25.二日目
まだ外が薄暗い時間に、官舎の廊下から足音が通り過ぎていった。規則正しくはない。けれど迷いもない。夜が明ける前から回り始めている場所の足音だ。
同室の片側で、ダルトン少尉がきびきびと身支度を整えていた。寝台から上体を起こしたリュシアに気づくと、声量を落として言う。
「起きたんですね。点呼は早いです。顔を洗って、襟元を整えてください。乱れてると、目をつけられます」
「了解です」
返事が短く落ちる。ダルトン少尉は昨日と同じように、笑いそうになって堪えた。
「あと、今朝は食堂じゃないです。朝食は官舎口で受け取ってくださいって伝言が回ってます。昨日みたいに係が来ます」
「分かりました」
「動きは早い方がいいです。廊下に出る順番が悪いと、ぶつかって終わります。噂も立ちます」
噂という単語に、リュシアは一度だけ瞬きをした。
洗面の列は短かった。早い者が先に終わらせる。遅い者のために待つ余裕がない。冷たい水で顔を洗って戻ると、扉が控えめに叩かれた。
「ダルトン少尉、フォルティス少尉。寮監です。朝食の受け取りは官舎口。点呼後に中隊正面へ。遅れたら置いていきます」
「了解です」
ダルトン少尉が、扉越しに返した。返事が軍人のそれだったので、今度はリュシアの方が少しだけ気づいた。ダルトン少尉は、場面ごとに音量と温度を変える。
二人で官舎口へ降りると、布包みが渡された。乾いたパンと、薄い塩味の汁物。温かさはないが、腹に入る。リュシアはパンを半分に割り、残りを布で包み直した。
「全部食べないんですか」
「食べられる時に食べます。今は動きが優先です」
「その判断は正しいです。あとで倒れるより、今は軽く入れた方がいいです」
ダルトン少尉は、リュシアの手元を見てから視線を逸らした。握りしめた布包みの端がきちんと揃っている。癖のような几帳面さが、無駄ではない場面が多い。
点呼の場は、中隊正面だった。砦の中に、広い空き地が一つだけ作られていて、そこに人が集まる。昨日の門前ほどの混乱ではないが、穏やかでもない。担架が脇を通る。後送の車列が動く。声が飛ぶ。誰もが自分の役割だけを見ている。
列に並ぶ寸前、リュシアの肩口に影が落ちた。
「少尉」
低い声。振り向くと、ヴァイス曹長がいた。昨夜、官舎への案内をしてくれた男だ。
「昨日のうちに、導線を二つ確認した。官舎口と中隊正面、医療棟までの最短。少尉が迷わないルートだけ覚えてください」
「ありがとうございます」
「礼はいらん。迷って死ぬな」
言い方が冷たいわけではない。熱を削った言葉が、そのまま最短の命令になる。
点呼が始まると、場の空気が一段締まった。前に立ったのは、レインズ少佐だった。背が高いわけではないが、立つ位置が正確で、視線が迷わない。声は張らないのに届く。
「第七中隊。新任は昨日着いたな。訓練所の成績はここでは関係ない。邪魔をしないこと。それだけ守れ。仕事は後で渡す」
短い。余計な飾りもない。軍の話し方だ。
「新任、前へ」
呼ばれて、数名が前へ出る。リュシアも出た。そこだけ、わずかに間が空いた。視線の数が増える。制服の同じ色の中で、目を引くものがあると、理屈ではなく反射が起きる。
それを、レインズ少佐は見ないふりで切った。
「配属先へ動け。指示は各小隊長が出す。以上」
列が解ける。人がそれぞれの方向へ流れる。ここは水のように動く場所だと、リュシアは改めて思い知らされた。立ち止まれば、背後が詰まる。
ヴァイス曹長が、すでに一歩先に出ていた。
第三小隊の集合場所は、砦内の一角だった。壁沿いに簡易の装備棚があり、前線兵が武具を整えている。視線は鋭いが、誰も口数は多くない。疲労が滲む動きの中に、手順だけが生きている。
そこに、一人の男が立っていた。
軍服は汚れていない。だが、その清潔さが逆に現場の匂いを感じさせた。整いすぎた姿勢、短い黒髪。目の奥が乾いている。仕事の顔だ。
その場の空気が、一度だけ止まった。理由は単純だ。新任が若い。しかも目立つ。視線が揃う。その揃い方が、少しだけ不穏になる。
