19.模擬訓練改
消灯前の部屋は、まだ熱が残っていた。
日中の砂と汗の匂いが布に染み、誰もが黙って各自の装備を拭いている。笑い声は出ない。出せる余裕がない。
アンナベルが、拭き布を折り目で揃えながら言う。
「指示が通らないのは、能力の問題じゃない。……運用の問題」
「運用、ですか」
「そう。言い方。順番。相手の頭の中を整理してから動かす。――それができないと、いくら正しくても空回る」
リュシアが頷きかけたとき、ベッドの端で静かに髪をまとめていたイザベルが口を開いた。
「……フォルティス候補生」
呼ばれた側が顔を向けると、イザベルは目線を逸らさないまま、短く続けた。
「あなた……今日、相当やりにくかったでしょ」
リュシアが返事をする前に、イザベルは一拍置いて、少しだけ声を落とした。
「あなたの指示、内容は悪くなかった。けれど届かない」
ミレイユが、目だけで「それな」と頷く。
イザベルは続ける。
「同じ内容でも、誰が言うかで受け取り方が変わる場面があるでしょう」
カリナが鼻で息を吐く。
「ほらな。フォルティスが言うと、なんか腹立つんだよ。わからんけど」
「わからんけど、じゃないのよ」
イザベルが即座にツッコミを入れた。声は穏やかなのに、切れ味だけが妙にいい。
セラが小さく咳払いをして、空気を和らげるように言う。
「……でも、フォルティスの言ったこと、間違ってはいなかったと思います。手順も……」
「間違ってないわ。内容はね」
イザベルが頷く。
「ただ、届き方が弱い。あなたの指示は、相手の頭の中で命令にならずに、意見のまま落ちるの」
リュシアは、眉をわずかに寄せた。
「……意見と命令の差が、分かりません」
アンナベルが淡々と補足する。
「迷わせないかどうか。選択肢を残すかどうか。あと、目的が先に出てるか」
「目的……」
「そう。先に何のためにを置けると、人は動きやすい」
イザベルが、そこに言葉を足した。
「強く言う必要はないの。命令って、怒鳴ることじゃなくて、相手が迷わない形にすることだから」
リュシアは黙って聞いた。
反論は、出ない。今日の現場は、そのまま答えになっている。
ミレイユが、恐る恐る手を挙げるような仕草をした。
「じゃ、じゃあさ……フォルティスは、どう言えばよかったの?」
アンナベルが、机の上の紙切れを引き寄せて言う。
「じゃあ、雛形を作る。リュシア、明日からこれ」
紙には、短い文が三つ、端的に書かれた。
・状況(何が見えてるか)
・目的(何を避けたい/何を取りたいか)
・指示(誰が、何を、いつまでに)
リュシアが紙を見る。
「……短いです」
「短い方が通る」
アンナベルは言い切った。
イザベルが、少しだけ目元を和らげる。
「それに、あなたは正しいことはすぐ言えるのだから。あとは順番。言い方を作りなさい。毎回悩まなくていいように」
リュシアは紙を受け取り、頷いた。
「了解しました。……明日、試します」
ミレイユが、布団にもぐりながらぼそっと言う。
「フォルティス、今日さ……普通に怖かったよ。合っててもさ、そんなビシバシ言われるのこわい」
リュシアが首を傾げる。
「怖がる必要はありません。ただ正しい手順をーー」
「それ!それが怖いんだって!」
ミレイユが小声で叫び、カリナが笑いを噛み殺す。
消灯の合図が鳴った。
部屋は暗くなる。けれど、今日の暗さは、昨日より少しだけ軽かった。
リュシアは紙を枕元に置き、目を閉じた。
明日は、言い方を変える。
正しさを、届く形にする――そのための手順が、ようやく手に入った。
笛が鳴った。
班ごとの散開。前回より、動きは明らかに整っている。リュシアは深呼吸を一つだけして、声を出した。
「第一、左右の索敵。第二、私の三歩後ろで待機。第三、右前の遮蔽物まで前進して視界を取ってください。合図は腕を上げます」
四人とも動く。動くのは動く。
――通っている。
前回のような、聞こえないふりも、反抗もない。命令の形を整えた効果は出ていた。
