11.訓練前半終了
三週目の終わりに、リュシアは「吐く前」の感覚を覚えた。喉の奥が熱くなって、視界の端がにじむ。——その時点で、呼吸を落とし、歩幅を小さくし、列から切れない速度に戻す。
吐く回数は減った。減っただけで、ゼロではない。ミレイユはまだよく崩れ、カリナは「今日もかよ」と言いながら水を渡す役が板についた。アンナベルは何も言わない。言わないのが、いちばん助かる。
足は硬くなった。柔らかい痛みではなく、管理しないと切れる痛み。靴擦れが潰れ、翌日には当たる場所が変わる。包帯の巻き方をアンナベルが直し、セラが針で縫い留め、カリナが「借りだからな」と言って新しい紐を放る。
リュシアは「ありがとうございます」とだけ返して、余計な説明をしなくなった。説明しても、ここでは得をしない。——それを、体が先に学んだ。
食堂で、誰かが真似をしようとして、言葉が途中で止まることが増えた。代わりに、笑って終わる。敵意の笑いではない。面白がりと、距離の測り直し。
リュシアはそれを改善とは呼ばない。ただ、状況が変わった、と記録した。
最終週が来る頃には、走っても視界が白くならなくなった。喉の奥が切れて鉄の味がすることも減った。ビリはビリのままでも、前との距離は短い。
息を整えて顔を上げたとき、アンナベルが一度だけ言った。
「早くなったね」
リュシアは、短く頷いた。
「はい」
その返事に、自分で少しだけ驚いた。
もう形だけの返事ではなくなっていた。
点呼が終わり、消灯までの時間が少しだけ長く感じた。
廊下の音が遠い。今日は怒鳴り声が少ない。訓練所全体が、息を吸い直しているみたいだった。
ベッドの上に荷物が散っている。
帰省用の袋、洗濯物、配給の乾いたパン。何を持っていくかより、「明日ここを出る」という事実が妙に現実味を持っていた。
「三日だっけ。短いよね」
ミレイユが靴下を丸めながら言った。声が軽い。
「十分」
アンナベルが即答する。「長いと逆に崩れる」と言外にある。
セラは小さく笑って、枕元の手紙束を整えた。
「私は帰りません。実家、遠いので……」
それを聞いて、カリナが鼻で笑う。
「わかる。めんどい。こっちいれば飯出るし」
「え、私帰る意味の九割くらいそれなんだけど」
ミレイユが笑うと、カリナは肩をすくめた。
「そりゃ家ならここよりはまともなもん食えるけどさ、帰ったら帰ったで、元気?とか言われるだろ。疲れる」
部屋の空気がふっと緩む。
最初の頃みたいな、張り付いた静けさじゃない。笑っても怒られないわけじゃないのに、笑う方が自然になっている。
アンナベルが、ちら、とリュシアを見た。
「フォルティス」
「はい」
「……体力ついたよね」
言い方は淡々としているのに、そこだけは評価だった。
ミレイユがすかさず乗る。
「そうそう! 最初さ、すごかったよね。できないっていうか、概念が違った!」
「概念が違うは悪口」
カリナが言いながらも、口元が少し上がっている。
「でもまあ……すごいできないから、普通にできないくらいになったよな」
その表現が的確すぎて、ミレイユが吹き出した。
「ひどっ!」
リュシアは笑い方が分からず、少しだけ口角を上げた。
それで足りると、最近は学んだ。
「……距離は縮みました。周回遅れではなくなりました」
「言い方が硬い」
ミレイユが枕を投げるふりをして、やめた。投げたら怒られると知っている。
セラが、静かに頷く。
「でも、嬉しいです。フォルティスが倒れなくなったの」
倒れなくなった。
それは優しい言い方だった。吐かなくなった、と言わない。吐いた回数を数えない。そういう配慮が、いつの間にか部屋に増えている。
カリナが、寝台に背中を預けた。
「帰るやつ、明日何時だっけ」
「朝の便。点呼のあと」
アンナベルが答える。
その流れで、ふと沈黙が落ちた。
部屋の隅で、リディが荷物をまとめる手を止めていた。止めたというより、止まっていた。
「……リディ。帰るの?」
ミレイユが軽く聞く。
軽く聞ける距離になったから、聞いた。
リディは一拍遅れて、笑った。笑ったけれど、声が乗らない。
「うん。帰る。……本当に、帰りたいから」
言葉が、どこかで引っかかる。
カリナが眉をひそめたが、突っ込まない。
アンナベルは何も言わない。セラは手元の手紙を握り直す。
リュシアは、何か言うべきか迷って、やめた。
今の自分の言葉は、たぶん役に立たない。
ミレイユが無理に明るく言った。
「家帰って美味しいもの食べたらさ、スッキリするって!」
「……うん」
リディは頷いた。頷いたけれど、視線がどこにも止まらない。
部屋の空気が少しだけ冷えた。
でも、それを壊れたとは誰も思わなかった。訓練所で学んだのは、空気が一度冷えるくらいで全部が終わらない、ということでもある。
消灯の合図が鳴る。
荷物はそのまま、会話もそのまま、灯りだけが落ちた。
闇の中で、カリナが小さく言った。
「……明日、寝坊すんなよ。帰るやつ」
誰に向けたか分からない声だった。
けれど、リディの返事だけは、少し遅れて返ってきた。
「……うん」
返事は短い。
短すぎてなぜか部屋中に響いた。
闇が戻っても、リュシアはすぐには眠れなかった。
同室の呼吸の音が、少しずつ揃っていく。
自分の体の内側を、順番に確かめる。
胃は、今日は落ち着いている。
夕食を最後まで食べた。途中で箸を置かなかった。量も、最初の頃より増えている。
吐いていない。
吐き気が消えたわけではないが、波が来ても、飲み込める程度で収まる。
足は痛い。けれど、別の痛さだ。
最初の頃の筋肉の痛みではなく、擦れ続けた皮膚の痛みだ。
触るとざらついて硬くなっているのが分かる。
——前より、踏ん張れる硬さだ。
リュシアは、息を吐いた。
できないは残っている。
ただ、ゼロではなくなった。




