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42.後方の戦場

 盾兵の負傷から三日後、リュシアは医務室を訪ねた。

 砦の医務室は本棟の東側にある。石造りの壁に囲まれた細長い部屋で、折り畳みの寝台が八つ並んでいる。消毒液の匂いが常に薄く漂っていた。


 入口で立ち止まると、中から衛生兵が包帯の束を抱えて出てきた。リュシアとぶつかりかけて、顔を上げる。


「すみません、少尉」


「問題ありません。通ってください」


 衛生兵が去った後、奥から声がした。


「フォルティス少尉? 珍しいわね。怪我?」


「いえ。お時間があれば、お聞きしたいことがあります」


「時間はあるわ。今は軽傷が二人だけ。座って。立ったまま話すと、こっちが疲れるから」


 アメリアは寝台の一つに腰を下ろして、リュシアを手招きした。袖をまくった腕に薬品の跡が残っている。



「先日の盾兵の件で、自分の判断が医療にどう影響するかを知りたいと思いました。それと、前線で自分にできる応急処置があるなら、教えていただきたいです」


 リュシアは隠さなかった。


 アメリアが少しだけ目を細める。


「応急処置まで? あなた、攻撃型の魔法騎士でしょう」


「はい。でも、盾兵が倒れた時に自分が何もできなかった。曹長が来るまで、私は立っていただけでした」


「……正直ね。じゃあ、順番に話しましょう」


 アメリアは指を一本立てた。


「まず、前線で何が起きると医務室が困るか。一つ目。負傷者が一度に来ること。重傷が一人なら私が全力で治せる。でも重傷が三人同時に来たら、誰を先にするか選ばなきゃいけない」


「トリアージ」


「そう。先日あなたに話した、一日の治癒上限の話。あれに直結するの。重傷二人が限界なら、三人目は待たせるしかない。待たせている間に状態が落ちたら、助けられたはずの人が助けられなくなる」


 指が二本目になった。


「二つ目。負傷の種類。浅い切り傷なら衛生兵が縫える。治癒魔法はいらない。でも骨折や内臓損傷は私の魔法でないと処置できない。あなたたちが前に出れば出るほど、深い傷が増える。先日の盾兵の肩の棘は、衛生兵では抜けなかった」


「前に出る距離と、負傷の深さが比例する」


「そう。だから前線の騎士に一つだけお願いがある」


「何でしょう」


「助けやすい負傷の仕方で帰ってきて。致命傷を抱えて、後は頼むみたいな目で見られるのは一番困る。私の魔力にも限りがある。あなたが一歩引いてくれれば、その分、本当に危ない人のために力を残せる」


「……以前も、似たことをおっしゃいました」


「何度でも言うわ。大事なことだから」



「では、応急処置について教えてください」


「本気ね」


「はい」


 アメリアは立ち上がって、棚から包帯と木片と水筒を持ってきた。


「前線で魔法騎士ができることは限られてる。でも、三つだけ覚えて」


 アメリアはリュシアの手を取り、指を手首に当てさせた。


「一つ目。脈を取ること」


 次に、アメリアは自分の首の横に指を導いた。


「前線では手首を探ってる暇がない。首。ここ。頸動脈。意識がなくても脈があれば生きてる。脈が速くて弱いなら、出血かショックを疑える。速いだけでも、落ち着いてない証拠にはなる」


 リュシアは首筋で拍動を確認した。指先に伝わる脈は、思っていたより強い。


「二つ目。止血。深い傷は布で押さえる。押さえたら離さない。押さえながら呼ぶ。それだけでいい」


 アメリアは包帯をリュシアの腕に巻いて見せた。強さの加減。巻く方向。きつすぎると先が冷える。緩すぎると意味が薄い。


「はい、やってみて」


 リュシアはアメリアの腕に包帯を巻いた。布の端がずれて、二度巻き直した。


「三つ目。骨折の固定。木片を添えて、布で縛る。動かさないことが一番大事。折れた骨が動くと、別の場所を傷つけることがある」


 リュシアは言われた通りにやった。木片がずれた。結び目が緩かった。アメリアが手を添えて直した。


「……あなた、手先は不器用なのね」


「はい。靴紐もうまく結べません」


「魔法はあんなに器用なのに?」


「魔力は出力の大きさが自覚できます。指先の力の大きさは自覚できません」


 アメリアが少し笑った。


「まあいいわ。不器用でもできることはある。止血は力の問題だし、脈は触れればわかる。包帯は……練習しなさい」


「はい」


「それから、観察。脈拍以外に、呼吸の深さ、瞳孔の反応、体温。前線で全部やる必要はないけど、覚えておいて損はない。これは手先の器用さは関係ない。観察の問題だから」


 アメリアは一つずつ教えた。リュシアは見て、聞いて、覚えた。手を動かす技術は拙いが、観察する目は正確だった。


「あなたの索敵は魔力反応を読むんでしょう。バイタルも同じよ。体の中で何が起きているかを、外から読み取る」


「索敵に似ています」


「似てるの。だから、あなたには向いてると思う」


 できることと、できないことの境界が、医務室でははっきり見えた。



 一時間ほどで、アメリアが切り上げた。


「今日はここまで。続きはまた来なさい。一回で全部は無理」


「ありがとうございます。また来ます」


「あのね」


 アメリアが立ち上がりながら言った。


「前線の魔法騎士は大抵、自分の前にいる敵しか見ていない」


「……はい。私もそうでした」


「今は違うでしょう。だから、教えた」


 アメリアは少し笑った。


「あなたが無事でいること。盾兵が無事でいること。それは全部、こっちの仕事に直結してる。前で戦う人と、後ろで治す人が、お互いの仕事を知っていれば、間で落ちる命が減る」


「歯車が噛み合う、ということですね」


「そう。あなた、その言い方好きね」


「中尉に教わりました」


「ベネット中尉らしいわ」


 アメリアは包帯を片付けながら、背中越しに言った。


「また来なさい。包帯の巻き方、もう少し練習した方がいい」


「はい。一つ確認させてください。何度もここに来たら、皆さんの邪魔になりませんか」


 アメリアは少し意外そうな顔をした。


「大丈夫よ。邪魔だったら追い出すから」


「安心しました」


「あら、素直」


「以前、別の方に迷惑をかけたことがあるので。確認するようにしています」


「いい心がけね」


 リュシアは医務室を出た。消毒液の匂いが服に残っていた。


 前線には前線の地図がある。後方には後方の地図がある。同じ戦場の、違う面を見ている。それを重ねることで、見えるものが変わる。

 自分の地図が一枚増えた。

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