36.指示
索敵主務に就いて三週間が経った頃、それは来た。
南側の定点で夕方の索敵を行っている時だった。魔力読みを展開した瞬間、反応が跳ねた。南南西、七百。中型一体と小型四体。群れだ。移動方向は北北東——哨戒線に向かっている。
「ヴァイス曹長。南南西七百に群れ。中型一、小型四。哨戒線に向けて移動中です。速度から見て、到達まで半刻ほど」
ラウルの顔が変わった。
「中尉に伝達。戻るぞ」
拠点に戻り、ラウルがアデルに報告した。リュシアは横で待った。以前なら「自分が叩きに行く」と言っていた。今は言わない。考えるだけだ。判断はアデルがする。
アデルは地図を広げた。
「南南西七百、北北東に移動。定点で拾ったデータと一致するか」
「はい。南南西からの個体が最も多い経路上です」
「速度は」
「半刻で哨戒線に到達する見込みです」
アデルは地図上の一点を指で叩いた。哨戒線の南端、補修が終わったばかりの区画だった。
「ここで迎え撃つ。——フォルティス」
「はい」
「お前も出ろ。索敵を維持しながら、俺の指示で中型を叩け。小型はグレイ少尉と前線兵で抑える」
リュシアの心臓が一拍跳ねた。
「了解です」
「索敵が先だ。戦闘中も群れの動きを追え。増援が来るかどうかを俺に報告しろ。中型に集中して周りが見えなくなるな。——わかったな」
「はい」
哨戒線の南端に展開した。
アデル、リュシア、ロウソン、ラウル、前線兵四名。第三小隊の戦闘編成だった。
リュシアは魔力読みを維持したまま、哨戒線の内側に立った。群れは六百を切っている。速度は変わらない。
「六百。変わらず北北東。他の反応はありません」
「よし。クレイ、風を」
ロウソンが風の索敵を重ねる。精度は高くはないが、風向きと空気の振動から群れの形が読む。
「中型が先頭。小型四体が後方に散開。扇形」
「迎撃位置はここだ。フォルティス、哨戒線を越えるな。中型が三百に入ったら、俺の合図で雷を打て。それまでは索敵だけだ」
「了解」
待った。
五百。四百。三百五十。魔力読みの中で群れの輪郭が鮮明になっていく。中型の魔力反応は太い。小型の四倍はある。身体が大きいだけでなく、核が強い。
「三百」
「まだだ」
アデルの声は静かだった。リュシアは手のひらの疼きを押し殺した。撃てる。今なら撃てる。だが、指示はまだだ。
「二百五十。中型が先頭、小型が左右に展開し始めています」
「ロウソン」
「確認。小型は左に二、右に二」
「一般兵、左右の小型を抑えろ。ロウソンは右側の支援。——フォルティス」
「はい」
「撃て」
リュシアの右手から雷が走った。
白い光が夕闇を裂いて、中型の頭部に直撃した。中型が悲鳴を上げて体勢を崩す。一撃では倒れない。核に届いていない。
「索敵」
アデルの声が飛んだ。リュシアは雷を撃った直後に魔力読みを再展開した。以前なら追撃に意識が向いていた。今は違う。
「増援なし。周囲九百以内に他の反応はありません」
「よし。——もう一発、核を狙え」
二発目。今度は胴体の中心、核の位置を正確に読んで撃った。雷が核を貫いた。中型が崩れ落ちる。
左右では一般兵とロウソンが小型を抑えていた。小型は前線兵でも対処できる。リュシアは索敵を維持しながら、左側で押されている一般兵の援護にアデルが入るのを見た。火が小型の側面を焼く。
「小型残り一。右側」
ロウソンの風が最後の小型を叩き、一般兵が止めを刺した。
「終了。——フォルティス、索敵」
「反応なし。九百以内、クリアです」
アデルが頷いた。
「核の処理。中型はフォルティス、小型はロウソン」
リュシアは中型の残骸に近づき、核を砕いた。手が震えていた。戦闘の興奮ではない。初めて、命令の中で雷を使った。自分の判断ではなく、アデルの「撃て」で撃った。自分の「撃てる」ではなく、アデルの「今だ」で動いた。
違いは、わかる。以前は自分のタイミングで撃っていた。今日は待った。待って、指示を聞いて、撃った。そして戦闘中も索敵を維持した。増援の有無を報告し続けた。
アデルが横を通り過ぎる時、一言だけ言った。
「いい索敵だった」
