12.休暇
玄関を跨いだ瞬間、空気が違った。
汗と砂の匂いが薄い。廊下は静かで、誰も怒鳴らない。足音を立てても叱責が飛んでこない――それだけで、胸の奥がふっと軽くなる。
「おかえりなさい、リュシア」
カタリナが、いつも通りの声で言った。言葉の温度が「いつも通り」なのがありがたい。
「ただいま戻りました」
返事をして、リュシアは靴を揃えた。訓練所では揃える余裕がない日もある。それができるだけで、休暇だと分かる。
その夜の食卓は、訓練所とは別世界だった。
湯気の立つスープ。焼き立てのパン。香草の匂い。肉は噛み切れる。野菜が、ちゃんと甘い。
背後で控えていた侍女が、無言で二皿目を置いた。
エレオノーラが、その様子を見て目を丸くする。
「ずいぶん食べるようになったのね」
「はい」
リュシアは淡々と頷いて、三口目を運んだ。
アルバートは何も言わずに、皿の空き具合だけを見ている。驚きと安心が混ざった顔だが、言葉にしないあたりが長兄らしい。
カタリナが、何でもないことのように言った。
「いくらでも食べなさい。遠慮はいらないわ」
「はい」
リュシアは遠慮なく言った。訓練所で「はい」以外の返事を許されない生活の癖が、こういう場でも出てしまう。
エレオノーラが、小さく笑う。
「……返事が軍人みたいよ」
笑いが起きた。大きな笑いではない。静かな部屋に合う程度の、軽い笑いだ。
食後、浴室へ案内されると、湯気が白く立っていた。
浴槽がある。しかも湯が温かい。流しっぱなしの水ではない。追い立てる声も、順番を催促する怒鳴り声もない。
リュシアは湯に沈んで、しばらく動けなくなった。
温度が、皮膚の表面から中へ入ってくる。身体の芯の強張りがほどけていく。訓練所の冷えたシャワーでは、あり得なかった。
長く浸かったせいで、上がったときに指先がしわだらけになっていた。
廊下に出ると、エレオノーラが待っていて、無言でタオルを差し出した。
「……長かったわね」
「浴槽があったので」
「なかったんだものね……」
エレオノーラは呆れたように言いながら、妙に安堵した顔をした。妹が風呂の快適さに素直に反応しているのが、嬉しいのだろう。
寝室に通されると、布団が柔らかかった。
硬い寝台でもない。軋む寝具でもない。夜の廊下の足音も、咳も、水桶の音もない。暗さが、ちゃんと暗い。
家のベッドの快適さを味わう暇もないほど、一瞬で眠りに落ちた。
翌朝、夜明け前。
庭先に出たリュシアは、黙って走った。休暇中も、身体を戻すのは嫌だった。
息は乱れる。脚は重い。それでも、訓練に行く前とは違う。足裏が地面を捉える感覚が、少しだけ安定している。
戻ると、縁側にレオンハルトが立っていた。寝間着の上に上着を羽織っただけの姿だ。
「……起きてたのですか」
リュシアが言うと、レオンハルトは短く頷いた。
「音でな。……走るのは、休みでもやるんだな」
「はい。やめる理由がありません」
レオンハルトが、ほんの少しだけ口元を歪めた。笑うというより、困る。
「……辛いなら、やめていい。戻らなくてもいい。家の中でできる仕事はいくらでもある」
逃げ道を示す声だった。押しつけではない。
リュシアは少しだけ考えてから、首を縦に振った。
「戻ります」
「即答だな」
「はい。まだスタートラインにすら立っていません」
レオンハルトの眉がわずかに動く。
「……辛くないのか」
「辛いです」
リュシアは淡々と答えた。
「でも、辛いだけなら耐えればいいだけです。辛いことは、撤退理由にはなりません」
言い切ってから、付け足す。
「撤退が必要なのは、目的が達成できない場合か、続けられない場合です。今のところ、どちらでもありません」
レオンハルトは一拍遅れて、深く息を吐いた。
「家族を安心させる言い方を、少しは覚えろ」
「安心させる目的が明確なら、文言は調整できます」
「調整するな。……分かった。もういい」
それでも、肩の力は抜けていた。
屋敷に戻ると、カタリナがすでに朝食を用意していて、エレオノーラが髪を梳かしていた。
「外、寒かったでしょう」
「寒いですが、許容範囲です」
「そうじゃなくて……」
エレオノーラが言いかけて、やめる。言いたいのは“休暇くらい休め”だ。だが、その言葉が効かない相手だと分かっている。
代わりに、エレオノーラは小瓶を差し出した。
「鼻の頭、ちょっと赤い。塗っておきなさい」
受け取ろうとした手を、エレオノーラが止める。近い距離で、顔を覗き込んだ。
「あなたの顔はただでさえ目立つんだから、ちゃんとしてなさい」
「……了解しました」
問答無用で、軟膏が鼻先にのせられる。
優しい手つきだった。
その三日間は、そういう三日間だった。
ご飯が美味しい。夜が静か。布団が柔らかい。暖かい風呂に入れる。洗濯をしなくていい。怒鳴られない。嫌われない。嘲笑われない。――その当たり前が、いちいち新鮮で、少しだけ可笑しい。
そして、最終日。
荷物は最小限に整えられ、玄関には既に馬車が待っていた。
「では、行ってきます」
リュシアが言うと、カタリナは微笑んで頷き、エレオノーラは軽く肩を叩いた。
「帰ってきなさい。……無事に」
「はい」
アルバートだけが、ほんの少しだけ目を細めた。
「……顔色、前よりいいな」
「食べる量が増えました」
「そうじゃない。……まあいい」
言い直しはしなかった。その代わり、いつも通りの距離で言う。
「吐かなくなったなら、それでいい」
リュシアは、少しだけ瞬きをした。
「……はい。吐かなくなりました」
嘘ではない。いつの間にか、そうなっていた。足は硬くなって、腹は減るようになって、呼吸は少しだけ長く持つ。
馬車に乗り込む直前、レオンハルトが一歩だけ前に出た。
何も言わない。
ただ、片手を上げた。
それで十分だった。
リュシアは一度だけ頷いて馬車に乗り込む。
柔らかい布団の夜から、硬い寝台の夜へ戻る。温かい風呂から、冷えた水へ戻る。静けさから、怒鳴り声へ戻る。
それでも、躊躇はなかった。
馬車が動き出す。
窓の外で、家族が小さく手を振っていた。
リュシアはそれを見て、一度だけ頷いた。
――休暇は終わった。だから、戻る。
それだけだった。




