21.最終模擬戦2
湿地の一歩目で、ぬかるみが靴底を掴んだ。重心が遅れ、膝が沈む。乾いた地面なら起きない遅れだ。
その遅れの向こうで、さっきの反応が確かに動いた。
採取隊が回収箱を抱え、低地へ入る。護衛班は間隔を取って追随する。誰も走らない。走れば隊形が割れると知っている。
リュシアは腕を上げた。
「右低地に二。左奥に一。今は小さいです。最初の接触は右が濃いです」
四が小さく息を吐いた。
「見えないのに言い切るの、相変わらず怖い」
「断定はしません。ですが準備はできます」
影が右の低地で跳ねた。模擬魔獣が湿地の水面を割って現れる。小型。速い。斜めに採取隊へ入る角度。
リュシアは短く言った。
「番号で返答してください。四、採取隊の右へ。三、乾地を一本作って撤収路を確保。一、音で釣って角度をずらす。二、今は土だけ。風は私の合図まで出しません」
「一、了解」
「二、了解」
「三、了解」
「四、了解」
四が採取隊の右へ寄り、火線を通す位置を取る。撃つためではない。撃てる形を作るための立ち位置だ。
三は土を締め、乾地の縁を固める。盛るのではない。踏み抜かない硬さだけを作る。撤収路は静かに繋いだ方が速い。
一が雷を撃たず、空気だけを震わせた。乾いた雷鳴が一拍。模擬魔獣の注意が一瞬だけずれる。
その隙に採取隊が回収箱を引き上げようとした。だが湿地の底が粘る。箱の角が泥に噛み、動きが止まった。
前が止まれば後ろが詰まる。詰まれば隊形が割れる。割れれば、魔獣はそこへ突っ込む。
採取隊の一人が焦って箱にしゃがみ込み、もう一人が手伝おうとして止まった。止まってはいけない人数が止まる。
リュシアは声を荒げずに刺した。
「手を離して。箱は捨てます」
採取隊が目を見開いた。加点対象を捨てる判断は、訓練でも躊躇が出る。
「でも」
「固執すると損耗が出ます。損耗は大減点です。ここで詰まったら終わります」
四が舌打ちして、即座に動いた。
「四、了解。捨てる。次行く」
四が箱から手を剥がし、採取隊の肩を押して前へ出す。引き剥がす力が要る場面で、迷いがない。
だが捨てた瞬間、模擬魔獣の狙いが変わった。止まった足に向けて突っ込んでくる。
リュシアは攻撃できない。だから角度を奪う。
「三。縁を欠いて」
三が乾地の端をわずかに崩した。穴ではない。跳躍の角度を崩す欠けだ。
魔獣が踏み込んだ瞬間、片足が沈み、上体が流れる。
「一、今」
一がもう一拍、空鳴りを鳴らす。音で釣る。頭がそちらへ向き、踏み込みの角度がさらに崩れる。
その一瞬に、四が火線を通した。
炎は大きくない。湿地で大火力は要らない。要るのは、退路を焼かない角度の火線だ。模擬魔獣が弾かれ、教官側の撃破判定が出る。触るな。追うな。全員が止まれる。
だが右低地の二体目が動く。今度は撤収路へ回り込もうとする角度。詰ませに来る角度だ。
ここで撤収路が切れたら終わる。
リュシアは即座に切り替えた。
「二。今、一息だけ。風は一息。角度は私の腕で示します」
二の顔が強張る。制御に難がある。だから枠を与える。枠があるから出せる。
リュシアが腕を横へ振った。風を通す角度。味方へ散らさない角度。
二が息を吐く。一息分の風が湿地の水面を跳ねさせ、視界を一瞬だけ奪う。強風ではない。撤収のための一瞬だ。
「三。乾地を一本、繋いで」
「三、了解」
三が土を締め、足場を繋ぐ。退路が切れない。
「一。音を切って。次は無音で戻る」
「一、了解」
一が空鳴りを止める。誘導は終わり。これ以上は余計な反応を呼ぶ。
「四。採取隊を押し出して。速度を揃えて」
「四、了解」
四が採取隊の背中を押し、列を揃える。火線は撃たない。撃てば退路が焼ける。やるべき工程が違う。
