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濡れ髪の底【夏のホラー2025】

作者: 江渡由太郎

【濡れ髪の底】ーーーーーーーーーーーーーーーーー


 八月の夜。昼間の熱気がまだ残る中、久しぶりに帰省した美沙は、両親が旅行で留守の実家で一人、風呂を沸かしていた。

 築四十年の木造住宅は湿気をよく吸い込み、廊下や柱は長年の汗のような匂いを帯びている。風呂場は特に古く、タイルの目地には黒いカビが染みつき、換気扇の奥からはカビと排水の混じった甘く腐った臭いが漂っていた。


 昼間、この家に着いたときから、美沙は少し胸の奥がざわついていた。

 風呂場の天井の隅に広がる黒いシミ――それが視界に入るたび、何ともいえない嫌悪感と、喉の奥にこみあげる吐き気があったのだ。

 思えば、子供の頃からこのシミはあった。だが、こんなに大きく、不気味な形をしていただろうか。丸でも四角でもない、妙に歪んだ形。どこか、人の顔の輪郭に似ている。



 湯加減を確かめ、服を脱ぎ、ゆっくりと浴槽へ足を入れる。ぬるめの湯が肌を包み、緊張が解ける――はずだった。

 だが、その瞬間、脚の甲にぬるりとした感触が走った。藻のように滑り、そして重い。


「……髪?」


 視線を落とすと、湯の表面に黒く濡れた長い髪がふわりと浮かび上がってきた。

 排水口から流れ込んだのかと思ったが、次の瞬間、髪は自らの意思を持つように脚に絡みついた。ゆっくりと、だが確実に締め付ける。

 その生臭く湿った感触に、美沙は思わず身をよじったが、髪は湯の底へと引きずるように伸びていく。


「いや……っ!」


 浴槽の底を覗き込むと、透明だった湯は濃い墨汁のように黒く濁り始めていた。

 やがて、底の暗がりから何かが押し上がるように浮かび上がってくる。白い、細い――骨だった。

 それは人間の手首の骨で、指先にはまだ爪の残骸がついていた。骨は髪に絡まりながら、美沙の脛をなぞり、そのまま彼女の足首を握った。


 同時に、耳元で湿った声が囁く。


「……かえして」




 美沙は浴槽から飛び出そうと立ち上がるが、天井のシミがじわりと広がり、そこから黒い水がぽたり、ぽたりと落ちてくる。それは湯の表面に落ちると、まるで生き物のように広がり、美沙の腕や肩にまとわりついた。

 悪臭が鼻腔を突き、吐き気がこみ上げる。排水口からも黒い水が逆流し、浴槽の縁まであっという間に満たしていく。


 ドアへと駆け寄るが、ノブは固く動かない。外側から鍵がかかっているかのようだった。

 背後で、湯の中からずるりと音がする。振り返ると、黒い髪の束の向こうに、白く膨れた女の顔が浮かんでいた。

 目は濁り、唇は裂け、歯は黄ばんでねじれている。

 その口が、水の中でゆっくり開き――


「……かえせ……わたしの……」




 その声が頭の奥を揺らすたび、記憶の底に沈んでいた光景がじわりと浮かんできた。

 ――小学校低学年の頃。夕方、風呂場の前を通りかかった美沙は、見てしまった。祖母が慌てた様子で浴室の床を雑巾で拭き取っている。その雑巾は赤黒く染まり、金属の匂いがしていた。

