35.歯車
前線復帰の初日は、拍子抜けするほど静かだった。
ラウルと前線兵二名。四人で哨戒線の巡回に出る。リュシアの仕事は索敵。魔力読みを展開しながら歩き、反応があれば報告する。それだけだ。
戦闘は指示があった場合のみ。アデルにそう言われている。
哨戒線に沿って歩く。朝の空気は乾いていて、足元の草が霜を含んでいた。秋が深くなっている。
魔力読みを広げる。九百の範囲に反応はない。静かな日だ。
「反応なし。九百以内に個体はいません」
「了解」
ラウルは短く応じて歩き続ける。前線兵は後方で哨戒線の状態を確認している。リュシアは歩きながら索敵を維持する。
以前と同じことをしている。だが、以前とは違う。以前は歩きながら「群れがいたら自分が叩く」と考えていた。今は反応を拾って報告する。それが仕事だ。
三日目に、マーカスと初めて一緒に巡回に出た。
斥候担当の伍長だ。朝の段階で斥候に出ていて、戻ってきたところだった。リュシアの巡回とマーカスの斥候が同じ区画を担当する日だった。
「少尉。南側、四百付近に中型の爪痕がありました。三日以内のものです。方角は北東」
「四百の爪痕。——今、六百先に小型が一体います。北東に移動中。中型の反応はありません」
マーカスが足を止めた。
「六百に小型。……中型の爪痕が四百で、小型が六百にいるなら、中型はその間にいた可能性がありますね。今はいない」
「通過した後、ということですか」
「おそらく。爪痕の深さからして体格はそこそこある個体です。北東に抜けたなら、隣の区画に入ってる」
マーカスの痕跡情報と、リュシアの魔力読み。二つを重ねると、中型の移動経路が見えてくる。四百付近を通過して北東へ抜けた。今は六百先に小型だけが残っている。中型はさらに北東へ移動した可能性が高い。
「曹長。南側の中型は北東に通過した可能性があります。マーカスの痕跡情報と魔力読みの照合です」
ラウルは二人の報告を聞いて、少し考えた。
「隣の区画の巡回班に伝達する。——いいデータだ」
マーカスがリュシアの方を見た。身構えた感じはもうなかった。
「少尉の魔力読みがあると、痕跡の裏が取れるんですよね。俺が見てるのは過去の情報で、少尉が見てるのは今の情報だから」
「マーカスの痕跡がなければ、中型が通過したことに気づけませんでした。魔力読みは今いる個体しか見えない」
「……組み合わせると強いってことですね」
マーカスは少し笑った。リュシアは笑えなかったが、頷いた。
十日目。巡回経路が変更された。
リュシアの索敵記録とマーカスの痕跡報告を重ねたデータから、南南西の個体密度が高いことがアデルに報告されていた。アデルはそれを受けて、巡回経路の南側の頻度を上げ、北東側を減らした。
「フォルティス。南側の定点を一つ増やす。ここだ」
アデルが地図上の一点を指した。哨戒線の南端、リュシアの魔力読みが最も反応を拾う地点だった。
「朝と夕方の二回、ここで索敵を行え。記録はヴァイス曹長に上げろ。頻度を上げれば、群れの移動パターンがもっと見える」
「了解です」
「マーカス。お前の斥候も南側を重点的に回せ。少尉の索敵と重ねる」
「はい」
アデルの指示は短かった。だが、その短い指示の中に、リュシアのデータが組み込まれていた。自分が拾った情報が、小隊の動きを変えている。
夜、小隊の飲み会があった。
長卓が並び、鍋が二つ置かれている。湯気と酒の匂いが天井に溜まり、笑い声が跳ね返っていた。
アデルが杯を置いたまま、短く言った。
「乱すな。医療班に絡むな。少尉に絡むな。距離は守れ」
それで終わりだった。誰かが返事をして、鍋の蓋が開く。空気が緩む。
リュシアは端の席に座った。隣に座ったラウルに水を出された。酒は飲まない。酔った状態で判断力が落ちるのが嫌だった。
周りは勝手に注ぎ、勝手に喋り、勝手に笑っている。リュシアだけが黙って座っていた。
何をすればいいのかわからなかった。
こういう場の作法がわからない。王都の社交の場なら型がある。挨拶の順番、話題の選び方、立ち位置。全部に決まりがあった。だが飲み会には型がない。誰に話しかけてもいいし、誰にも話しかけなくてもいい。その自由が、リュシアには一番難しかった。
立ち上がった。とりあえず、酌をした方がいいのかもしれない。酒瓶を手に取り、ラウルのグラスを見る。
