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30.越境

 報告は、正しく上がった。

 巡回から戻ったリュシアの索敵報告を受け、アデルは哨戒線外の群れに対する掃討任務を編成した。翌日出動。アデルとロウソン、リュシア、ラウル、前線兵四名の八名編成。中型三体と小型五体の群れに対しては妥当な人数だった。

 だが、翌日になって状況が変わった。

 別の哨戒線で中型の大きな群れが確認され、アデルとロウソンはそちらへ回された。掃討任務は延期。リュシアとラウルには通常巡回が割り当てられた。


「群れが移動しなければ、明後日には出せる。待て」


 アデルはそう言い残して出て行った。




 巡回は昨日と同じルートだった。

 リュシアは歩きながら魔力読みを展開した。哨戒線の外、南南西。昨日の群れを探す。


 ——いた。


 位置がずれている。昨日より二百ほど北東に寄っていた。哨戒線に近づいている。


「ヴァイス曹長。昨日の群れ、まだいます。北東に移動しています。哨戒線との距離が、昨日より縮まっています」


 ラウルは足を止めた。


「数は」


「中型三、小型——六。昨日より一体増えています」


「増えてるのか」


「合流したか、新たに発生したか。いずれにしても、このまま北東に移動を続ければ、明日には哨戒線に到達します」


 ラウルは黙って周囲を見た。前線兵三名。全員、非魔法兵だ。中型三体に対応できる戦力ではない。


「戻って報告する」


「——ベネット中尉は別任務です。戻っても、すぐには動けません」


「それでも報告が先だ」


 正しい。手順としては正しい。リュシアにもそれはわかっていた。

 だが、中隊の回線は朝から前線対応で埋まっていた。巡回報告は後回しにされる類だ。

 頭の中で数字が回る。中型三体、小型六体。今の距離は七百メートル。哨戒線まであと半日。戻って報告して、アデルが戻って、編成を組んで出動する頃には——群れが哨戒線に到達している可能性がある。


「ヴァイス曹長」


「何だ」


「私が行きます」


 ラウルの足が止まった。振り返った目が、一瞬だけ鋭くなった。


「何を言ってる」


「中型三体と小型六体。私の魔力量なら対処できます。索敵を維持したまま戦えることは、五回の任務で証明しました。群れが哨戒線に来る前に叩いた方が——」


「少尉」


 ラウルの声が低くなった。


「単独で哨戒線の外に出ることは、許可されていない。中尉の指示もない。お前が判断していい範囲じゃない」


「わかっています。ですが、時間がありません」


「時間がなくても、手順は飛ばさない。それが——」


「手順を守って間に合わなかったら、哨戒線の兵が危険に晒されます」


 沈黙が落ちた。前線兵たちが、二人の間の空気を察して動きを止めている。

 リュシアは、自分の声が震えていないことに気づいていた。震えるほどの迷いがなかった。計算は終わっている。魔力は十分にある。索敵で位置と数は正確に把握している。中型三体は五回目の任務で見た狼型と同種。核の位置も既知だ。

 できる。自分なら、できる。


「——行きます」


 リュシアは踵を返した。哨戒線の方角へ。


「少尉!」


 ラウルの声に、リュシアは足を止めた。振り返った。

 ラウルの顔を、見た。

 怒りではなかった。驚きでもなかった。ラウルの目には、リュシアがこれまで見たことのない色が浮かんでいた。止めなければならないと知っている人間の、それでも力では止められないと悟った顔だった。

 リュシアはその顔を見た上で、背を向けた。


「工兵を下げてください。すぐに戻ります」


 走り出した。ラウルが追って来る気配はない。


 哨戒線を越えた。

 足元の地面が変わった。整地されていない荒地。草が膝まで伸びている。風が変わる。内側と外側では、空気の質が違った。

 魔力読みを全開にした。群れの位置を正確に捉える。南南西、五百。中型三体が中心にいて、小型六体が周囲に散っている。移動は緩やか。まだこちらに気づいていない。


 リュシアは走りながら、右手に魔力を編み始めた。




 最初に小型を二体、まとめて落とした。

 雷を扇状に広げ、群れの外周にいた二体を同時に撃つ。核の位置は既知。二発目で核を砕く。本体が崩れる。

 群れが反応した。小型が散り、中型が振り返る。三体の狼型が、リュシアを認識した。


 索敵は維持している。九体すべての位置と動きが、頭の中に地図のように浮かんでいる。


 中型の一体目が突進してきた。速い。小型とは桁が違う。だが——見えている。跳躍の前に魔力が脚部に集中する。その一瞬を読んで、雷を叩き込んだ。胸腔の核を直接貫く。本体が走りながら崩壊した。