魔獣が視界を取り戻した時には、撤収路は繋がっていた。班と採取隊は同じ速度で尾根へ向かっている。追いつけない。追いついたとしても、隊形が割れない。足場が硬い。合図が通る。
教官の笛が二度鳴った。撤収合図。
リュシアは腕を上げた。
「停止。隊形保持。前へ出ない。全員、呼吸を整えて」
班が止まる。採取隊も止まる。誰も勝手に前に出ない。誰も勝手に追わない。泥の重さの中で、全員が止まれた。
尾根の模擬ラインへ戻る。乾いた匂いが戻る。湿地の圧が背中から剥がれる。
教官が淡々と告げた。
「帰還。検疫に入る。泥を払うな」
リュシアは班を見た。
「汚染疑い、負傷、呼吸異常はありますか。短く」
「一、なし」
「二、異常なし」
「三、問題なし」
「四、なし」
リュシアは教官へ報告の型を置く。
「フォルティス班、異常申告なしです」
四が小声で言った。
「箱捨てるって言った瞬間、普通に怖かった。でも正解だったな」
二が唇を噛んでから、短く言う。
「一息だけって枠がなかったら散らしてました。助かりました」
一が息を吐いた。
「音を切るタイミングが良かったです。呼びすぎると面倒になりますから」
三が泥のついた手袋を見下ろした。
「足場を作るだけで、勝てるんですね」
リュシアは頷いた。胸の奥の熱は、小さく、しかし確かに残っている。個人の火力ではない。班の型で勝った手応えだ。
そのとき、遠くで笛が二回鳴った。教官の注意喚起だ。別班が崩れかけた合図。
視線を投げると、左奥の木道に人影が固まっている。
雷が走り、続いて不自然に大きい火の閃光が上がる。制御が粗い。押し戻すだけで、隊列が揺れている。
ライオットの班だと分かった。
ライオット・グランフォード候補生は、前線の少し後ろにいる。火力の中心に置かれた位置だ。
だが、前が割れている。誰かが泥に足を取られ、誰かが助けに回り、木道の端が空いた。
そこへ模擬魔獣が一体、木道へ乗りかけた。
「……っ」
リュシアの喉が勝手に動く。
自班の安全を保ったまま、視界だけを切り替える。距離。角度。時間。
「四、火力を一発温存。二、今の処理を続けてください。三、右の警戒を維持。四、合図を出します」
「了解」
「了解」
「了解」
カリナだけが短く言う。
「行くんだな?」
リュシアは頷き、腕を上げる。
合図は自班ではなく、遠くのライオットへ向けたものだった。
「グランフォード候補生。木道右端、角度、今。入る前に」
声は届く距離ではない。
だが、ライオットは視線で気づいた。彼は一瞬だけこちらを見て、眉をひそめる。次に、木道右端へ視線を飛ばした。
模擬魔獣が、木道へ乗る。
雷光が跳ねた。
狙いは完璧ではない。端をえぐり、進路を止める形だ。だが、止まった。止まれば十分だ。木道は割れない。
周囲が息を戻す。
ライオットの班が、ぎりぎりで踏みとどまる。
ライオットがこちらを睨んだ。
睨みは短い。すぐ班へ戻る。彼の仕事はそこだ。
リュシアは、睨まれた理由を推測しない。推測は後回しだ。
今は、こちらの課題が続いている。
「戻ります。四、次でまとめて処理。木道を中心に扇で」
「四、了解」
火が扇状に走り、二番の雷が残りを縫う。
三番が最後の一体を押し返し、沈む場所へ追いやった。
笛が鳴る。帰投の合図だ。
班が木道を踏み直しながら戻る。
カリナが横で、息を整えたまま言う。
「なあフォルティス。今の、喧嘩売った?」
「売っていません。勝ち筋を通しました」
「そういうところが、面倒なんだよな」
「必要なら、説明します」
カリナが肩をすくめる。
「うん。たぶん、次で聞かれるな」
リュシアは頷いた。
自分の中で、今日の情報を棚に置く。
模擬魔獣の位置は、読めた。班の火力は、通せた。木道は割らなかった。
そして、ライオットの雷は、確かに一発分を切った。
次は、あの視線の意味を処理する番だ。