 祖母の後ろには、見知らぬ女の裸の足が伸びていた。

 髪は長く、濡れたまま顔にかかっていた。

 その女は目を開けていたが、どこも見ていなかった。


 数日後、美沙が何気なく祖母に尋ねたとき、「あれはお父さんの昔の知り合いが倒れてただけよ」と笑ってごまかされた。

 だが近所では、その女がこの家で働いていた家政婦で、祖父と関係を持った挙句に溺死した――という噂が流れていた。

 彼女が死んだ後、この風呂場の天井にシミが現れたのだという。




 美沙は必死にドアを叩きながら叫んだが、外の気配はない。

 女の顔は水中からゆらゆらと近づき、その濁った目が真正面から美沙を捕らえる。

 冷たい手が肩を掴むたび、身体の力が抜けていく。耳の奥で声が繰り返される。


「……かえせ……」


 その意味が、急に理解できた。

 “返せ”とは――祖母が処分したあの女の形見、銀の髪留めのことだ。

 祖母は「不用だから捨てた」と言ったが、美沙は子供心に、それをこっそり押し入れの奥に隠していた。

 そのまま忘れていたが、今日、部屋を掃除したとき、ふと見つけて引き出しの上に置いたのだ。

 それが、呼び寄せたのか。




 美沙は必死に髪を払いのけ、湯面から顔を出そうとした。しかし、黒い水は重く、冷たく、全身に絡みつく髪が動きを封じた。

 女の唇が耳に触れ、腐った舌が頬をなぞる。

 そして、骨ばった指が喉を締め付けた瞬間、肺に残っていた空気が泡となって逃げた。


 視界が暗くなり、音が遠ざかる。

 最後に見えたのは、女の濁った目が至近距離からこちらを覗き込む光景だった。




 翌朝、旅行から帰った両親は、風呂場に半分ほど溜まった黒い水と、無数の長い髪を見つけた。

 美沙の姿はなかった。

 警察の捜索でも彼女は見つからず、事件は行方不明として処理された。


 しかし、それからというもの、この家の風呂に湯を張ると、必ず底から髪が浮かび上がる。

 そして、天井の黒いシミは日に日に濃くなり、今では女の顔の輪郭がはっきりと見えるようになった。

 その口元は、笑っているようにも、次の犠牲者を呼んでいるようにも見える。




 美沙が行方不明になって三か月後。

 彼女の母・由紀子は、ようやく風呂場に足を踏み入れられるようになった。

 けれど浴槽は空のまま、使われることはない。天井の黒いシミは一層濃くなり、見上げるたび、胸の奥をつかまれるような嫌悪感と恐怖が湧いた。


 その日、玄関のチャイムが鳴った。

 立っていたのは、記者を名乗る若い男・佐伯翔だった。週刊誌の心霊特集を担当しているという。

 翔は、町に古くから伝わる「濡れ髪女」の噂を調べているうち、この家の名前に行き着いたらしい。


「この風呂場で……過去にも行方不明者が出ていますよね?」


 由紀子は答えを避けたが、翔の表情は真剣だった。




 翔は古びた新聞の切り抜きを差し出した。

 そこには、二十年前の日付と共に、白黒の写真が載っていた。

 若い女性――長い黒髪を持つ家政婦、坂井静香(当時二十五歳)が、この家の浴室で溺死したという記事だった。

 記事には、事故として処理されたが、遺体には浴槽の水では説明できないほど大量の髪の毛が口腔内に詰まっていたと書かれていた


「お母さん……この人を、覚えてますか?」


 由紀子は震える手で写真を見つめ、かすかに首を振った。だが視線は落ち着かず、翔は確信した――彼女は何かを知っている。




 翔は取材のため、浴室を見せてほしいと頼んだ。

 由紀子は迷ったが、翔の「このまま放置すれば、また犠牲者が出る」という言葉に押され、渋々了承した。

 湯を張るため蛇口をひねると、まず赤錆まじりの濁った水が勢いよく飛び出し、そのあと普通の湯が流れ始めた。

 翔は録音機とカメラを回しながら、浴槽が満たされていくのを見つめる。


 やがて――底から、一本の黒い髪が浮かび上がった。

 髪はゆらゆらと揺れながら、やがて数本、数十本へと増え、湯面に黒い渦を作る。

 翔はシャッターを切ろうと身を乗り出した。


 その瞬間、髪が一斉に翔の手首に絡みついた。




 由紀子が悲鳴を上げる。

 髪は生き物のように締め上げ、翔を湯の中へ引きずり込もうとする。

 翔は必死にもがくが、湯の底から白く膨れた手が伸び、彼の足首を掴んだ。


「……かえせ……」


 湯の中から、くぐもった声が響く。

 翔は水を飲み込みながら、視界の端に――女の顔を見た。

 濁った目、裂けた唇、そして口いっぱいに詰まった黒い髪。


 カメラが手から滑り落ち、湯の底に沈む。

 翔の意識も、黒い水の中で溶けていった。




 その晩、由紀子が警察に通報したとき、浴槽には半分ほどの黒い水と無数の髪が漂っていただけだった。

 翔の姿はなかった。

 カメラだけが、濡れたまま洗面所に転がっていた。

 再生された映像には、翔が浴槽を覗き込む姿、その後カメラが湯の中へ落ちる直前、天井から逆さまの女の顔が覗き込む一瞬が映っていた。




 翌朝、由紀子は意を決して娘の押し入れを開けた。

 そこには、かつて娘の美沙がしまっていた銀の髪留めがあった。

 濡れたように艶めき、冷たく光っている。

 触れた瞬間、背後で水滴が落ちる音がした。

 振り返ると、廊下の端まで濡れた足跡が続いている。


 ――返さなければならない。

 でも、どうやって? そして、どこへ?




