20.最終模擬戦
それから、訓練は淡々と積み重なった。
体力、座学、模擬訓練。射撃区画の雷鳴も、遠くの音として当たり前になる。
同じ指示を何度も繰り返し、同じ失敗を潰し、誰もが少しずつ訓練生の顔になっていった頃。
掲示板に、紙が一枚増えた。
最終模擬戦。
その文字だけで、待機列の空気が変わる。
息を呑む音と、笑ってごまかす声が混ざる。怖さを隠しきれない。
ミレイユが、紙を見上げたまま固まった。
「……え、私さ。ようやく模擬戦に入れたと思ったのに、もう最終なの? やば……」
隣でアンナベルが肩をすくめる。
「置いていかれたのは今に始まったことじゃないでしょ。……でも、入れたならやるしかない」
カリナが短く鼻で笑った。
「最終ってことは、次は本物だよ。冗談抜きで」
リュシアは紙面の条件を目で追い、頭の中で必要な工程を並べる。
怖い、という感情がないわけではない。けれど、優先順位が違う。
(やることは同じです。崩さない。通す。生き残る)
訓練場の掲示板前は、普段よりも人が密だった。紙の端を指で押さえながら、誰かが声に出して読む。読み終わるたびに、ざわめきが一段大きくなる。
教官が笛を鳴らした。
「静かに。課題の説明をする」
訓練生の列が整う。いつもの模擬戦闘訓練より、揃い方が少しだけ速い。リュシアは自分の呼吸が落ち着いていることに気づき、胸の奥に小さな熱が灯った。
教官は板を持ち上げる。そこには、南方の湿地を模した図が描かれていた。乾いた尾根から、ぬかるんだ低地へ。小さな島のような乾地が点々とあり、その一つに赤い印が付けられている。
「最終模擬戦の課題は、資源回収支援、撤収判断、帰還後の検疫までを含む。目的は殲滅じゃない。損耗を出さずに回収して戻れ。迷ったら戻るを選べ」
何人かが目を見開いた。戦うより簡単、と言い切れない内容だ。勝てばいいでは終わらない。
教官は続ける。
「資源は三つ。回収できた数で加点するが、回収に固執して損耗を出したら減点が大きい。感染疑い判定も入れる。治癒で片付く前提は置かない。帰還後の手順まで採点する」
列のあちこちで、息が抜ける音がした。誰かが小声で、まじか、と漏らす。
教官は、そこで一度だけ間を置いた。空気が抜けるのを待つ間ではない。むしろ、全員の目を上げさせるための間だった。
「それと。今日から模擬魔獣を使う」
ざわめきが起きかけて、喉元で止まる。誰も笑わない。笑っていい類ではないと、半年で学んだ。
教官は声を強めない。強めないまま、硬く言った。
「三つだけ覚えろ。
一、中止合図が出たら即停止。止められない班は、その時点で終わりだ。
二、撃破判定が出た個体には触るな。追うな。勝手に処理するな。
三、指揮系統は一本。勝手に判断を割るな。返答の型を崩すな」
列の空気がさらに硬くなる。息を吸う音が、妙に大きい。
「模擬だから安全、とは思うな。安全なのは、手順を守った場合だけだ。事故を起こしたら点数の話じゃない。訓練そのものが終わる」
誰かの喉が鳴った。
教官は板を指で叩く。
「中止合図は教官が握る。笛二回で撤収。聞き逃すな。迷ったら戻るを選べと言ったのは、臆病になれという意味じゃない。判断を早くしろという意味だ」
リュシアは、その言い方を頭の中で反芻した。早く戻る。早く切る。戦場で死ぬのは、倒し切れなかった時ではなく、戻る判断が遅れた時だ。
教官は最後に、冷たく念を押す。
「回収を優先していいのは、生きて帰れる見込みがある時だけだ。見込みが割れた瞬間に、撤収へ切り替えろ。これが最終だ。遊びじゃない」
教官が目線を上げた。
「次、班割り。五人一班。呼ばれたら前へ」
名前が順に読まれていく。前に出る者、横を見て誰と組むのかを確かめる者、無表情のまま立つ者。リュシアは呼ばれるのを待ちながら、周囲の視線の集まり方がいつもと違うことを感じていた。ここまで来た今も、中心に置かれる感覚は残る。
「フォルティス候補生」
リュシアは一歩前へ出た。続けて四名が呼ばれる。
次に呼ばれたカリナが横に立つ。肩を竦め、目だけで、また一緒だなと言う。リュシアは頷いて返した。視線を前に戻した瞬間、三人の新しい班員を認識する。男が二人、女が一人。緊張の質がそれぞれ違う。