だからこそ、次に来た返事が気になった。
「了解っす」
「はいはい」
「りょーかい」
軽い。しかも、誰がどの指示に返したのかが曖昧だった。
リュシアは一瞬だけ止まった。止まったが、止まっている時間はない。
「返答を型にしてください。自分の番号と、受けた指示と、実行開始を入れてください」
静寂が一瞬落ちた。
次の瞬間、カリナが横から小声で言った。
「うわ、いきなり怖。怒られたみたいだわ」
笑いが喉の奥に引っかかった気配が、班内に伝播する。
リュシアはカリナを見ない。見ないで、淡々と続けた。
「怖がらせる意図はありません。情報の欠落を減らす目的です。お願いします」
すると、今度は別の三人が焦って声を揃えた。
「一、左索敵、開始します!」
「二、待機、開始します!」
「三、右前遮蔽物、行きます!」
返答は綺麗になった。だが、綺麗すぎた。
全員が同じ調子で、同じ速度で、同じ大きさで返す。まるで唱和だ。
そして――その瞬間、カリナがやらかした。
「……いや、そこまで軍隊ごっこしなくていいって。もっと普通でいいでしょ、普通で」
ぽろっと出た一言だった。カリナ自身も言ってから、しまった顔をした。
だが遅い。
他室の三人は「普通」という語を、命令より強い命令として受け取った。
返答の音量が落ちる。動きも、微妙に散る。
特に三番が、遮蔽物まで行く速度を落とした。普通って、どのくらいだ。安全側に寄せた結果だ。
リュシアは内心でため息をついた。
(命令は通る。返答も通る。余計な言葉が混ざると、意味が割れる)
右手を上げる。
「訂正します。返答は簡潔で構いませんが、要素は残してください。番号、指示、開始。声量は各自の通常で。走行速度も通常で。今の指示を優先してください」
今度は通った。
カリナが、低い声で言う。
「……ごめん」
「後で反省はできます。今は前を見てください」
カリナが一瞬むっとして、次に笑いそうになるのを必死で抑えた顔をした。
「はいはい。……四、余計な一言、停止します」
言い方が馬鹿丁寧で、妙に的確で、班の空気が少しだけ軽くなる。
「それは助かります」
リュシアが真顔で返すと、三人が肩を揺らした。笑い声にはならない。訓練中だ。
そのまま班は進む。
小さな模擬魔獣が現れ、誰かが怯む。だが、命令は途切れない。
「一、距離。二、私の背後維持。三、右から回り込んで角度を取ってください。カリナ、遮蔽物の裏で合図を見て」
「了解。四、黙ってやる」
口が勝手に動くのを自覚しているのか、カリナは自分で封じた。
結果は、派手ではない。
崩れなかった。完璧でもない。
教官の笛が鳴り、終了の合図が出る。
「……六十点だな」
採点役の教官が短く言った。
「命令は通ってる。動きも悪くない。だが返答と指示の混線が一回。現場なら一回で死ぬ。次はゼロにしろ」
リュシアは頷いた。
「改善点は理解しました」
班が退いていく途中、カリナが小声で言う。
「ねえフォルティス、あんたさ。命令が通るようになると、急に喋る量が増えるよね」
「必要があれば喋ります」
「真面目か」
「真面目です」
カリナが吹き出しそうになって、顔をしかめて耐えた。
六十点。だが、前回よりは確実に前に進んでいた。
それを、リュシアは「成果」として棚に置いた。
通りやすい命令の形。目的。優先順位。返答の型。
次は、混線ゼロにする。
そのために、言い方を調整する。
それは、戦う前の準備だ。
解散の笛のあと、リュシアは射撃区画にちらりと目をやった。
グランフォード候補生が、教官の真正面。列ではなく、許可待ちの位置だ。
「今日は一発だけ入れる。止めろ。暴発したら終わりだ」
「はい」
緊張で肩が張っていたが、構えはまっすぐ。
標的板が走り、雷光が跳ねた。芯は外したが、きちんと当たった。
「今のでいい。もう一回。焦るな」
「……はい」
リュシアは、それだけ確認して歩き出す。




