【第十九話】残照
【前回のあらすじ】
次の日遮楽がギドと共に出掛けていると、またしてもクローヴィスが姿を現した。懲りずに対話を試みようとする彼だったが、遮楽は前回同様相手にもせず一蹴。だが後日、偵察に訪れた町で、クローヴィスが自分達を討伐から庇っていたという噂を耳にする。明らかに異質な彼の存在は、遮楽の中に決して無視できない爪痕を残していく。
甲高い、悲鳴のような鳴き声が辺り一帯に反響した。
どさりと音を立てて倒れたのは、一体の鹿である。細く優美な曲線を描く健脚は、もはやピクリとも動かず、澄んだ瞳にも光は宿っていない。
遮楽は亡骸と化したそれを、無表情に見下ろしていた。片手に握る剣を一振りし、付着した鮮血を払う。命を手に掛けた感慨など、そこには存在しなかった。
彼がこうして野生の獣や魔物を狩るのは珍しい事ではなく、むしろルーティンワークの一つであった。この日赴いていたのは、とある山岳地帯である。
……すると彼の耳に、荒々しい息遣いのような音が届いた。
振り向くと、一体の猪が遮楽を見て足を踏み鳴らしていた。赤茶けた剛毛を逆立て、牙を剥きだし、明らかに興奮している。血の匂いに誘われたか、あるいは縄張りに踏み入っていたのかもしれない。
「ほォ。獲物の方から来やがるたァ楽で良いぜ」
だがそこで動じないのが遮楽である。次の瞬間狂ったように突進してきた猪に対し、冷静に身を捻りながら剣面を走らせた。鉄の切っ先が分厚い毛皮を裂き、咆哮が上がる。それでもなお怯むことなく、後ろ足に力を込めると、再度猛然と飛び掛かる猪。
「しぶてェ奴だ」
低く口にした遮楽は左手で剣を構えると、正面から受け止めた。狂暴な牙と頑丈な刃が噛み合い、拮抗。その瞬間、右手が素早く動く。腰のベルトから、即座にナイフが引き抜かれた。
間髪入れず、それを首に突き立てる。根元まで深々と刃が入り、隙間風のように洩れる濁った呼吸音。剣を押し返そうと踏ん張っていた猪の全身から、急速に力が抜けていく。
――そしてナイフが引き抜かれたその時には、既に息絶えていた。
「これで二つ、か」
まるで何事も無かったかのように呟いた遮楽はしゃがみ込むと、先程のナイフを使い、手慣れた様子で血抜きと解体の作業を始めた。半刻ほど経ち、持ち運びやすい大きさに切り分けたその肉塊を、麻布を重ねて作った袋へと入れ、口を縛る。
「ふう……ま、こんなモンだな」
腕で額の汗を拭い、遮楽は立ち上がった。そして、ちょうどすぐ近くの岩場に流れていた細い沢水で、血に汚れた手とナイフ、そして鉄剣を濯ぐ。袋を持ち上げればズシリと重みが伝わり、彼の口元には知らず知らずのうちに満足げな笑みが浮かんでいた。
獣の仕留め方も、その後の処理も、別段誰かに教わった訳ではない。ただ生き抜くため、日々を繋ぐために、繰り返す中で自然と身に付いた技能である。
「もう一体ぐれェなら、いけるか……」
袋の重みと自身の疲労、そして帰りの道のりを天秤にかけつつ、遮楽は獲物を探して歩く。
すると小さな鳴き声を耳ざとく聞きつけ、素早く顔を向けた。見れば少し離れた木の上で、山鳥が羽を休めている。ただ直接仕留めるにはあまりにも遠い距離である。
「…………」
遮楽の手が背中に伸びた。一応こんな時のために、矢筒と弓も持ってきていたのである。しかし表情はどこか浮かない。剣などの近接武器とは違い、飛び道具は不得手なのだ。狙う感覚も間合いも、いまだ慣れない。だが、獲物を前にみすみす引き下がる訳にもいかない。
矢を一本取り出し、弓につがえ、力を込め引き絞る。片目を閉じて狙いを定め……発射。放たれた矢は空を裂き、一直線に飛んでいく。