 二体目と三体目が左右から挟みにきた。

 リュシアは足を止めなかった。左の個体に向けて雷を一射。退路を断つためではない。核を狙った一撃だ。だが、二体目は身を捩って避けた。核に届かない。


 ——初めてだ。避けられたのは。


 右から三体目が跳ぶ。リュシアは咄嗟に身を翻した。牙が外套の袖を掠める。近い。近すぎる。

 冷静さが一瞬揺らいだ。だが、揺らいだのは感情だけだ。魔力読みは途切れていない。三体目が着地した瞬間——脚部の魔力が緩む一瞬に、雷を通した。核を貫通。崩壊。


 二体目が再び突進してくる。今度は避けない。正面から来る。

 リュシアは待った。距離が詰まる。五十。三十。二十——。

 至近距離で雷を放った。回避の余地がない距離から、核を直接射抜く。

 二体目が足元で崩れた。


 残りは小型四体。散り散りに逃げかけている。リュシアは索敵で四体の位置を追い、一体ずつ仕留めた。雷は正確だった。四発。すべて核を直撃。


 最後の一体が崩壊したとき、周囲に反応はなくなっていた。

 リュシアは立ち止まった。息が上がっている。汗が背中を伝っている。手が微かに震えていた。戦闘中は気づかなかった震えだ。

 魔力の残量を確認する。七割以上残っている。消耗は三割弱。中型三体、小型六体。計九体を、一人で。


 ——できた。


 静寂の中で、自分の呼吸だけが聞こえた。




 哨戒線の内側に戻ると、ラウルが立っていた。

 一般兵は後方に下げたらしい。ラウル一人で、哨戒線のこちら側に立って待っていた。その顔を見て、リュシアは初めて——自分が何をしたのかを理解した。

 ラウルは怒っていなかった。怒りよりも深い場所にある感情が、顔の筋一本動かさない表情の奥に沈んでいた。


「掃討完了しました。中型三、小型六。全て核を破壊——」


「報告は後だ」


 ラウルの声は静かだった。


「帰るぞ」


 二人は無言で拠点へ歩いた。リュシアの足は重かった。疲労ではない。ラウルの背中が、これまでで一番遠かった。




 拠点に戻ると、アデルがいた。

 別任務から先に戻っていた。ラウルからの伝令が既に届いていたのだろう。アデルは小隊の区画で、立ったままリュシアを待っていた。


「フォルティス少尉」


 声に温度がなかった。初対面の時と同じだ。仕事の声だ。


「状況を報告しろ」


 リュシアは報告した。巡回中の索敵結果。群れの位置と移動方向。哨戒線到達までの推定時間。単独での掃討判断。戦闘の経過。結果。全て。


 アデルは最後まで聞いた。一度も口を挟まなかった。

 報告が終わると、アデルは短く息を吐いた。


「結果は聞いた。中型三体を含む九体を単独で掃討。被害なし。核は全て処理済み。戦果としては申し分ない」


 リュシアは背筋を伸ばしたまま立っていた。


「だが」


 アデルの目が据わった。


「お前は命令なく哨戒線を越え、単独で交戦した。ヴァイス曹長の制止を無視した。俺の許可も取っていない。中隊への報告もない。これは手柄じゃない。命令違反だ」


「……承知しています」


「承知しているなら、なぜやった」


「群れが哨戒線に到達する前に叩く必要があると判断しました」


「誰の判断だ」


「——私の判断です」


「お前にその判断権はない」


 短い、硬い言葉だった。


「フォルティス少尉。お前の実力は認める。九体を単独で掃討できるのは事実だ。だが、お前が単独で出て、万が一死んでいたらどうなる。ヴァイス曹長が追って死んでいたらどうなる。お前が見落とした個体に一般兵がやられていたらどうなる」


 リュシアは答えられなかった。


「お前は自分が勝てると思って出た。勝てたから、結果的には正しかったように見える。だが、結果が良かったから正しいわけじゃない。結果が悪かった時に誰が責任を取るかを考えろ。お前は部下を持つ人間だ。少尉だ。自分一人の命を賭けていい立場じゃない」


 アデルの声は、一度も上がらなかった。声の温度を変えずに、一言ずつ、正確に撃ち込んでいた。


「処分は中隊に上げる。レインズ少佐が決める。それまで前線任務は停止だ。巡回も外す。小隊の雑務に回れ」


「——了解です」


「下がれ」


 リュシアは敬礼して踵を返した。

 背中にアデルの視線を感じた。最後まで、その視線は外れなかった。




 小隊の区画を出て、官舎に向かう廊下を歩いた。足音が自分のものだけになったとき、ライオットの声が蘇った。


 ——『国家の損失』って言葉が強すぎる。俺たち相手ならただの不遜で済むけど、相手によっては規律の否定と取られてもおかしくない。命令系統を軽んじてると思われるぞ


 上官の判断を差し置いて自分の判断を優先した。越権行為だ。

 ライオットが言っていたのは、こういうことだ。リュシアが何を考えて動いたかは関係ない。実力を証明したかった。群れが哨戒線に来る前に叩きたかった。そんな理由は、聞く側には届かない。命令系統を無視した——それだけが残る。

 あの時は、目の前の焦りに気を取られて、わからなかった。自分の行動が自分以外の何を動かすのか、見えていなかった。


 官舎の扉を開けた。エリカはまだ戻っていなかった。

 寝台に腰を下ろし、両手を膝の上に置いた。震えはもう止まっていた。代わりに、手のひらが冷たかった。

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