リュシアの背後、少し離れた別の班の列で、グランフォード候補生が呼ばれる声がした。彼は前へ出るとき、やけに背筋が真っ直ぐだった。
教官は班の並びを確認し、最後に紙を一枚取り出した。
「フォルティス候補生。前へ」
リュシアは半歩進む。周囲の空気が変わるのが分かった。良くも悪くも、注目が集まる。
教官が淡々と告げる。
「お前の班長任務は固定だ。加えて縛りを一つ課す。模擬魔獣を直接攻撃するな」
一瞬、間が落ちた。
ざわめきが起きる前に、教官が釘を刺す。
「聞こえたな。命中も牽制も禁止。射線を通すな。できるのは指揮、索敵、退路確保、遮蔽物、誘導、味方の火力支援の準備までだ。班で勝て。お前一人の点は見ない」
カリナが、横から小さく息を吐いた。笑いそうで笑えない顔だ。
「……やっぱり来た」
リュシアは教官を見たまま答える。
「了解しました」
「理由は今は要らない。やれるか」
「やれます」
返事は短い。しかし、胸の奥の熱は消えなかった。むしろ、少しだけ強くなる。やれるかと問われたこと自体が、スタートの合図みたいに思えた。
教官は次の班の前へ移る。リュシアは班に戻った。
火、雷担当の男子候補生が、ひそひそ声で言う。
「……攻撃なしって、どうやって……」
風、土担当のもう1人の男子候補生が、口を結ぶ。彼は貴族らしい所作で、周囲を無駄に見ない。だが目は硬い。女子の候補生は、リュシアを一度見てから、手袋の指先を揉んだ。
カリナがぼそっと言う。
「まあ、あんたが全部模擬魔獣殺しちゃったら終わりだもんね。教官もそれは分かってる」
リュシアは小さく頷く。
「私が撃てない前提で形を作ります。あなたは反射で動ける強みがあります」
「うわ、急に褒めてくるじゃん。……いや、そうですけど?」
カリナは口を尖らせつつ、目は少し落ち着いた。
教官の声が全体へ飛ぶ。
「装備確認。資材回収箱は採取隊が持つ。お前らは護衛。感染疑いが出たら、その場で申告して隔離判断を入れろ。迷ったら報告しろ。では、各班、出発準備」
班ごとに散開する。リュシアは一度だけ、深呼吸を置いた。二ヶ月前の自分なら、呼吸の仕方すら意識しなかったはずだ。
尾根の模擬ラインへ向かう途中、リュシアは足元の湿り気と、風の匂いの違いを拾った。訓練所の中なのに、湿地の作り込みがある。ぬかるみの一歩目で、足首に余計な負荷が乗るだろう。
そのとき、リュシアの意識の端に、薄い違和感が触れた。
視界ではない。音でもない。魔力の残り香みたいな、微かな揺れだ。
乾地の向こう、低地の影。そこに、反応がある。
リュシアは立ち止まらずに、班へ視線を配った。言葉にするには、もう一段確かめが要る。だが、位置ははっきりしすぎている。
カリナが気づいたように言う。
「何、今の顔。なんか見えた?」
リュシアは頷いた。
「多分、います。右の低地、二。左奥、一。動いていません」
三人が一斉にリュシアを見る。驚きの種類が揃っていない。信じたい者と、疑いたい者と、信じるしかない者が混ざる顔だ。
リュシアは淡々と続ける。
「断定はしません。ですが、右は近いです。最初の接触が来るなら、そこです」
火、雷担当が喉を鳴らした。
「……模擬魔獣?何も見えないだろ?」
「見えていません。ですが、反応はあります」
カリナが小さく笑ってしまい、すぐに口を押さえた。
「ほんと、あんたって……頼りになりすぎてこえーよ」
リュシアは表情を変えずに答える。
「まだ断定はできません。確度を確認後また共有します」
カリナが肩を揺らす。
「そういうとこだよ」
尾根のラインに到着すると、教官が旗で合図した。採取隊が先に入る。各班は間隔を取って追随。
リュシアは短く言った。
「番号で返答してください。目的は混線を防ぐためです。合図は腕を上げます。行動開始は返答の直後で」
三人が一瞬だけ固まり、次に、揃いすぎない声で返した。
「一、了解、護衛位置に入ります」
「二、了解、右警戒に入ります」
「三、了解、後方視界を取ります」
カリナが最後に言う。
「四、了解。余計な一言は訓練後にする」
リュシアは頷いた。
「助かります」
班が動き出す。湿地の一歩目。ぬかるみが靴裏を掴み、身体の重心がわずかに揺れる。
その揺れの向こうで、さっきの反応が、ほんの少しだけ動いた。




