27.直談判
聞くつもりはなかった。
装備棚の裏手で手入れ道具を取りに行っただけだ。棚の反対側に人がいることには気づいていた。だが、声が聞こえてきたのは、角を曲がる直前だった。
「——またかよ。明日も巡回だってさ」
「フォルティス少尉の付きか」
「そう。ヴァイス曹長と俺ともう一人で、少尉のお守り。三日連続だぞ」
リュシアの足が止まった。
「せっかく南方に来て、前線が動いてんのに、やってることが巡回と哨戒線の確認だけだ。第三小隊は討伐がメインだろ。なのに俺らは新任のお守りで後方回り。他の班は中型を仕留めて戦果を出してるってのに」
「まあ、少尉が悪いわけじゃないだろ。上が決めたことだし」
「わかってるよ。少尉は真面目にやってる。文句はない。——ただ、きついんだよ。こっちも前線に出たくて南方に来てるんだ。お守りが仕事じゃない」
リュシアは音を立てずに、一歩下がった。角を曲がらないまま、来た道を戻った。
手入れ道具は、後でいい。
寝台の上で、天井を見つめていた。
兵の言葉が頭に残っていた。お守り。その言葉に悪意はなかった。愚痴だ。同僚同士の、当たり前の愚痴だ。リュシアを傷つけるために言ったのではない。
だが、事実だった。
リュシアが後方に留まっていることで、リュシアにつく兵もまた後方に留まる。第三小隊は討伐が本務だ。巡回や哨戒線の確認は、第三小隊の兵にとっては本来の仕事ではない。リュシアのために、彼らの仕事が歪んでいる。
ラウルが言った言葉を思い出す。「あんたはまだ、その中に入ってない」。入っていないだけではなかった。入っていないことが、周囲に負荷をかけていた。
自分がいなければ、小隊は正常に回る。
今までの焦りの時とは、少し違う痛みだった。あの時は、自分の無力さが苦しかった。今は、自分の存在が他人の足を引っ張っていることが苦しい。
——待っているだけでは、何も変わらない。
朝の点呼が終わり、その日の任務割り振りが告げられた後、リュシアはアデルのもとへ向かった。
アデルは小隊の天幕で報告書を整理していた。リュシアの姿を認めると、手を止めずに「どうした」と言った。
「ベネット中尉。お時間をいただけますか」
「今でいい。座れ」
リュシアは椅子に腰を下ろし、間を置かずに言った。
「前線任務に出してください」
アデルは表情を変えない。
「理由は」
「着任から一ヶ月が経ちました。哨戒線の地形、巡回の手順、報告書の書式、基本的な運用は把握しています。これ以上後方の任務だけでは、実戦経験を積む機会がありません」
言いながら、リュシアは自分の声が硬いことに気づいていた。準備してきた言葉だった。昨夜、寝台の上で何度も頭の中で組み立てた。
「それだけか」
「——いいえ」
リュシアは一度息を吸った。
「現在、前線の討伐任務は中尉とクレイ少尉が二人で対処しています。第三小隊の本来の運用ではないはずです。私の運用に慎重になっていただいていることは理解していますが、その結果、小隊全体の動きに負荷がかかっています」
アデルの目が僅かに細くなった。
「よく見てるな」
「見ているだけです。それが——問題です」
沈黙が落ちた。アデルは椅子の背にもたれ、腕を組んだ。
「二つ聞く」
「はい」
「一つ。お前が前線に出て、判断を誤ったとする。お前が死ぬだけならまだいい。お前の判断で、周りの兵が死んだらどうする」
リュシアの喉が詰まった。
「……そうならないように」
「そうならないように、じゃない。そうなる可能性があるかどうかを聞いてる」
「——あります」
「そうだ。ある」
アデルは言葉を切り、続ける。
「二つ目。お前がここに来たのは、自分のためか。小隊のためか」
リュシアは口を開きかけて、止めた。
自分のため、だ。成果を上げたい。価値を証明したい。見ているだけの自分が耐えられない。それが本音だった。
