10.座学
講堂は、椅子の脚が床を擦る音と、紙の擦れる音で満ちていた。
前線兵候補の列は体格が揃っていて、座る姿勢まで同じ角度に見える。
対して、魔法騎士候補の列はばらけていた。背丈も、肩幅も、呼吸の落ち着き方も。
最前列の端に、リュシアがいる。
顔色は初日よりはマシになったが、まだ血の気が薄い。包帯を巻いた指先が、机の縁を軽く押さえている。
壇上に上がったのは、教官というより「現場帰り」に見える男だった。四十を越えている。軍服の袖が擦り切れて、肩の縫い目だけがやけに頑丈だ。
「着席。私語禁止」
短い。一瞬で静寂が落ちる。
「今日の座学は“軍の基本”だ。魔法の話はしない。魔獣の話も、最低限だ」
教官は黒板に太い字で書いた。
命令/報告/連絡/連携。
「お前らが戦場で死ぬ理由は、大抵これだ。腕が折れたからでも、魔力が足りないからでもない。伝わらなかったからだ」
教室が静まり返る。誰もが一度は想像できてしまう。
「まず命令。命令は目的じゃない。手順だ。上官は結果に責任を負う。お前らは手順に責任を負う。勝手に目的へ飛ぶな」
リュシアのペンが速く動いた。文字が整っている。筆圧も一定だ。
教官が続ける。
「次に報告。報告は事実から言え。感想は後だ。『大丈夫だと思います』は報告じゃない。『何がどれくらい大丈夫か』を言え」
そこだけ、リュシアのペン先が一瞬止まった。言葉が、体に馴染みすぎていた。
教官は黒板を指で叩く。
「連絡は、関係者全員に同じ情報を同じ順序で渡すこと。連携は、相手の仕事を邪魔しないこと。これができない奴は、どれだけ優秀でも隊の足を引っ張る」
少し間が空いた。
「ここまでで質問は?」
誰も手を上げない。
教官の視線が、魔法騎士候補の一角に止まった。
「フォルティス候補生。今の四つ、要点を言え」
名指しされた瞬間、周囲がわずかにざわめく。リュシアは立ち上がった。足が痛むが、体重移動で隠す。
「はい。命令は手順で、目的に飛ばないです。報告は事実から言います。連絡は関係者全員に同じ情報を同じ順序で渡します。連携は相手の仕事を邪魔しないことです」
簡潔。迷いがない。
教官は頷いただけで、評価はしない。
「座れ」
リュシアが座る。すると後ろの列から、押し殺した笑いが漏れた。
休憩の合図が出て、教室がざわつく。前線兵候補たちが背伸びをし、隣と小声で話し始めた。
その中で、ひときわ目立つ声がした。
「連携は相手の仕事を邪魔しないことです?」
誰かがが面白がって、抑揚のない話し方を真似る。
「『心拍数、平時の一・五倍』とかも言うんだろ? すげぇよなぁ、貴族様は勉強する暇あって」
笑いが広がりかける。悪意というより、手頃なネタを見つけたノリだ。
アンナベルが、机を叩かずに立ち上がった。椅子が少し鳴る。
「やめな」
声は小さい。だが、近い席の空気が止まる。
「本人の前でやるな。面白くない」
「冗談じゃん」
男が肩をすくめる。
もう一度、同じ調子で言いかけた瞬間――教官の声が落ちた。
「おい」
怒鳴っていない。だから余計に、教室の奥まで通る。
休憩のざわめきが、針で刺したみたいに消える。
教官はゆっくり歩いて、真似をした男の机の前に立った。
「今のは何だ」
男が口を開けたまま固まる。
「……冗談、です」
「冗談で隊は動かない」
教官は淡々と言った。
「口真似で笑いを取る暇があるなら、装備名称を覚えろ。……次に同じことをしたら、連帯で罰走だ」
男の顔色が変わった。周りも一斉に息を飲む。
教官は視線を動かし、教室全体に落とす。
「お前一人の冗談で、全員が走る。――それが分かったうえでやるなら、もう一度やってみろ」
沈黙が答えだった。
教官は一拍置いて、アンナベルへ視線を移した。ただ、理解している目。
「席に戻れ。休憩終わり」
アンナベルは「はい」とだけ言って座った。
リュシアの足の痛みがじわりと増した。靴の中が熱い。
カリナが横から小声で言う。
「休憩終わったら巻くぞ。走れなくなる方が面倒だろ」
「……はい」
リュシアは頷いた。返事は短い。
教官が黒板の前に戻る。
「後半は、魔獣の基礎だ。細かい分類は現場で死ぬほど叩き込む。今日は“逃げる判断”と“守る範囲”だけ覚えろ」