 その夜、由紀子は髪留めを持って浴室に入った。

 湯を張ると、髪はすぐに現れた。

 由紀子は震える手で髪留めを湯に沈めた。

 すると、底から女の顔が浮かび上がり、髪留めを飲み込むように抱えた。

 女は一瞬、穏やかな表情を見せた――が、その口が再び開いた。


「……まだ……たりない……」


 次の瞬間、黒い水が激しく渦巻き、由紀子の足を掴んだ。




 翌日、由紀子は再び警察の事情聴取を受けた。だが翔の失踪は美沙のときと同じく「捜索中」のまま進展はない。

 彼女の脳裏には、髪留めを飲み込んだ女の「まだ足りない」という言葉がこびりついて離れない。

 その夜、恐怖に耐えきれず、翔が残したカメラのSDカードをパソコンに差し込んだ。


 映像は浴槽を中心に、何度も拡大されていた。

 水面に映るのは髪だけではない。何か白く細長い――人間の肋骨のようなものが、髪の奥に沈んでいるのが見えた。

 そして最後の数秒、カメラが湯の底へ沈む直前、レンズ越しに翔の顔が一瞬だけ青白く光り、次に現れたのは……自分の娘、美沙だった。

 美沙の目は完全に濁り、唇から黒い髪がだらりと垂れていた。




 翌日、由紀子は覚悟を決め、町の古老・松永を訪ねた。

 松永は、この家が建つ前の土地のことをよく知っている人物だ。


「あんたん家の裏手な……昔は湧水があってな。そこに坂井静香って家政婦が住んどった。真面目な娘やったが、あの家の主に気に入られてしまって……奥方に、憎まれてのぅ」


 松永は、静香が奥方によって風呂場に閉じ込められ、熱湯を張られた浴槽で長時間責められた末に溺死したと語った。

 死体は「事故」として処理され、奥方はしばらくして行方をくらましたという。

 ただし、その湯は真水ではなく、井戸水に髪を切り落として満たし、呪詛を唱えながら煮立てられていたという話が、村の古い噂として残っていた。


「髪はな、魂を縛るもんや。切ったもんを水に浸せば、その人間は永遠にそこに留まる……」




 由紀子は、その晩ふと気づいた。

 女が「まだ足りない」と言ったのは、髪留めだけではなく、奪われた他の“もの”があるからではないか。

 美沙や翔が消えたのは、静香の魂を満たすため――あるいは、新たな供物として髪と骨を差し出すためだと。


 そして、自分もまた次の“足し”にされるのだと、直感的に理解した。




 逃げることも考えたが、土地そのものが呪われているなら無駄だ。

 由紀子は古老から教わった「封じ」の儀式を試すことにした。

 必要なのは、静香が生前使っていた櫛と、彼女の遺髪――それを焼いて灰にし、風呂場の四隅に埋める。


 櫛を探すため、家中をひっくり返すように探した末、台所の梁の上に古びた木箱を見つけた。

 中には、べったりと黒い油のようなものにまみれた櫛と、まだ湿ったように艶を放つ束の髪が入っていた。


 触れた瞬間、髪が指に絡みつき、ぬるりと脈打つ感触が走った。

 由紀子は悲鳴を飲み込み、そのまま髪を袋に押し込み、庭で火をつけた。




 だが、燃やすと同時に、家中の水道から黒い水があふれ出した。

 浴室の扉がバタンと開き、中から轟々と湯気が溢れる。

 由紀子は袋を持ったまま後ずさりしたが、廊下の両端から水が押し寄せ、逃げ場を塞いだ。


 水面から、白く膨れた顔がいくつも浮かび上がる――美沙、翔、そして見知らぬ男女。

 全員の口から黒い髪が垂れ下がり、目は何も映さない虚ろな白。


「……みんな……足りない……」


 その声と共に、由紀子の足首が冷たく締め上げられる。




 翌朝、近所の主婦が通報したとき、家の玄関は開き放たれ、中は水浸しだった。

 由紀子の姿はなかった。

 ただ、浴槽の縁に置かれたカメラが残っており、その映像には――湯の底から覗く女の顔が、少しずつレンズに近づき、最後に画面いっぱいを黒い髪で覆い尽くす瞬間が映っていた。




 家はすぐに取り壊されたが、解体作業員の一人が作業中に失踪した。

 現場近くの側溝からは、切り揃えられた黒髪の束がいくつも見つかった。

 その髪は全て、水を含んだように冷たく、異臭を放っていた。


 噂では、あの黒い水は地下水脈を伝って町中に広がっているという。

 事実、あれから数年、近隣で原因不明の溺死や失踪が相次いでいる。

 現場には必ず――濡れた黒髪が一房、残されている。




#短編ホラー小説

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