だが、それだけではない。小隊の動きが歪んでいることは事実で、それを放置していいとも思わない。
「……両方です」
アデルは少し間を置いて、笑った。笑った、というより、口の端が僅かに持ち上がっただけだった。
「正直でいい」
アデルは腕組みを解き、前に身を乗り出した。
「いいだろう。出す。ただし条件がある」
リュシアは背筋を伸ばした。
「まずは低脅威の任務からだ。小型の魔獣、単体か二体程度の掃討。俺かクレイ少尉が必ず同行する。お前が単独で判断する場面は作らない」
「了解です」
「もう一つ。任務中、魔力読みで何か拾ったら、まず俺に報告しろ。自分で判断して動くな。お前の魔力読みがどの程度使えるか、俺が見る。それが最初の目的だ」
「——了解です」
「焦るな、とは言わない。焦るのはわかってる。だが、焦って潰れたら意味がない。お前をゆっくり育ててる余裕はないが、壊す気もない」
アデルはそれだけ言って、報告書に目を戻した。
「明後日だ。南西の哨戒線付近で小型種の目撃報告が上がってる。二体。お前を出す。ヴァイス曹長と、あと二人つける。編成は明日伝える」
「はい」
「下がっていい」
リュシアは立ち上がり、敬礼した。天幕を出ると、朝の日差しが目を刺した。
天幕を出たところで、ラウルが待っていた。
待っていた、というのは多分正確ではない。天幕の近くで装備の点検をしていた。だが、このタイミングでここにいることが偶然だとは思えなかった。
「ヴァイス曹長」
「ああ」
「明後日、南西の掃討任務に出ることになりました。曹長も同行です」
「聞いてる」
聞いている。リュシアが天幕に入る前から、アデルとラウルの間で話がついていたのかもしれない。あるいは、リュシアが直談判に来ることを、二人とも予想していたのかもしれない。
「……曹長は、いつ頃来ると思っていましたか」
ラウルは装備から目を上げなかった。
「一ヶ月は持たないと思っていた。意外と持ったな」
それが褒め言葉なのか皮肉なのか、リュシアには判断がつかなかった。ラウルの声は、いつも通り平坦だった。
「明日、編成が出る。装備の確認をしておけ」
「はい」
翌日、編成が出た。
リュシア、ラウル、それに前線兵が五名。名前を確認する。
午後、リュシアは装備の確認に取りかかった。
剣の状態、防具の留め具、携行品の数と配置。一つずつ確認し、手で触れ、位置を確かめる。訓練所で何度もやった手順だ。だが、明日はそれを実戦で使う。その一点が、すべてを変えていた。
魔力の調整も行った。制御の精度を確かめ、展開速度を計る。問題はない。問題はないはずだ。
夜、寝台に横になっても眠れなかった。
目を閉じると、アデルの言葉が繰り返された。
——お前の判断で、周りの兵が死んだらどうする。
小型種、二体。低脅威。アデルかロウソンが同行する。リュシアが単独で判断する場面は作らない。安全策を重ねた任務だ。それでも、実戦であることに変わりはない。
魔獣は演習用の的のように都合よく動かない。想定外のことは起きる。そのとき、自分は正しく動けるか。
隣の寝台でエリカが寝返りを打った。規則正しい寝息はもう聞こえていて、それが妙に遠い。
——考えても仕方がない。
リュシアは目を開け、天井を見つめた。恐怖ではなかった。恐怖なら、もっとわかりやすい。これは、もっと漠然としたものだった。一ヶ月以上ずっと求めていた機会が、ようやく来た。来たのに、体が強張っている。
手のひらを開いて、閉じた。魔力の感触を確かめる。昨日と同じ手だ。昨日と同じ魔力だ。何も変わっていない。
変わったのは、明日という日だけだ。
リュシアは目を閉じた。眠れないまま、朝を待った。
一ヶ月以上、ずっと詰まっていた喉の奥が、少しだけ軽くなった気がした。少しだけ。まだ何も成し遂げていない。ただ、ようやく、動き出せる場所に立った。