男は、視線を一つも拾わなかった。声の温度を変えずに切る。
「第三小隊長、アデル・ベネット中尉だ。名前は覚えなくていい。中尉で通る」
短い。自己紹介に余韻がない。名乗りが終わった瞬間には、もう次の仕事に移っている。
「見るな。名前を言え。順番にだ。ここは観察会じゃない」
叱っているようで、叱っていない。仕事の導線に戻しているだけだ。
ヴァイス曹長が先に言う。
「ラウル・ヴァイス曹長。小隊付き補佐として配置されています」
「ロウソン・クレイ少尉。魔法騎士」
短く名乗った男は、日に焼けた顔をしていた。目が落ち着いている。リュシアを一瞬だけ見て、視線をすぐ戻す。これは礼儀でもあり、自衛でもある。
他にも数名、伍長、兵長が続いた。声と立ち方だけで、武器の種類と役割が分かる。
最後に、リュシアが一歩前へ出た。
「リュシア・フォルティス少尉です。本日付で第三小隊に着任しました。よろしくお願いします」
言い終える前に、ベネット中尉が頷いた。早い。余計な間を残さない。
「よし。フォルティス少尉、荷物は置け。今日やるのは三つだ。装備の確認、連絡の手順、撃てる距離の確認。外はまだ出さない。勝手な行動はするな」
言葉が強い。だが、内容は手順だ。リュシアは頷く。
「承知しました」
ベネット中尉は、そこで一拍だけ置いた。視線が一度、ヴァイス曹長に移る。打ち合わせ済みの合図だ。
「フォルティス少尉。訓練所の申し送りに、索敵の注記がある。魔獣の反応が分かるという報告だ。どこまでできる」
聞き方が、試しではない。運用の確認だ。
リュシアは考える時間を取らず、事実だけを返した。
「魔獣の魔力は読めます。距離と方角は、条件が良ければある程度まで。人間の魔力残量は基本的には読めません。制御が乱れている相手なら、揺れとして分かることがあります」
ベネット中尉が頷いた。
「言い切るな。条件が悪い時は外すと認識していいか」
「外します」
「なら、それでいい。勝手に当たる前提で動くな。必要な時に必要なだけ使え。あと、これも手順だ。今ここでした話を、誰にでもするな。余計な期待は事故の種だ」
「もう一つ」
ベネット中尉の声が続いた。
「お前をいつまでも後方に置くつもりはない。だが、いきなり前線には出さない。まず現場を覚えろ。手順を覚えろ。この小隊がどう動いてるかを見ろ。その上で、使えると俺が判断したら出す。順番は俺が決める」
「了解です」
「焦るなとは言わない。だが、順番を飛ばすな」
「承知しました」
一瞬、ロウソン少尉がリュシアを見た。驚きではない。納得でもない。情報として受け取っている目だ。ここではそれで十分だ。
ベネット中尉が周囲へ声を投げる。
「ロウソン少尉、装備点検を先に回せ。ヴァイス曹長、少尉の連絡手順を叩き込め。俺は中隊に顔を出して戻る」
彼は歩き出す前に、リュシアを見た。
「フォルティス少尉。ついて来い。中隊前で立ち止まるな。今日覚えるのは道と順番だ」
「はい」
短い返事が落ちる。第三小隊の空気が、仕事に戻っていた。
そのまま訓練場へ向かう導線が示される。砦の中にも射撃訓練用の区画があり、粗い土の壁に的が付けられていた。実戦と同じ距離ではない。だが、初日に必要なのは命中より手順だ。
ヴァイス曹長が歩きながら言う。
「少尉は若い。若いのに少尉だ。しかも色々な意味で目立つ。見られるのは当然だ。気にするなと言っても無理だろうが、足を止めるな。止めた瞬間、噂が勝つ」
「止めません」
「止めるなら、止める場所を選べ。止める時は、俺が止める」
リュシアは一度だけ頷いた。ここでの安全は、強さではなく、止まらない手順で作られる。
訓練場の土の匂いの中で、ベネット中尉が戻ってくるのが見えた。彼は、もう話を終えている顔をしていた。仕事の速度が同じだ。
「午後はここで揃える。明日、外へ出す。今日のうちに、俺の言葉を疑う癖をつけろ。疑うなら、口に出して確認しろ。勝手に動くな」
リュシアは、返事を短く落とした。
「了解です」