ところが――ここはやはり、と言うべきか――矢は狙いを斜め下に外れ、山鳥が止まっていた枝近くの幹に突き刺さった。驚いた山鳥があっという間に飛び去っていく。後に残ったのは、虚しい余韻のみ。
「……チッ……相変わらず肌に合わねェなァ……」
頭を掻きつつぼやいた遮楽は、弓と矢筒を背に戻し、諦めて木の元へと向かった。獲物はもういないが、矢を回収しなければならない。たった一本と言えど、無駄にはできない貴重な資源である。
「ギドの奴も連れて来りゃ良かったか。アイツなら一発で上手く仕留めるんだろうな」
今更口にしても詮無い事を独りごちつつ、刺さった矢へと手を伸ばす。
「……ん?」
その時彼は、ある違和感を覚えた。
微かに感じ取ったのは匂いである。湿った土とも、むっと鼻をつく血生臭さとも違う、僅かに苦みを帯びた複雑な芳香。それに全く覚えが無いという訳でもない。これは……煙草だろうか。
咄嗟に、周囲へ視線を走らせる。そして立ち並ぶ木の向こう――ある岩の一つに腰掛けている、一人の人影を見つけた。
ハーフアップの黒髪を風になびかせ、紙巻き煙草を呑気にくゆらせている白いローブ姿の男。立ち上る紫煙が、ゆっくりと空中に解けては消えていく。
遮楽の目が細くなる。それは間違いなく“あの男”であった。
「……野郎、またか。なんで居やがるんだこんな所に……」
もう会う事は無いと思っていたのだが。しかし彼は、こちらに一切気付いていない様子である。姿を察知されていないのであれば話が早い。このまま立ち去ってしまえば、何事もなく――
とそこまで考えて、彼はある一つの可能性に思い当たってしまった。
……もしこれが偶然ではなく、待ち伏せられていたとしたら?
そうであれば、ここで離れたとしても追ってくるだろう。下手をすれば、より面倒な方向へと話が転ぶかもしれない。それを防ぐには――多少煩わしくとも、ここで直接確かめるしかない。
盛大に舌打ちした遮楽は、気配と足音を殺し、彼の座る岩へと歩み寄った。慎重に回り込み、その無防備な背中を真正面に立つ。
「……おい」
そして低く言いながら、彼――クローヴィスの肩に手を掛けた。
「おわぁっ!?」
それだけの動作で、クローヴィスは身を跳ねさせるほど驚いた。弾みで手を離れた煙草は太腿に落下し、布地がジュウと音を立てる。
「ぅあっづぅ!」
思わず立ち上がった事で、草地に転がった煙草。その先端がまだ赤々と燃えている事に気付くと、彼は先程以上の慌てっぷりを見せながら火を踏み消した。そしてあたふたと地面に膝を付き、吸い殻となったそれを拾い上げる。
それからようやく一息つき……はっと思い出したように、背後を振り返った。
「あっ! あぁ~君か!」
「……たった一声でここまで面白おかしく騒げる奴がいたとはな……」
予想を遥かに超えた反応に若干気まずくなる遮楽。そして気を取り直すと、じろりと横目で睨んだ。
「その様子じゃ、待ち伏せてたって訳でもなさそうだな」
きょとんとするクローヴィス。
「え? ……あぁ、私が此処に居る理由かい? 所謂フィールドワークだよ。此処には珍しい魔法植物も自生しているから、その採集と生態調査を……。だがそれも一段落したんで、休憩していたんだ。しかしこんな所で偶然会うとは、やはり君とは不思議な縁が」
「そうか。それなら用は無ェな。あばよ」
話し終わりを待たずさっさと背を向けた遮楽に、彼は本日二度目の慌てた反応を見せる。
「いやちょっ待っ……! そんなに素っ気なくしなくても良いじゃないか。折角会ったんだから世間話でも。ほら一本どうだ? 煙草はお好きかな?」
「……アンタ、お互いの立場分かってんのか?」
思わず半目になりながら遮楽が言う。
そして忌々しそうに息を吐くと、いかにも仕方なくといった様子で半身だけ向けた。それだけでも嬉しそうなクローヴィス。
