50.後方の灯
午後の巡回から戻って、装備を片づけてから医務室に向かった。
前回アメリアに教わった止血の優先順位について、巡回中に考えていたことがある。治癒が来るまでの間に前線で判断しなければならない場面は、これまでに何度かあった。どこを先に押さえるか。何を後回しにしていいか。リュシアは自分なりに整理したものを確認したかった。
医務室の前で、アメリアとすれ違った。
廊下を歩いてくるアメリアは、いつも通りに見えた。白衣の袖を肘まで折っていて、髪を後ろで束ねている。ただ、少しだけ歩く速度が遅かった。
「サリヴァン中尉。今、少しよろしいですか」
アメリアは立ち止まって、リュシアを見た。
「いいよ。何」
「止血の優先順位について確認したいことがあります。前回教えていただいた内容を整理したのですが」
リュシアはノートを開いた。巡回中に書き足した走り書きが並んでいる。
「四肢の出血と体幹の出血が同時にある場合、体幹を先に押さえるというのは理解しました。ただ、四肢の出血が動脈性の場合、体幹が浅ければ四肢を先にすべきですか」
「場合による。体幹が浅くても内臓に達してる可能性があるなら、体幹が先。見た目で判断できない時は体幹を優先。迷ったら体幹。覚えておいて」
リュシアはノートに書き込んだ。迷ったら体幹。
「もう一つ。圧迫で止まらない四肢の動脈性出血で、緊縛が必要な場合。緊縛の位置は出血点より中枢寄りのどのあたりが適切ですか」
「出血点から拳一つ分。それより遠いと効かない。近すぎると外した時に再出血する」
リュシアはまた書き込んだ。アメリアはリュシアのノートを横から覗いた。前回の内容がきれいに整理されていて、その下に今日の質問が箇条書きで並んでいた。
アメリアはしばらくリュシアの手元を見ていた。
リュシアがペンを止めて顔を上げると、アメリアの表情が少し変わっていた。笑っているようにも見えたし、そうでないようにも見えた。
「……ちゃんとやってるね」
「はい。現場で使えるようにしておきたいので」
アメリアは廊下の壁にもたれた。いつもはしない姿勢だった。
「——今日、診察を受けたの。私の方が」
リュシアはノートを持ったまま、黙って待った。
「魔力枯渇の診断が出た。今すぐなくなるわけじゃない。……でも近いうちに治癒はできなくなる」
声は平坦だった。報告するような口調だった。ただ、壁にもたれた肩が少しだけ下がっていた。
「もう上限が落ちてるの。前みたいに底まで使えば、次は過放出で体に出るかもしれない。だから、できる治癒はかなり減ると思う」
一息に言いきってから、ふと息を漏らす。
アメリアの視線が、リュシアの手元のノートに落ちた。それからゆっくりと外れた。
「まあ、正直、少しほっとしてる」
そう言ってから、アメリアは自分の言葉に少し顔をしかめた。
「……こういうこと言うもんじゃないね。忘れて」
リュシアは何を言えばいいのかわからなかった。
アメリアが前線で治癒を続けてきたこと。毎日、傷ついた兵を診て、治せるものは治し、治せないものは判断して、その判断を自分で引き受けてきたこと。それがどれだけ重いか、リュシアには正確にはわからない。でも、重いことだけはわかる。
だからほっとしてると言った時の顔が、嘘には見えなかった。
「——今は、体は大丈夫ですか」
出てきたのは、それだけだった。
アメリアは少し驚いた顔をして、それからいつもの調子に戻った。
「大丈夫。魔力が使えなくなるだけで、体は元気。心配しなくていいよ」
「はい」
「じゃあね」
アメリアは壁から背中を離して、医務室の方に歩いていった。リュシアはその背中を見ていた。ノートはまだ開いたままだった。
夜、宿舎でエリカと向かい合っていた。
灯りは一つだけ点けている。エリカは寝台の上で膝を抱えていた。リュシアはノートを開いていたが、ペンは動いていなかった。
「サリヴァン中尉が、辞めることになったそうです」
「聞いた。魔力枯渇だって」
もう広まっているのか。リュシアは少し驚いたが、考えてみれば治癒士の離脱は隊全体に影響する。広まるのは当然だった。
「……残念です」
「うん」
エリカは静かに聞いていた。
リュシアは言葉を探した。何が残念なのか、正確に言いたかった。でもうまくまとまらない。
「治癒ができなくなることが、というのとは少し違うんです」
「うん」
「サリヴァン中尉は——」
リュシアはペンを置いた。
「自分の仕事の範囲をわかっている人でした。何ができて、何ができないか。何が自分の管轄で、何がそうでないか。いつも線が引いてあって、その線の内側で、全力でした」
エリカは何も言わなかった。
「あの人がいなくなっても、後任は来ます。治癒はできます。でも——」
そこで止まった。その先が出てこない。何が惜しいのか。治癒士がいなくなることではない。あの人がいなくなること。でもそれを言葉にすると、ただの感情になる。
リュシアは黙った。
エリカがしばらくしてから、静かに言った。
「わかるよ」
それだけだった。それ以上は聞かなかった。
リュシアはノートを閉じて、灯りを消した。
三日後、リュシアは医務室にいた。
アメリアはまだそこで仕事をしていた。後任への引き継ぎ資料を作りながら、通常の診察もこなしている。机の上には書類が積まれていて、忙しそうだった。
リュシアは入口で少し迷ってから、声をかけた。
「今、少しよろしいですか」
アメリアが顔を上げた。リュシアの手にノートがあるのを見て、一瞬だけ何かの表情が過ぎった。でもすぐにいつもの調子に戻った。
「いいよ。何」
「緊縛の件で、もう一つ確認したいことがあります」
リュシアはノートを開いた。前回の走り書きの続きに、新しい質問が並んでいる。
いつも通りのやりとりが始まった。アメリアが答え、リュシアが書く。管轄の線は変わらない。
アメリアがまだここで仕事をしている。だからリュシアは聞きに来る。それだけのことだった。




