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33.頭を下げる

 翌朝、リュシアは雑務に入る前にラウルを探した。

 小隊の区画の裏手にいた。前線兵二名と装備の確認をしている。任務前の準備だった。リュシアが外された巡回任務だ。

 リュシアは二人が終わるのを待った。前線兵が先に離れ、ラウルが一人になった。


「ヴァイス曹長」


 ラウルが振り返った。表情は変わらなかった。良くも悪くもない、いつもの顔だった。


「少尉か。何だ」


「——お時間をいただけますか」


 ラウルは少しの間リュシアを見て、頷いた。


 二人は区画の端に移動した。人目がない場所ではない。だが、声が届かない距離は取れた。

 リュシアは正面に立ち、背筋を伸ばした。そして、頭を下げた。


「あの日は、申し訳ありませんでした」


 ラウルは黙っていた。


「曹長が制止してくれたのは正しかった。私の任務は工兵の護衛で、群れを叩くことではなかった。それをわかっていなかったのは私です」


 頭を下げたまま、続けた。


「走り出す前に曹長の顔を見ました。止めなければならないと思っている顔でした。それを見た上で、背を向けました。——あれが一番間違っていたと思います」


 沈黙があった。長い沈黙だった。


「……顔を上げろ」


 リュシアは顔を上げた。

 ラウルの表情は変わっていなかった。だが、目の奥にあったもの——あの日、哨戒線で待っていた時の感情が——少しだけ薄くなっている気がした。


「謝罪は受け取った。——だが、少尉。俺に謝って終わりじゃないぞ」


「はい」


「あの場にいた前線兵は三名。あんたが飛び出した後、工兵を後方に下げて、哨戒線で帰りを待ったのは俺だけじゃない。あいつらも一緒だ。魔法騎士がいない状態で、工兵を守りながら待った」


 リュシアは息を吸った。ラウルにしか目が行っていなかった。


「あいつらにも頭を下げろ。それと工兵にもだ。お前が護衛していた相手だ」


「……はい」


「あの日の工兵班の班長はギャレット伍長だ。第二工兵小隊にいる。自分で行け」


「わかりました」


 ラウルは一つ頷いて、装備を手に取った。


「俺は任務だ。——行ってこい」


 その声は、冷たくはなかった。





 前線兵三名には、昼の食堂で頭を下げた。

 三人とも、あの日のことを覚えていた。当然だ。目の前で上官が哨戒線を越えて走り出していった日のことを、忘れる兵はいない。


「あの日はご迷惑をおかけしました。私が任務を離脱したことで、皆さんに不要な危険を負わせました」


 一人が目を丸くした。少尉に頭を下げられることに慣れていないのだろう。

 別の一人が、ぶっきらぼうに言った。


「……少尉。俺らは曹長の指示で動いただけですから。それより、次の任務では頼みますよ」


 短い言葉だった。本音はリュシアにはわからなかった。だが、「次の任務」と言ったことは、わかった。





 工兵の区画は、中隊の後方にあった。

 リュシアが訪ねると、ギャレット伍長はすぐに出てきた。二十代後半の、日に焼けた男だった。

 ——あの日の工兵だった。休憩中に隣に座って、護衛がいると手元に集中できると話してくれた人だ。名前を、知らなかった。護衛していた相手の名前を、リュシアは知らなかった。


「フォルティス少尉。——ああ、聞いてますよ。ヴァイス曹長から話があるかもしれないと」


 ラウルが先に連絡を入れていた。


「ギャレット伍長。あの日は、申し訳ありませんでした。護衛任務中に持ち場を離れ、皆さんを危険に晒しました」


 ギャレットは腕を組んで、リュシアを見た。怒りの顔ではなかった。確かめるような目だった。


「少尉。俺たちは後方に下がれって言われて、すぐ下がった。ヴァイス曹長が判断してくれた。結果的には何もなかった」


「はい。ですが——」


「結果の話をしたいんじゃないのはわかってます」


 ギャレットは腕を解いた。


「あの日、少尉に話したの覚えてますか。護衛がいるだけで手元に集中できるって」


「……覚えています」


「あれ、本当のことなんですよ。俺らは周りが見えない状態で作業してる。護衛を信じて手元に集中してる。その護衛がいなくなったら、作業を止めるしかない。止めたら補修が遅れる。補修が遅れたら、哨戒線が弱いまま残る。——少尉が群れを叩いてくれたのはありがたいですが、俺らの仕事が一日遅れたのも事実です」


 リュシアは言葉を失った。

 そこまで考えていなかった。護衛がいなくなることの危険は考えた。だが、工兵の作業が止まる影響まで思い至っていなかった。自分が飛び出したことで、補修が一日遅れた。その一日の間、この区画の防壁は脆いままだった。