「君こそ、何故此処に? ……ひょっとして、また誰かを襲うつもりでいるのかい」
「そうだと言ったらどうする。止めてみるか? あ?」
腰の鞘から剣を半分ほど引き出し、凄む遮楽。それに対しクローヴィスは慄きながらも……なんと頷いてみせた。
「その手を汚すと分かっていて、見捨てるなんて出来やしないよ。でも、それをしなければ君達が飢える事だって分かっている。それなら、邪魔した埋め合わせは私がしようじゃないか。金でも食糧でも要求してくれて構わない……それで、どうか手を打って貰えないだろうか?」
「……お人好しも、ここまで来るとただのド阿呆だぜ。よく今の今まで無事に生きてられたモンだな……」
本気で言っているらしい彼に、遮楽はめまいを覚え額を押さえる。そして体を背け言った。
「残念だが今日は違う。毎度都合よくカモがいる訳じゃねェ……盗ったモン売り捌くだけじゃ足りねェよ。ここらは格好の狩場だ。血を抜いて燻せばしばらくは持つ」
言いながら、自身の隣を親指で指し示した。膨らんだ麻袋を見て、クローヴィスは興味深げな声を上げる。
「頭領である君が、自ら食糧の調達を?」
「うるせェな、悪いか」
「いや。立派だと思ってね」
「ハッ、取って付けたような事言いやがる……そういう訳であっしは忙しいんだ。無駄話なんざ御免だぜ」
見切りをつけたと言わんばかりに踵を返す遮楽。
すると何かに気付いたクローヴィスがあっと小さく声を上げ、彼の手を掴んだ。
「君、ちょっと腕を見せてくれ」
「今度は何だ鬱陶しいな」
眉間に皺を寄せながら振り向く。
クローヴィスは遮楽の肘上辺りを注視していた。そこには丸い点が二つ並んだような傷があり、僅かに出血もしている。
「……怪我をしているじゃないか。傷跡からして、スリザーにでも噛まれたんじゃないのか」
図星であった遮楽は忌々しそうに二度目の舌打ちをした。
スリザーとはこの辺りに生息する蛇の魔物である。動きが素早いため、別の魔物の相手をしている隙を突かれ、一噛み浴びてしまったのだ。
「大した事ァ無ェよこんなモン。放っとけ」
「それはいけないよ! スリザーの牙には弱いが毒が有るんだ。解毒して治療しないと炎症を起こす可能性も……」
「余計なお世話だってんだ! この程度の怪我で薬なんざ使えねェよ。人間共は売りやがらねェし、闇市場で仕入れたのは高くて貴重だからな」
掴まれた手を振り解きながら苛立った声で遮楽が言うと、クローヴィスは顎に手を当て、少し考えてから頷いた。
「……成程。そういう事なら、ちょっと待っててくれ」
そしてその場に膝を付くと、道具袋からいくつか取り出す。
薬草、液体の入った小瓶、紙に包まれた粉末状の物質、乾燥させた木の根のようなもの……。
さらにあるガラス瓶の蓋を開けると、ポンという小さな音と共に簡易的な調合器具一式が姿を現した。明らかに体積が釣り合っていないが、瓶に小型化の魔術でも掛かっていたのだろう。
「……何してんだアンタ」
見慣れない道具の数々に目を引かれ、思わず近づくと覗き込んだ遮楽。クローヴィスはてきぱきと慣れた仕草で用意を整えながら答えた。
「有り合わせの素材で治せないかやってみるよ。毒の組成自体は単純なんだ、きっと即席の調合薬でも充分効くさ」
「アンタ……医者だったのか?」
「正確には研究者だ。と言ってもまだまだ駆け出しだがね。主軸とする分野は魔法なんだが、魔法薬の開発も行う関係上、医学も多少は齧っていて……」
そう口にする間にも、着々と作業は進んでいく。乳鉢で薬草をすり潰し、液体や水と混ぜ合わせ、小さな調合壺の中に入れる。それを脚の付いた台座に載せると、数秒後、熱している訳ではないにも関わらずコポコポと静かに沸騰し始めた。彼は細い金属棒でゆっくりとかき混ぜながら、そこへ刻んだ根を足していく。
