2.フォルティス公爵家
フォルティス公爵家・王都邸。
暖炉の火が小さくはぜて、部屋の沈黙だけが目立った。
小さな応接間の卓の上に、一冊の布張りのノートが開かれている。
長姉リディアは嫁ぎ先に、次兄カイルは南方勤務で王都にはいない。
次姉エレオノーラは廊下の気配を一度だけ確かめてから、ノートへ視線を戻した。――そろそろ王宮から戻る頃だ。
ノートには、細かく整った字がびっしりと並んでいる。
『誉め言葉について』
・「お綺麗ですね」「素敵なお召し物ですね」
→ あいさつ代わり。真に受けすぎないこと。
・具体的な内容や理由が添えられる誉め言葉
例:「以前よりお顔色がよくなられましたね」
「先日のご発言、とても印象的でした」
→ 本心が混ざっている可能性あり。耳を傾ける価値あり。
『場が静まったとき』
・自分が喋りすぎていなかったか、一度だけ振り返る。
・原因が分からなければ、無理に話題を出さない。
・笑って黙っているのも「失礼」ではない(※姉談)
余白には、リュシアの字で小さく、
『「姉様の表現を引用しました」と言っておくと角が立たない』
と書き足されている。
(……最初は、ただの練習帳だったのに)
エレオノーラは、ページをそっとめくった。
『王妃陛下の前で』
・背筋。顎。目線。
→ 姉様の真似をする。
・視線が怖いと感じたとき
→ 目を逸らさない。見下ろされるのは慣れる。
・「失敗した」と感じたら
→ すぐに取り繕おうとしないこと。
(※姉様「あなたは傷口を広げる天才」)
エレオノーラの喉の奥が、きゅっと詰まる。
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
扉がノックもなく、そっと開く。
フォルティス公爵夫人カタリナが先に姿を見せ、その後ろからフォルティス公爵レオンハルトと、長兄アルバートが入ってきた。
「ここにいたのね、エレオノーラ」
カタリナが柔らかく声をかける。
「……はい」
エレオノーラは慌てて袖で目元を押さえ、ノートを閉じかけてから、思い直したようにそのままにした。
レオンハルトの視線が、卓上のノートに落ちる。
「それが……リュシアが言っていた王宮用のノートか」
「はい。あの子が王宮に通い始めた頃、毎日毎日、こう言われた時はどう返せばいいのか、これは誉められているのかって、私に質問責めしてきて……」
エレオノーラは表紙の端を握りしめた。
「二人で整理した方がいいって言って、じゃあノートにしようって、まとめたやつです。これは、一番最初の」
カタリナが椅子に腰かけ、そっと娘の隣に座る。
暖炉のそばの肘掛け椅子には、アルバート無言で腰を下ろした。
「見ますか?」
カタリナがノートを手に取り、ぱらぱらとめくる。
その背後から、レオンハルトとアルバートも覗き込んだ。
『自分で分かっている欠点』
・表情が乏しい → 無理に増やそうとすると不自然になる
・声が固い → 少しだけ語尾を柔らかくする
・場の空気が読めない → まずは「静かにしている」を基本にする
『姉様からのアドバイス』
・分からないことは、分からないままにしておいていい場合もある。
・とりあえず笑っておけばいい場面は確かに存在する。
・ただし「笑ってごまかす」のと「笑ってやりすごす」は違う。
「これは」
夫人は、娘の手にノートを戻しながら言う。
「あの子が必死に生きようとした記録ね。
私たちが笑っていいものでも、責めていいものでもない」
エレオノーラは、こくりと頷いた。
暖炉の火がぱち、と小さくはぜる。
しばし沈黙が落ちたあと、レオンハルトが短く息を吐く。
「……王宮では、もう噂になっている」
低い声だった。
「帰り道、別の家の馬車とすれ違ったがな。車窓越しに、あからさまにこちらを見てひそひそやっていた」
「『気味が悪い』は、格好のお喋りの種でしょうね」
カタリナが淡々と言う。
「『王子妃になるはずだった公爵令嬢が、殿下に気味が悪いと言われた』。これほど分かりやすい見出しもないもの」
エレオノーラの指が、ノートの角をぎゅっと掴んだ。
「……あの子、さっきまで全然泣かなくて」
ぼそりとこぼす。
「『私の選択が間違っていたようです』って、あの、いつもの調子で言って。『明日からどう修正するか、少し考えてみます』って」
カタリナの眉が、かすかに寄った。
「修正、ね」
「だから、言いました。今日は何も修正しなくていいから、寝なさいって。無理やり寝室に押し込んできました」
エレオノーラは、自嘲気味に笑う。
「それくらいしか、できなくて」
「十分よ」
カタリナは娘の肩に手を置いた。