チョークが鳴る。
リュシアはペンを握り直した。足は痛い。体力は最下位に近い。けれど、やるべきことは増える一方だ。
その増え方だけが、妙に安心できた。
教室を出た瞬間、身体が先に現実を思い出した。廊下の冷えた空気、砂と汗の匂い。痛みが、頭の奥まで引き戻してくる。
「集合! 外!」
号令ひとつで、訓練生が動く。午後は走る。結局、それだ。
列の端で足を出す。脚は重い。息は浅い。それでも午前中の一問一答が、背中の芯だけ残している。
――答えられた。
それだけで、折れきっていない。
隊列走が始まり、呼吸が乱れ、視界が狭くなる。リュシアは返事を短くして、余計なことを言わず、足だけを動かした。
休憩の合図で止まったとき、ミレイユが息を切らして笑った。笑い方が、泣きそうだった。
「ねえ、今日さ……ちょっとだけ、希望あったよね」
アンナベルが水筒を渡しながら言う。
「希望じゃない。現実。フォルティスは座学で点が取れる。――この部屋はゼロじゃない」
言い方が現実的すぎて、逆に安心する。
カリナは水を一口飲んで、短く言った。
「午後も走るけどな」
潰す言い方なのに、口調がいつもより丸い。
夕方。女子棟へ戻る道すがら、リュシアは歩幅を少しだけ落とした。身体じゃない。頭の方が止まりたがる。
整理したい。要点を紙に落として、曖昧を潰しておきたい。――その癖は、いまの生活では贅沢に見える。
部屋に入ると、布の匂いがした。洗い切れていない匂いと、荷物の匂い。狭い空気。ベッドが六つ。
ミレイユが先に声を上げる。
「ねえフォルティス! さっきのやつ、ちょっと教えて! 途中から訳わかんなくなった!」
聞かれたから答える。それで笑われた記憶が、喉の奥をかすめた。
アンナベルが先回りする。
「遠慮するな。助かる」
カリナも布を投げながら言った。
「変に気取るなよ。あんたが喋った方が早い」
セラが小さく頷く。
「……私も、聞きたいです」
リディは黙っていた。荷物を畳む手だけが、さっきより少し速い。きれいに揃えようとして、何度も角がずれる。
リュシアは机の端に紙を広げた。ペンを置いて、短く言う。
「ねえ、フォルティス。今日のとこ、もう一回だけ。あたし途中から訳わかんなくなった!」
ミレイユが言いながら、椅子を引く。
リュシアは頷いて、教本のページを押さえた。
「要点だけです。……まず、命令は何をいつまでに誰がです」
「おぉ……」
アンナベルが素直に唸り、セラが小さく頷く。
「行けだけだと、行った先で迷うから。報告の型も同じです。結論から。事実と推測は分けます」
「結論から、ね……」
ミレイユが鉛筆を走らせながら、急に顔を上げた。
「ていうか、フォルティス、なんなの。いきなり喋るじゃん!」
リュシアは首を傾げる。
「喋れます。必要なら」
「結構喋るよね、フォルティス」
セラが嬉しそうに言うのをカリナが呆れたように見た。
「なんでお前は嬉しそうなんだよ…」
ミレイユが笑って、すぐ口元を押さえる。笑い声を大きくすると怒られる――身体がもう覚えている。
その隙間に、リディが小さく言った。
「……私、覚えるの遅いから。もう一回、あとでいい?」
声が弱い。ミレイユが一瞬黙り、アンナベルが目線を落とした。
リュシアはリディを見る。励ましの言葉が、ちょうどいい形で出てこない。
代わりに、事務的な提案を出す。
「紙にまとめます。明日、配れます」
リディが一瞬だけ驚いた顔をして、それから頷いた。
「……うん。ありがとう」
その一言で、部屋の空気がほんの少しだけ温まった。
夜。消灯。
廊下は相変わらずうるさく、遠くで水桶の音がする。眠りは浅い。
それでも今日は、昨日ほど底ではない。
ミレイユが寝返りの合間に、ぽつりと言った。
「明日も……座学、あるんだよね」
「ある」
アンナベルが短く答える。
「じゃあ、いける気がする。ちょっとだけ」
そのちょっとだけが、いまは大事だった。
リュシアは目を閉じて、呼吸を整えた。今日の要点が、頭の中で勝手に並び直される。
走れなくても、吐いても、眠れなくても。
全部がゼロじゃない。
その事実だけを抱えて、翌朝へ落ちていった。