やがて沸騰が収まると、粉末をひと匙加え、再度かき混ぜる。しばらくそのまま様子を見ていたクローヴィスは、唐突によしと呟くと、金属棒を抜き取り壺の真上へ両手をかざした。集中し、細められた金の目がじっと中を見つめる。
直後、壺の内部から不意に、ぱっと淡い光がほんの一瞬発生。
「……ふう、出来た」
肩の力を抜き、微笑むクローヴィス。その言葉に、つい作業の過程を夢中で見てしまっていた遮楽は我に返る。
クローヴィスはガラス瓶を取り出すと、目の細かい網を乗せ、その上から調合壺の中身を注いだ。不純物が漉し取られ、瓶の中へと落ちていったのは……材料からは想像も出来ないほど、さらりと透き通った黄緑色の液体である。
続いてガーゼを手に取り、液体に浸ける。黄緑の雫が滴るそれを包帯でくるんで、彼は立ち上がった。
「ほら、これならどうだろう。患部に当てて巻くんだ」
差し出された包帯。
「…………」
遮楽は一瞬言われるまま手を伸ばしかけたが、直後若干躊躇する様子を見せた。目の前のそれに対して、決して少なくない警戒の色が浮かんでいる。
クローヴィスもそれに気付き、少々気まずそうに声を上げた。
「し、心配しなくとも変な物は入れていないから……。あ、ええっとそれでは、私がこれを飲んでみるというのはどうかな? 正直味は非常に不味いだろうから、とても気は進まないのだが……」
嫌そうに目を泳がせつつ、今しがた閉めたばかりの小瓶の蓋を開け、おずおずと口元に持っていこうとする彼を見て、遮楽は一つ息をつくと首を振った。
「いや……この期に及んで騙し討ちするような小賢しい奴でもなさそうだ。受け取るとするぜ」
それを聞き、あからさまにホッとした表情を浮かべるクローヴィス。分かりやすいにも程があるその反応を見ても、この男は腹芸には向いていないと遮楽は認識を深める。
「信用して貰えて何より。傷はそこまで深くないようだし、この薬を付けて後は清潔にしていれば数日で完治する筈さ」
自力ではやりにくいだろうから、と腕に包帯を巻いてやり、処置を終えた彼はにこにこと微笑む。
「ガーゼと包帯は、予備もあった方が良いだろう」
重ねて渡されたそれらを受け取りながら、遮楽は複雑な表情で言葉ともつかない曖昧な声を出した。
「ん?」
「いやまァ、何だ……手間ァ掛けさせたな」
「はは、気にすること無いさ。困った時はお互い様と言うだろう?」
笑顔で遮楽を見るクローヴィス。その混じりっ気の無い表情に、若干困ったように目を逸らす。
「時間を取ったね。じゃあ、これで……」
クローヴィスは手を振り、背を向けようとする。
「……待ちな」
そんな彼を、これまでとは真逆に、遮楽の方から引き留めた。
「え?」
きょとんとした顔で振り向く。微風が周囲の木々を揺らした。
「…………」
それからしばらく後。
一度アジトに戻り、再び同じ場所を訪れた遮楽は、別れたときと一寸も変わらない場所で律儀に座っているその男を見て、微妙な顔をした。
「やあ、意外と早かったね」
片手を上げて遮楽を迎えるクローヴィス。
「……どうしたんだい?」
「いや……まさか馬鹿正直に待ってるとはよ」
「何故?」
心底不思議そうな表情で首を傾げ、彼は遮楽を見返す。
「君が此処で待っていろと言ったんだから、待つに決まってるじゃないか」
確かに遮楽は、彼へこの場所で待つよう伝えた。しかし、それにしても。
「アンタなァ……あっしが言うのも何だが、盗賊の言葉だぜ? 騙されてる可能性なんて考えねェのかい」
そう言われたクローヴィスはポカンと口を開けた後、
「成程……それもそうかもしれないな」
と納得したように頷いた。まるで他人事のような素振りである。