「今日の分の失敗は、もうこれ以上ノートに書かせなくていいわ」
暖炉のそばで黙っていたアルバートが、ようやく口を開いた。
視線は火ではなく、その向こう――誰もいないはずの王都の空気を見ている。
「……王都に置けば、また“材料”にされる」
抑えた声だった。怒りを見せないぶん、重い。
「傷の大小じゃない。晒され続ければ、本人が壊れる。――それは、家の落ち度になる」
エレオノーラが息を呑む。
「お兄様……」
レオンハルトが、短く鼻で笑った。
「落ち度、か。嫡男らしい言い方だな」
アルバートは笑わない。言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「王子妃として続けさせるなら、それはそれで手を尽くすべきだった。だが……今回の件で、あの席は“安全ではない”と分かった」
杯の縁を指先で一度なぞり、視線を上げる。
「なら、方針を切り替える。リュシアは王都の飾りじゃない。フォルティスの娘で、戦力だ」
カタリナが、苦い冗談のように言う。
「王宮の玩具にされるくらいなら、領地の魔獣の方がまだ話が早いわね」
アルバートは頷くだけで、語気を変えない。
「今すぐ本人に“戦え”と言うつもりはない。だが、逃げ道を用意するのは今だ。王子妃になるしかない、という思い込みだけは先に折っておく」
静かに、しかし断定で落とす。
「――王都で晒す必要はない。家が引き取る。守る側に回せる形で、育て直す」
レオンハルトが、ゆっくりと頷いた。
「……いずれは、領地の要塞守備と魔獣討伐に回す。宮中よりは、まだ筋が通る。あの性格でもな」
アルバートは最後に一言だけ、低く付け足した。
「選ばせるのは後でいい。選べる状態を作るのが先だ」
「……とりあえずの方針は決めた」
「方針?」
エレオノーラが顔を上げる。
「リュシアは体調不良ということにして、しばらく領地で休ませる」
レオンハルトは、淡々と告げた。
「明日、陛下に拝謁を願い出る。今日の件について正式にお詫びを述べたうえで、娘はもともと体が強くない。王宮での務めが続いていたこともあり、当面は静養させたいと申し上げる」
「体が強くないなんて、あの子が聞いたら怒りそうね」
カタリナが、苦笑まじりに言う。
「『私は健康です』って、真顔で反論するわ」
「健康でも、不調でも、親が娘を休ませたいと思うこと自体は、責められる筋合いはない」
レオンハルトは、静かな目をしていた。
「噂は好きにさせておけばいい。ただ、フォルティス家としてどこまで許すかだけは、こちらで決める」
エレオノーラが、遠慮がちに問う。
「……殿下のことは?」
レオンハルトは少しだけ目を閉じた。
「殿下はまだ若い。今日の発言を、王家としてどう扱うかは陛下と王太子殿下の役目だ」
声に、露骨な怒りは乗らない。ただ、距離があった。
「私は王子を叱る立場にはない。ただ、娘をこれ以上王宮に送り出すかどうかを決める立場にはある」
カタリナが、小さく頷く。
「私も……今のまま『王子妃としてどうにかしなさい』とは、とても言えないわ」
「お母様」
エレオノーラが、ほっとしたような、でも少し寂しそうな顔をする。
カタリナは微笑んだ。
「王子妃になれば幸せ、なんて、誰が決めたのかしらね。少なくとも、あの子自身は、そんなふうに考えたことはないでしょう」
「決まった役割だからやるとしか、思っていなかっただろうな」
レオンハルトの言葉には、どこか自嘲が混じる。
「王都があの子に向いていなかった。それだけの話だ」
しばらく誰も喋らなかった。暖炉の火が、ぱち、と小さくはぜる。
エレオノーラは、手の中のノートを見下ろした。
「……これ、どうしましょう」
「大事にしまっておきなさい」
カタリナが答える。
「いつか、あの子が自分で読み返したくなる日が来るかもしれない。あの頃の自分、よく頑張ってたわねって笑える日が」
「その日が来るようにするのが、俺たちの仕事だ」
レオンハルトが立ち上がる。
「王宮から距離を置いて、リュシア本人に次はどうしたいかを考えさせる時間を作る。……それから先のことは、そのとき考えればいい」
アルバートも立ち上がり、上着を肩に引っかけ直した。
「ひとまずは『体調不良の公爵令嬢』だな。
――その次をどう名乗るかは、リュシアが決めることだ」
エレオノーラが、小さく「はい」と返事をした。ノートの表紙を、そっと撫でる。
王子妃になるためのメモ帳は、この夜からしばらく、王都邸の片隅で静かに眠ることになる。
その持ち主もまた、体調不良の公爵令嬢として、ようやく何も修正しなくていい時間を与えられる――はずだった。




