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43.霧

  南方の夏が終わりかける頃、霧が出ることはある。

 だが、これほど濃いことは滅多にない。

 長雨期が明けて晴れ間が続いた後の、冷え込みの朝。地面に残った湿りが息を吐くように立ち上がり、哨戒線一帯を白く塞いだ。視界は十歩先まで。ひどい場所は五歩先も見えない。


 斥候は出せない。マーカスの足と目は、視界があってこそ使える。

 風の索敵も精度が落ちる。霧の水分が風を乱して、反応がぼやけるとロウソンは言う。


 その日の巡回は早々に打ち切られた。

 朝は薄かった霧が、二つ目の定点に着く頃には五歩先が消えるほど濃くなった。ラウルが局中継リンクでアデルに状況を報告し、帰還命令が出た。今日の巡回組は皆リンクを持たされていた。視界が悪い中、これが唯一の命綱だった。

 リュシアは索敵を維持しながら帰路の誘導を務めていた。

 帰投中、リンクに連絡が入った。アデルの声だった。


『隣の小隊の巡回班から報告。前線兵が一名、南側の谷筋で滑落。霧で足元を見失い、岩場を転落した。班員は引き上げられず、そのまま帰投して報告を上げた。救助隊を編成中だが、霧が濃すぎて出発できていない。滑落地点は不明。谷筋のどこかとしかわかっていない。——お前たちはそのまま帰投しろ』


 ラウルが「了解」と返した。

 哨戒線に沿って北に戻る途中だった。

 リュシアの索敵に引っかかる反応があった。


「——曹長。南南西五百に、小型が二体。動きがおかしい」


 ラウルが振り返った。


「おかしい?」


「同じ地点を旋回しています。何かの周りを回っている」


 全員の足が止まった。


「旋回の中心に微弱な反応があります。……人かもしれません」


「朝の滑落か」


「方角と距離が谷筋と一致します」


 ラウルは考えた。短い時間だった。


「位置を記録しろ。拠点に共有する。——救助隊の仕事だ」


「了解。南南西、推定五百。哨戒線南端の定点から——」


 リュシアは方角と距離を正確に読み上げた。ラウルが局中継リンクでアデルに伝達した。アデルの声が返ってきた。短かった。


『了解した。救助隊に共有する。お前たちはそのまま帰投しろ』


 これが、今の自分たちにできることだった。位置の特定と共有。救助そのものは、装備を持った救助隊がやる。霧の中の谷筋の岩場を、索敵だけで降りるのは無理だ。地形が見えない。

 わかっている。わかっているが。


「……小型の動きが変わりました」


 声が硬くなったのが、自分でもわかった。


「一体が旋回をやめました。中心に近づいています」


 ラウルが黙った。リュシアも黙った。五百先で何が起きようとしているか、二人とも想像できていた。


 リュシアの手が震えた。索敵で「見えている」。五百先で小型が、動けなくなった人間に近づいている。近づいている。

 九百先の魔獣が見える。六百先の群れの動きがわかる。それが自分の力だ。でも今、五百先で人が襲われようとしているのが見えていて、何もできない。


「曹長。こちらで音を出して、小型を引きつけられませんか」


 ラウルが一瞬だけリュシアを見た。


「引きつけてどうする。この霧で足場も悪い。二体を迎撃できるか。二体で済めばいいが、他を呼ぶかもしれない」


「……はい」


「気持ちはわかる。だが駄目だ」


 リュシアは返事をして、口を閉じた。

 言葉を足しても状況は変わらない。それでも、索敵の輪郭が揺れた。呼吸が浅くなる。落ち着け、と自分に言う。落ち着いたところで、できることは増えない。


リュシアの横にいた前線兵が、一歩前に出た。


「……少尉。索敵で誘導してもらえれば、自分が降ります」


 リュシアは前線兵を見た。


「できません」


「少尉の索敵なら魔獣の位置はーー」


「魔獣は避けられます。でも、岩場は見えない。斜面の傾斜も、崖の縁も、石の配置も見えません。見えるのは魔力だけです。あなたを安全に降ろす力が、私にはありません」


 前線兵は何か言おうとして、止めた。


「……助けたいのはわかります。でも、ここで二人目が落ちたら、救助はより難しくなる」


 前線兵は黙って、一歩下がった。


「……了解です。少尉」


 誰も動けなかった。五百先で何が起きようとしているか、全員が想像していた。


 雷を撃つか。五百なら届く。だが地形が不明で射線が通るのか分からない。万が一にも兵に当てるわけにはいかない。小型は二体。一体を仕留めても、もう一体がいる。

 土魔法で足場を作って降りられるか。霧の中見えない地形に、精度の出ない土で深さの分からない谷底に足場を作れるか。


「——中心の反応が動きました」


 自分の声が遠く聞こえた。


「微弱ですが、動いた。……生きています。小型が——離れました。二体とも中心から離れて南に移動しています」


 ラウルが小さく息を吐いた。前線兵たちにも安堵の空気が広がる。去った。理由はわからない。死んでいると思ったか、別の何かに気を取られたか。


「小型二体、南に移動中。旋回地点から離れています」


「よし。……位置情報は伝達した。救助隊が動けるようになれば、ここに来る」


「はい」




 拠点に戻った。

 霧は午後になっても晴れなかった。救助隊はリュシアが伝えた位置情報をもとに、霧が薄まった夕方に出発し、回収されたと聞いた。


 夕食後、リュシアは指揮所へ報告に行った。

 霧の日は提出物が増える。リンク記録の控え、座標、時刻。救助隊に回した内容と齟齬がないかを当日中に潰す。第三小隊の手順だった。


 隊長室の灯りはまだ点いていた。机の上に地図と回収報告、それに控えの紙束が揃っている。

 アデルが目を上げた。


「置け」


 リュシアは紙を机の端に揃えて置いた。座標、時刻、反応の変化。霧の中で拾えたことは少ないが、少ないからこそ誤差が怖い。


「本日の霧中事案の報告です。南南西推定五百。小型二体が旋回し、中心に微弱反応がありました。救助隊に位置情報を共有済みです」


 アデルは紙に目を落とし、地図の一点を指で押さえた。


「救助班の情報と一致してる。当該兵は救助班が回収した。右脚と肋骨を折ってるが、命に別状はない。治療はサリヴァン中尉が当たっている」


「……はい」


「お前にできたのは位置の特定だけだ。そして、それをやった。以上だ」


 アデルはデータを机に置いた。


「明日の巡回は通常通りだ」


 リュシアは敬礼して、執務室を出た。

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