「……申し訳ありませんでした」


「頭を下げに来ただけでも上等ですよ。——次に護衛についてくれる時は、最後まで頼みます」


「——はい」





 工兵の区画を出た後、拠点に戻りながらリュシアは考えていた。

 ギャレットの言葉が消えない。護衛がいなくなったら、作業を止めるしかない。止めたら補修が遅れる。補修が遅れたら、哨戒線が弱いまま残る。

 一つの行動が、次に繋がっている。自分の視座からは「群れを叩く」しか見えていなかった。その裏で工兵の仕事が止まり、哨戒線の維持が遅れ、防衛線全体に影響が出る。軍という生き物の仕組みが、自分には見えていなかった。


 ——では、自分にできることは何だ。


 エリカに言われたことがある。自分にしかできないことを、組織の中で使え。自分にしかできないのは、魔力読みだ。九百先の魔獣を正確に感知できる。

 だが、それを群れを叩くためだけに使っていた。索敵の情報は、もっと別の使い方ができるのではないか。工兵の補修計画に。巡回の経路に。防衛の優先順位に。

 ただ、どう使えるかは自分だけでは考えられない。他の兵種がどんな仕事をしていて、何に困っているかを知らなければ、索敵の情報をどこに繋げればいいかわからない。

 第三小隊には、斥候を担当する前線兵がいた。マーカス・リード伍長。哨戒線の外に出て、魔獣の痕跡を目視と足で拾い、動きを報告する。リュシアが索敵で拾っている情報を、別の手段で集めている人間だ。同じ小隊にいるのに、話したことがなかった。

 雑務の合間に声をかけた。


「すみません。斥候の仕事について教えていただけますか」


 マーカスはリュシアの顔を見て少し身構えた。第三小隊の少尉が声をかけてくること自体が珍しいのか、あるいは例の件で気まずいのか。だが、聞かれたことには答えてくれた。


「哨戒線から外に出て、目視と痕跡で三百から四百の範囲を回ります。それ以上は踏み込みません。中型が出たら、単独では対処できないので」


「三百から四百」


「ええ。個体の足跡、糞、木の爪痕を拾って、通過した方角と時間帯を推定します」


 三百から四百。リュシアの魔力読みは九百まで届く。倍以上の差がある。


「困っていることはありますか」


 マーカスは少し考えた。


「遠距離の情報が取れないことですね。三百の範囲で痕跡は拾えますが、五百先、六百先に群れがいるかどうかは、来てみないとわからない。来た時にはもう哨戒線の近くにいる。事前に動きがわかれば、巡回の経路も調整できるんですが」


「事前に動きがわかれば」


「たとえば南から群れが来ているとわかれば、南側を重点的に回れる。でも、来るかどうかがわからないから、均等に回るしかない」


 リュシアは頷いた。斥候が見えていないのは、遠距離の動きだ。リュシアの魔力読みで補える範囲だ。


「ありがとうございます。参考になりました」


「……少尉。何を考えてるんですか」


「まだわかりません。わかったら、報告します」





 その日の夕方から、リュシアは索敵記録をつけ始めた。

 哨戒線の近くで魔力読みを展開し、外側の反応を拾う。位置、数、種別、移動方向。紙に書き留める。斥候が見えない五百から九百の範囲を重点的に読む。

 三日分が溜まった時、リュシアは気づいた。南南西の方角から来る個体が、他の方角より多い。五日分で確認すると、傾向は明確だった。南南西に、魔獣の密度が高い地帯がある。

 斥候の下士官が言っていた。南から群れが来ているとわかれば、南の斥候を増やせる。このデータは、まさにその判断材料になる。


 ——報告すべきだろうか。


 五日分のデータで報告するのは早い気もした。もう少し集めてから、確実なものにしてからの方がいい。

 その逡巡に、リュシアは自分で気づいた。また同じだ。自分の判断で「まだ早い」と決めている。正しいかどうかを判断するのは自分ではない。


 翌朝、雑務報告のついでにラウルにデータを見せた。


「ヴァイス曹長。一つ、見ていただきたいものがあります」


 ラウルはリュシアが差し出した紙を受け取り、目を通した。


「……これは何だ」


「雑務の合間に、哨戒線の外側を索敵して記録したものです。五日分です。南南西からの個体数が他の方角より多い傾向があります。リード伍長にも話を聞きました。斥候の探知範囲は三百から四百で、それより先の情報が不足しているとのことでした。このデータで補完できるかもしれません」


 ラウルは紙を見つめていた。しばらくして、顔を上げた。


「……マーカスにも自分で行ったのか」


「はい」


 ラウルの目が少しだけ変わった。


「中尉に上げる。続けろ」


「はい」


 短いやり取りだった。だが、リュシアの中で何かが動いた。

 索敵は、群れを叩くためだけのものではない。情報を集め、報告し、上が判断する。その流れの中に、自分の力を置く。自分にしかできないことを、組織の中で使う。

 答えはまだ出ていない。だが、方向は見えた気がした。

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