小隊の執務机の前にいた。机の上には書類が積まれている。いつも通りだった。いつも通りのまま、今日だけが違う。


「失礼します」


「入れ」


 リュシアは机の前で止まった。


「離任前の挨拶に来ました」


「聞いている」


 アデルは書類から顔を上げた。視線は短く、まっすぐだった。


「北方では、これまで以上に役割を果たします」


「そうしろ」


 そこで終わるはずだった。

 型としては十分だった。

 だが、足りなかった。


 リュシアは口を開いた。開いて、止まった。


 何と言うべきなのか、急にわからなくなった。


 礼を言いたい。それは確かだった。だが、いつもの礼では足りない気がした。何が足りないのか、自分でもわからなかった。


 アデルが少しだけ眉を動かした。


「どうした」


 リュシアは一度息を吸った。


「隊長には、お世話になりすぎました」


 そこまでは言えた。


「型通りの礼では足りない気がするのに、何と言えばよいのか、わかりません」


 言ってから、胸の奥が少しだけ軽くなった。正しい言葉かどうかはわからない。ただ、嘘ではなかった。


 アデルは数秒、何も言わなかった。


 それから、いつもの声で返した。


「仕事のうちだ。礼はいらない」


 そこで終わると思った時、ごく短く付け足した。


「お前は自分の分を、もう十分に果たしている」


 リュシアは返事が遅れた。


「……はい」


「以上だ。行け」


 命令口調だった。追い返すためのものではなく、いつも通りに切るための言い方だった。


「はい。失礼します」


 敬礼して、向きを変える。扉に手をかけた時、一度だけ足が止まりそうになった。だが止まらなかった。そのまま外へ出た。







 外はもう明るかった。


 荷車のそばで待っていた兵が、出発の合図を確認している。第三小隊の区画も、南方の空気も、変わらずそこにあった。自分だけがそこから外れていく。


 リュシアは振り返らなかった。


 振り返っても、たぶん何も変わらないからだ。

 変わらないまま、もう戻らないのだということだけが、少しずつ形になっていた。

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