表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
50/53

50.後方の灯

 午後の巡回から戻って、装備を片づけてから医務室に向かった。


 前回アメリアに教わった止血の優先順位について、巡回中に考えていたことがある。治癒が来るまでの間に前線で判断しなければならない場面は、これまでに何度かあった。どこを先に押さえるか。何を後回しにしていいか。リュシアは自分なりに整理したものを確認したかった。


 医務室の前で、アメリアとすれ違った。


 廊下を歩いてくるアメリアは、いつも通りに見えた。白衣の袖を肘まで折っていて、髪を後ろで束ねている。ただ、少しだけ歩く速度が遅かった。


「サリヴァン中尉。今、少しよろしいですか」


 アメリアは立ち止まって、リュシアを見た。


「いいよ。何」


「止血の優先順位について確認したいことがあります。前回教えていただいた内容を整理したのですが」


 リュシアはノートを開いた。巡回中に書き足した走り書きが並んでいる。


「四肢の出血と体幹の出血が同時にある場合、体幹を先に押さえるというのは理解しました。ただ、四肢の出血が動脈性の場合、体幹が浅ければ四肢を先にすべきですか」


「場合による。体幹が浅くても内臓に達してる可能性があるなら、体幹が先。見た目で判断できない時は体幹を優先。迷ったら体幹。覚えておいて」


 リュシアはノートに書き込んだ。迷ったら体幹。


「もう一つ。圧迫で止まらない四肢の動脈性出血で、緊縛が必要な場合。緊縛の位置は出血点より中枢寄りのどのあたりが適切ですか」


「出血点から拳一つ分。それより遠いと効かない。近すぎると外した時に再出血する」


 リュシアはまた書き込んだ。アメリアはリュシアのノートを横から覗いた。前回の内容がきれいに整理されていて、その下に今日の質問が箇条書きで並んでいた。


 アメリアはしばらくリュシアの手元を見ていた。


 リュシアがペンを止めて顔を上げると、アメリアの表情が少し変わっていた。笑っているようにも見えたし、そうでないようにも見えた。


「……ちゃんとやってるね」


「はい。現場で使えるようにしておきたいので」


 アメリアは廊下の壁にもたれた。いつもはしない姿勢だった。


「——今日、診察を受けたの。私の方が」


 リュシアはノートを持ったまま、黙って待った。


「魔力枯渇の診断が出た。今すぐなくなるわけじゃない。……でも近いうちに治癒はできなくなる」


 声は平坦だった。報告するような口調だった。ただ、壁にもたれた肩が少しだけ下がっていた。


「もう上限が落ちてるの。前みたいに底まで使えば、次は過放出で体に出るかもしれない。だから、できる治癒はかなり減ると思う」


 一息に言いきってから、ふと息を漏らす。

 アメリアの視線が、リュシアの手元のノートに落ちた。それからゆっくりと外れた。


「まあ、正直、少しほっとしてる」


 そう言ってから、アメリアは自分の言葉に少し顔をしかめた。


「……こういうこと言うもんじゃないね。忘れて」


 リュシアは何を言えばいいのかわからなかった。


 アメリアが前線で治癒を続けてきたこと。毎日、傷ついた兵を診て、治せるものは治し、治せないものは判断して、その判断を自分で引き受けてきたこと。それがどれだけ重いか、リュシアには正確にはわからない。でも、重いことだけはわかる。


 だからほっとしてると言った時の顔が、嘘には見えなかった。


「——今は、体は大丈夫ですか」


 出てきたのは、それだけだった。


 アメリアは少し驚いた顔をして、それからいつもの調子に戻った。


「大丈夫。魔力が使えなくなるだけで、体は元気。心配しなくていいよ」


「はい」


「じゃあね」


 アメリアは壁から背中を離して、医務室の方に歩いていった。リュシアはその背中を見ていた。ノートはまだ開いたままだった。






 夜、宿舎でエリカと向かい合っていた。


 灯りは一つだけ点けている。エリカは寝台の上で膝を抱えていた。リュシアはノートを開いていたが、ペンは動いていなかった。


「サリヴァン中尉が、辞めることになったそうです」


「聞いた。魔力枯渇だって」


 もう広まっているのか。リュシアは少し驚いたが、考えてみれば治癒士の離脱は隊全体に影響する。広まるのは当然だった。


「……残念です」


「うん」


 エリカは静かに聞いていた。


 リュシアは言葉を探した。何が残念なのか、正確に言いたかった。でもうまくまとまらない。


「治癒ができなくなることが、というのとは少し違うんです」


「うん」


「サリヴァン中尉は——」


 リュシアはペンを置いた。


「自分の仕事の範囲をわかっている人でした。何ができて、何ができないか。何が自分の管轄で、何がそうでないか。いつも線が引いてあって、その線の内側で、全力でした」


 エリカは何も言わなかった。


「あの人がいなくなっても、後任は来ます。治癒はできます。でも——」


 そこで止まった。その先が出てこない。何が惜しいのか。治癒士がいなくなることではない。あの人がいなくなること。でもそれを言葉にすると、ただの感情になる。


 リュシアは黙った。


 エリカがしばらくしてから、静かに言った。


「わかるよ」


 それだけだった。それ以上は聞かなかった。


 リュシアはノートを閉じて、灯りを消した。






 三日後、リュシアは医務室にいた。


 アメリアはまだそこで仕事をしていた。後任への引き継ぎ資料を作りながら、通常の診察もこなしている。机の上には書類が積まれていて、忙しそうだった。


 リュシアは入口で少し迷ってから、声をかけた。


「今、少しよろしいですか」


 アメリアが顔を上げた。リュシアの手にノートがあるのを見て、一瞬だけ何かの表情が過ぎった。でもすぐにいつもの調子に戻った。


「いいよ。何」


「緊縛の件で、もう一つ確認したいことがあります」


 リュシアはノートを開いた。前回の走り書きの続きに、新しい質問が並んでいる。


 いつも通りのやりとりが始まった。アメリアが答え、リュシアが書く。管轄の線は変わらない。


 アメリアがまだここで仕事をしている。だからリュシアは聞きに来る。それだけのことだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