1.公爵令嬢、婚約者に気味が悪いと言われる
「いい加減にしてくれ! 気味が悪いんだよ!」
その言葉が落ちた瞬間、サロンの空気が、音を立てて割れた。
ティーカップを持ちあげかけていた貴婦人の指が止まり、窓の外で鳴いていた小鳥の声さえ、どこか遠くなった気がする。
王子の椅子は半歩、前に出たまま。
握りしめた手の甲には白く血管が浮き、肩はわずかに震えている。
リュシアは、真正面からその言葉を受け止めていた。
貼り付けたような笑み。
口角は、教本どおりの角度を保ったまま。
瞳の色も、光も、ひとつも揺れていない。
ただ、背筋だけが、規範通りに伸びている。
静かに、礼をした。
腰の角度も、手の位置も、完璧なままの一礼。
「……ご不快にさせてしまい、申し訳ございません、殿下」
声は穏やかで、抑揚に乱れはない。
謝罪の文句も、欠けているところはない。
それきり。
リュシアは顔を上げたが、その笑みは一ミリも動かなかった。
王妃も、側に控える貴婦人たちも、何も言わない。
誰かが咳払いをしようとして、それすら飲み込む。
サロンを満たすのは、人の気配だけだ。
誰も動かない。
誰もカップに手を伸ばさない。
「……戻れ」
沈黙に耐えきれず、最初に口を開いたのは王子だった。
「今日はもういい。お前は下がれ、フォルティス」
後悔が喉につかえている。
さっき吐き出した言葉の棘が、自分の胸の内側を引っかき続けている。
言葉がまずい。場所もわきまえていない。母や沢山の臣下の前で、婚約者に言うべき事ではない。
それでも、「違う」と言い直す言葉は出てこなかった。
リュシアは、王子の命を聞き届けたことを示すように、もう一度だけ浅く頭を下げる。
「かしこまりました」
その顔には、怒りも、悲しみも、羞恥も浮かんでいない。
浮かんでいないように見える。
笑顔はそのまま。眉も、睫毛も、頬も、ぴくりとも動かない。
仮面のように整った微笑のまま、彼女は一歩、後ろへ下がる。
スカートの裾が床をかすめる音だけが、かすかに響いた。
誰も目を合わせない。
誰も視線を送らない。
それでも、全員が彼女の動きを追っている。
リュシアはくるりと身を翻し、扉へ向かう。
背筋は最後までまっすぐで、足取りも乱れない。
ノブに触れる指先も、微かに震えたりはしない。
扉が静かに開き、静かに閉じる。
そのあいだじゅう、彼女の笑みは、一度も崩れなかった。
扉の閉まる音が、やけに大きく響いた気がした。
残されたサロンには、冷めかけた茶の香りと、誰も動こうとしない椅子の軋みと、王子の喉の奥で行き場を失った言葉だけが、重く沈んでいた。
外からは、遠く衛兵の足音が聞こえてくる。
それさえも、厚い壁に遮られて、ぼんやりとした振動にしかならない。
誰かがようやく息を吐くまで、
誰も、カップに手を伸ばさなかった。