戦闘を褒めたのではなかった。索敵を褒めた。リュシアはそのことが、少しだけ嬉しかった。
夜、官舎に戻ると、エリカが寝台で本を読んでいた。
リュシアは洗面台の前に立ち、自分の髪を見た。訓練生になる前に侍女のマリアに切ってもらったのが最後だ。あの時は肩の長さに揃えてもらった。それから九ヶ月。後ろ髪は肩を過ぎて、任務中は後ろでまとめている。問題は前髪だった。目にかかるようになっていて、鬱陶しい。
鋏を取り出して、前髪を切り始めた。
「……あんた、何してんの」
エリカの声が後ろから飛んできた。
「前髪を切っています」
「鏡見えてる?」
「見えています」
「じゃあ左右の長さが全然違うの、見えてるよね?」
リュシアは鏡を見た。確かに左が短く、右が長い。
「……直します」
「待って。貸して。貸しなさい」
エリカがリュシアの手から鋏を取り上げた。リュシアを椅子に座らせ、後ろに回った。
「いつもどうしてたの、これ」
「侍女に切ってもらっていました」
「軍に入ってからは?自分で?」
「はい」
エリカの手が止まった。一拍の間があった。
「……そう」
エリカは何も言わずに前髪を整え始めた。鋏の音が静かに響く。リュシアは黙って座っていた。人に髪を触られるのは久しぶりだった。侍女のマリアに切ってもらって以来だ。あの時は婚約が解消されて、訓練生になると決めた日だった。もう長い髪は要らないと言ったら、マリアは何も言わずに、でも丁寧に切ってくれた。
「あんたさ」
「はい」
「頼んでいいんだよ。こういうの」
「……はい」
「はい、じゃなくて。次から言いなさい。『エリカ先輩、前髪切ってください』って」
「……エリカ先輩、前髪を切ってください」
「今じゃなくて次からね」
エリカが笑った。リュシアは笑えなかったが、少しだけ肩の力が抜けた。
切り終わった前髪は、眉の少し上で揃えられていた。視界が開けた。
「上手ですね」
「弟がいるから。——はい、おしまい」
エリカが鋏を置いた。リュシアは鏡を見た。前髪はすっきりした。だが、後ろ髪が肩の下まで垂れている。任務中は後ろで束ねているが、洗うのも乾かすのも手間だった。手入れもまともにできない。訓練生の頃から傷んでいて、マリアが毎日梳いてくれていた頃の面影はもうない。
切りたかった。ずっと切りたかった。でも後ろは自分では切れない。
「……エリカ先輩」
「ん?」
「後ろも、切ってもらえますか」
エリカが少し驚いた顔をした。リュシアが自分から頼みごとをするのは初めてだった。
「いいけど。——どのくらい?」
「邪魔にならない長さに。短い方がいいです」
「結べなくなるよ?」
「構いません」
エリカは鋏を取り直した。リュシアの後ろに回って、髪を手に取った。
「……毛先傷んでる。オイル塗れとは言わないけどちゃんと乾かしてから寝てる?」
「乾かしてません」
「乾かしなさい。見た目の問題だけじゃないよ。不衛生だからね」
「はい」
「昔はもっときれいだったんだろうね。こんなに手荒に扱って……侍女が泣くよ」
鋏が入る音がした。束になった髪が床に落ちた。軽くなる。肩に触れていたものがなくなっていく。
切り終わった髪は、首の後ろで短く揃えられていた。耳が出る。首筋が出る。風が通る。
「さっぱりしたね。——似合うよ。そっちの方が」
リュシアは鏡を見た。自分の顔が変わって見えた。マリアに切ってもらった肩のボブとも、婚約者時代のツヤツヤの長い髪とも違う。軍にいる自分の髪だった。
エリカに切ってもらった髪は、今までの髪とは違う形をしていた。
「ありがとうございます。エリカ先輩」
「うん。——今日、戦闘だったんでしょ」
「はい。中型一体と小型四体の群れでした。中尉の指示で雷を撃ちました」
「どうだった?」
リュシアは少し考えた。
「……自分のタイミングではなく、中尉の指示で撃ちました。戦闘中も索敵を維持しました。以前とは違いました」
「そう。——よかったね」
エリカの声は静かだった。大げさに褒めない。ただ「よかったね」と言った。それがリュシアにはちょうどよかった。