「曹長、お注ぎします」
ラウルがリュシアの手元を見て、少し間があった。
「……少尉。そういうのはいい」
「はい」
座った。酒瓶を戻した。やはりわからない。
しばらく水を飲んでいた。近くの前線兵が話しかけてくれたが、何の話をすればいいかわからず、「索敵の記録で南南西の——」と言いかけたところで相手の目が泳いだ。仕事の話ではないらしい。黙った。
一刻ほど経った頃、酔った前線兵が一人、リュシアの隣に座り込んできた。顔が赤い。酒の匂いが近い。
「少尉ー、飲んでないんですか。飲みましょうよ」
距離が近い。酒の匂いが混じる。
リュシアは椅子を数センチ引いた。鍋の方へ手を伸ばすふりをして、半歩ずれた。それでも詰めてくる。
「すみません。近いです」
短く言って水を一口飲む。
兵は笑って誤魔化そうとした。
「いいじゃないっすか。教えてくださいよ、少尉ってさ、噂のこ」
そこで、隣の伍長が先に肩を押して距離をほどいた。
「お前、飲み過ぎ。水だ。座れ」
兵が不満そうに口を開きかけた時、ラウルが視線だけで切った。声は荒げない。
「寝ろ。明日、動けなくなる」
「……はい」
兵は立ち上がり、ぶつぶつ言いながら離れた。鍋の蓋がまた開く。笑い声が戻る。場は崩れなかった。
前線兵が去った。リュシアはラウルに小さく頷いた。ラウルは何も言わず酒に戻った。
リュシアは水を飲んだ。まだ一刻もある。どうしよう。
「フォルティス少尉」
知らない声だった。顔を上げると、女性が立っていた。リュシアより頭半分高い。髪を後ろで一つに束ねている。穏やかな顔だが、目の奥に疲労が薄く溜まっている。
「アメリア・サリヴァン中尉。第七中隊の治癒魔法士です。——ちょっと外の空気吸わない?」
リュシアが返事を探している間に、アデルの声が飛んだ。
「サリヴァン中尉は医療班に戻れ。フォルティス少尉は索敵記録をまとめて来い」
場は一瞬だけ静まり、すぐに納得の空気に戻った。仕事なら仕方ない。
アメリアが軽く手を上げた。
「飲んだ人は水。寝る前に一口でもいい。明日、頭が痛い人は先に来なさい」
何人かが笑い、誰かが返事をした。
リュシアも立った。鍋の向こうの前線兵が短く言う。
「少尉、また頼みます」
リュシアは頷いた。
「はい。よろしくお願いします」
食堂の外に出た。夜風が冷たかった。アメリアは壁に寄りかかって、小さく息を吐いた。
「飲み会、苦手でしょ」
「苦手かどうかわかりませんが、どう振る舞えばいいか分かりません」
「それを苦手って言うのよ」
アメリアが笑った。
「まあ最初はあれで充分よ。酔っ払いに困ったら、水を渡して距離を取って。ヴァイス曹長もベネット中尉もよく見てるから、助けてくれるはずよ」
「サリヴァン中尉も、先程はありがとうございました」
「いいのよ。ベネット中尉に頼まれてたから」
リュシアは何と答えればいいかわからなかったが、アメリアは気にしていないようだった。
「私は医療班だから、怪我でも何でも、何かあれば遠慮なく来なさい」
「はい」
「まあ、来る必要がないのが一番だけどね」
「はい」
「あと、あなた細すぎるわ。水だけじゃなくてちゃんと食べなさい」
「はい」
三回目の「はい」で、アメリアが少し首を傾げた。
「……あなた、返事は『はい』しかないの?」
「すみません。他に何と言えばいいかわかりません」
「正直ね」
アメリアはまた笑った。この人の笑い方は嫌ではなかった。笑われている感じがしない。一緒に笑おうとしている笑い方だった。
「じゃあ、今日はこのまま官舎に帰りなさい。私はまだ仕事が残ってるからここで」
「ありがとうございます」
「あ、『はい』以外も言えるじゃない」
アメリアは手を振って食堂に戻っていった。リュシアは夜風の中に立ったまま、少しだけ肩の力が抜けたのを感じた。
官舎に戻ると、寝台に横になった。天井を見つめる。
今日、自分のデータで巡回経路が変わった。マーカスの痕跡情報と組み合わせて、小隊の動きに影響を与えた。小さな歯車が、少しだけ噛み合った音がした気がした。
まだ戦闘はしていない。雷を使っていない。手のひらの疼きは変わらない。
だが、今の自分の仕事はこれだ。反応を拾い、記録し、報告する。その先の判断はアデルがする。自分はその判断を支える情報を出す。それが、今の自分の歯車の形だ。




