【エッセイ短編】強者・弱者という呼び名の件について
いつからなのか、強者と弱者と人間は呼ばれるようになりましたね。
最近この件について考えました。健康の強者弱者。経済の強者弱者。能力の強者弱者。色々な分野別で強者と弱者が存在しますね。
発端は、時間に追われて自分の体のこととそろそろお金なんとかしなくちゃと思っているのに介護と家事でなかなか時間が取れないこと。時間は作れますけど、結局自分の時間軸でなくて他人の時間軸で動くと無駄な時間ばかりなんです。小説を書くにも少し時間が空くと前回どんな感じだっけ?どこまで書いたっけ?と読み返しが必要になるんです。読み返している間にもう買い物行かなくちゃとか洗濯物終わなくちゃとか、片付けしなくちゃとか、リパビリしなくちゃとか『買い物連れてって〜』とかが迫ってくるんです。
そんな中、『あれやって』『これやって』があるのが非常に腹立ったのです。それって、自分でできるよね?って話なんです。自分でできることも人にやってもらうと嬉しいのはわかります。でも、そんなことバッっかり付きっきりでできる時間ないんです。
ですが、それを断ると、面倒を見てない、放棄している、虐待だ。そうなる環境なわけですよ。言われてないけど周囲はそう見るわけです(という思い込みが少し。ニュース見てると少々疑いたくなることばかりですよ)
自分でやれって言ってできなくはないけど大変なのはわかりますでもそれもリハビリです。甘えは行き過ぎると双方に良くないんです。使い方合ってるか知りませんけど情けは人の為にならずです。この言葉を言った張本人の意図は結局はわかりませんが!
強者が優れている、弱者が劣っている。そういう認識をしている人もいるかもしれません、実際は同じ人間でできること出来ないこと、得意不得意があるだけ。それが今の時代にマッチする人としない人がいるだけ。それだけなんです。
私のいう強者弱者は、自分の環境に置き換えて話すと結局は介護とかお金の件になってしまします。
あ、そうですね。私は無収入ですので経済面では圧倒的な弱者ですね。しかし、幸運なことに、もう何年も無収入ではありますが、貯金はまだあるんです。さぁ、貯蓄がある場合、私と同じ年で子供がいて貯金額が少ない人と私のように貯蓄がたまたままだなんとなくある人間では、私が強者になるのでしょうか?
物事は全部、”できる人”だけがずっと負担を負うとやはり心の中で何かが落ち着かないんです。もちろん、出来ない人がいて、大変で助けて欲しくて困ってるんだから、助けたり手を貸すのは当たり前と思ってませんか?
でも、それって、その人のために本当にしてあげたいって人以外の人を助ける時って、自分の時間を使ってるんですよ。すごく酷い言い方ですけど、自分の大事な時間を使ってるんだから正直面倒だったりすることあるんです。
自分の身支度だけして出かけるのと、自分の子供の支度までしてあげるのと、見ず知らずの人を助ける乗って全部違うんです。自分のために自分が頑張って自分を綺麗に仕上げるのはきっと楽しいでしょ。子供も、自分が好きで産んだ子供なら楽しいでしょう。小さい時ならどんな服を来させようかとか、これで子供は暑くないか寒くないか?など考えながら可愛く仕上げるのは楽しいでしょ。ですが、いくら大変で困っていようと、見ず知らずの人を助けるのって面倒ですよね。
だって、大変かな?って思って手を差し伸べたって嫌がられたらそもそも話しかけるのにすら自分の時間を割いているのに、放っておけば冷たい人だと周囲から思われたり言われる。手を差し伸べたのに『要らない』とつっけんどんにされる。
良いことないんです。でも、見て見ぬふりをすると人としてどうだろうと考えるようなこの国。だからこそ、正直心に傷を負うことを前提に話しかけてるんです。もちろん、気にしないという考え方の方もいると思います。しかし、葛藤して葛藤して助ける、助けないの選択肢を取る人がいるんです。
では、なぜ自分だって大変なのに、自分の時間を使ってまで人を助けないといけないのか?
出来ないから、出来ないから放っておいて良いのか。
仕方ないとも思うけど、それは冷たい、酷いとも自分で両方思う。
だから人は名前をつけて区分したのではないでしょうか。
強者と弱者と。
自分がある分社で弱者なら助けてもらう。ある分野で強者なら弱者を助ける。これがそれなりにバランスがとれてると、本当は良いのでしょうが、これは今の世の中の風潮なのかシステムゆえなのかわかりませんが、弱者は多方面においても弱者である場合が多く、強者は色んな場面において強者なんです。
強者って大変なんです。強いんだから良いでしょ?じゃないんですよ。
だから、弱者と名前をつけたのは、人を助けたり気にかけることに対してあまり考えすぎずに行動をするためにあえてつけられた、強者の心の救済処置が弱者という命名だったのではないだろうか。
そうしたら、私が強者か弱者がわからないけど、自分よりも出来ない人がいるのならば、やらなければ。と思わざるを得ないわけです。でも強者だから。とナルシスト的な自己肯定感にすれば、少しは浮かばれるかもしれません。
そう、私は強いんだ。すごい人間だ。そう思って、今日も自分で手一杯の私はこうして無理やり時間を作っては文章を書き、この後は父を気分転換に外に連れ出そうかと考えたり、趣味のない祖母が何か楽しめることはないかと色々考えるのです。
弱者は蔑むための言葉ではない。勝手に人を助ける義務を背負わされた”強者”と思われている人のための言葉だ。