遮楽はそれを見て、呆れた溜息と共に白髪を掻く。そしてかねてから手に持っていた物を、彼の胸へ押し付けるようにして少々乱暴に突き出した。
「ほらよ」
「あっ、これは!」
クローヴィスは目を輝かせて受け取る。それは、かつて遮楽が強奪した鞄であった。
「返してくれるのかい!?」
「あァ……だが金目のモンはとっくに大方売っぱらっちまったぜ」
クローヴィスは鞄を開け、中身を改めた。確かにそこにあった宝石、貴金属、コインなどはごっそりと姿を消している。
だが、革の手帳や束になった書類、アンプルに入った魔法薬などは奪われた当時のままで収まっていた。
「構わないさ。研究資料だけでも戻れば……金にならないのに、捨てないでおいてくれたんだね」
「処分するのも面倒だっただけだ」
「結果としては同じさ。どうもありがとう」
「盗賊相手に礼を言う奴があるかい……」
底抜けかと思うほどの人の好さに対し、やや罰が悪そうに声量を小さくする遮楽。
「鞄が取り戻せたんなら用済みだろう。もう関わるんじゃねェぞ」
「そんな。むしろ私はこれが最初の一歩だと思っているのに」
クローヴィスは朗らかに両手を広げた。遮楽はというと、まるで異星人とでも相対するかのような目で彼を見る。
「つくづくトチ狂った奴だな……人間のくせに、あっしらを怖がりもせずヘラヘラしやがってよ」
「はは、変人なんて言われ慣れているよ」
細い眉を下げて笑ったクローヴィスだったが……その後ふと真剣な顔つきになり、言った。
「だが、決してヘラヘラしている訳じゃない。こう見えても、私は本気なんだ」
「はァ? 何が」
思わず聞き返した遮楽。直後会話を続けてしまった事に対し、若干失敗したという表情を見せたが、こうなった以上もう後には引けない。
「私は本気で、人間と獣人と亜人……全ての種族が分け隔てなく、手を取り合える世界を信じている。利用でも支配でもない、ただ対等に、良き友人として」
クローヴィスは目を逸らさず、真摯に口にした。
「一応、自分と違う存在を恐れる気持ちも分かるんだ。だけど、だからって敵と決め付けて迫害するなんて、どう考えてもおかしいじゃないか。違うからこそ、私達はお互いを補い合って、助けられる筈だよ」
その様子を、じっと見つめる遮楽。
だが次に彼の顔へ浮かんだのは、醒め切った冷笑であった。
「ハッ……ある意味大物で感心するぜ。んな歯の浮くようなセリフを、一切笑わずに言えるとはよ」
一度肩を竦ませ、顔を背けると吐き捨てるように言う。
「その理屈が通るってんなら、あっしらはなんでこんな暗がりでコソコソ生きてんだ?」
それは問いかけというよりも、突き付ける一言であった。
「みんな誤解しているんだよ!」
クローヴィスは一歩踏み出すと、首を振り、張り詰めた声で言った。
「恐怖という感情は、多くの場合無知の裏返しなんだ。故にそれは、正しく理解してしまえば消え去る儚い代物……。交流や対話を通じて、きっと乗り越えられる壁だ」
「生ぬるい事抜かしやがって……てめェ如きが何を理解してるってんだ」
唸るように遮楽。その声音は静かなものであったが、明らかに噛み殺した感情が滲んでいた。瞳の奥に僅かな苛立ちと、威圧する重さが宿る。
「この間のギドじゃねェがよ、知ったような事をいけしゃあしゃあと語る奴ァ反吐が出るぜ。碌な痛みも知らねェでぬくぬく育った甘ちゃんがよ……口先だけの理想で変わるんなら苦労しねェってんだ」
それを受け、クローヴィスは一瞬、言葉を探すように浅く息を吸い込んだ。
「た、確かにこれだけじゃ、中身の無い上辺の理想と言われたって仕方無い。実際、私の周りにも賛同者は殆ど居ないし……」
悲しげに目を伏せる。しかしその後顔を上げ、遮楽を真っ直ぐ見据えた彼の瞳には、その揺らぎすら打ち消す光が宿っていた。
「でも、私だって口先だけでこんな事言ってるんじゃないんだよ。いやまぁ、これもまだ実現していないから、机上の空論と言われれば返す言葉も無いが……絶対に実現させると誓っている、夢が有るんだ」
胸の内を見せるように手を広げ、続ける。
「研究者として十分稼げるようになったら、そのお金で土地を買うんだ。なるべく広い土地を。そして、そこに村を作る。それは保護村でね、困っている者なら誰だって受け入れる。差別や迫害から逃れてきた者達は勿論、何らかの理由でまともに生活できなくなった人間も、親を失った子供も。種族や、年齢や、どんな過去にも囚われずにね」
独白にも似たそれは、おそらく自身の内で何度も反芻してきたものなのだろう。その語り口に、一切の迷いや淀みは無かった。穏やかながら、はっきりと熱を帯びた口調。
「君達だって、最初から盗賊になりたかった訳ではないんだろう? でも生きるにはそうする他無かった……。どんな善人であれ、縋れる物が無ければ道を踏み外すしか無いんだ。そんな悲劇を生まない為にも、最後の拠り所となれる場所を作りたいんだよ。それが共存にも繋がる」
ひとしきり話し終え、終わりの点を打つように一つ息をついたクローヴィス。そして改めて遮楽と目を合わせると、フッと切れ長の目尻を緩め微笑んだ。
「……とまぁ長々語ったが、そんな夢もまずは足元から。今は、とにかく仲間が必要なんだ……私一人では、余りにも力不足で。だから、君達と協力関係を作れないか? きっと、何かしらの助けにもなれると思うんだ」
――だが、遮楽の表情は変わらない。まるで不可視の厚い壁が、眼前に建っているかのようであった。それは聞き入れぬ者の頑なさというより、踏み込ませぬ者の警戒である。
「冗談じゃねェ。誰がてめェに助けてくれと頼んだ? 下らんママゴトにあっしらを巻き込むんじゃねェよ。夢だか何だか知らねェが、少しゃ現実見た物言いをしやがれ」
けんもほろろに言って、背を向ける。これ以上煩わしい言説に耳を貸す気は無いと、その背中が主張していた。
「だけどっ……! このままだと君は、いや君達は、ずっと略奪や強盗を繰り返していかなければならないんだろう!?」
しかしそんな後ろ姿を追い、クローヴィスの懸命な言葉が投げかけられる。
「そんな風にひたすら暴力だけで生きていく事は、現実的な手段だって言えるのかい!?」
――ぴく、と遮楽の肩が僅かに動いた。踏み出そうとしていた足が止まる。
「君の腕は、奪う事以外にも使える筈だ。現に今だって、盗賊団の仲間を養う為に動けているじゃないか。前にも言ったが、君の強さは悪事だけに活かされるべきじゃない」
静まり返った森の中、真剣そのものである声だけが、木々にこだましながら鮮明に響いていく。
「過酷な環境に希望を見出し難いのは分かる。だがどうして、違う道をそう頑なに拒むんだ。君の現実は、そんなに閉ざされたものなのか? ……私には、これしか無いと無理に自分へ言い聞かせて、見ようとしていないだけにも思えるよ」
次々と畳み掛けられる問いに、決して責めるような色など無く……むしろ声音には、縋り付くような焦燥感すら滲んでいたのだが。
無言でそれを聞いている、背を向けたままの遮楽。その拳が徐々に握り締められていった。掌に爪が食い込み、力の籠もる腕にはうっすらと血管が浮く。
「……黙ってりゃ良い気になってペラペラと。随分とまァ上から偉そうな講釈垂れやがって」
明らかな怒気を孕む、凄味を帯びた声が発された。
気温が下がる、陽が陰る等の、具体的な変化があった訳ではない。それでも、その場に居合わせたならば、空気の質が変わったと感じられただろう。直後、一陣の風が吹き、揺られた枝がざわりと鳴った。それはまるで彼の放つ静かな激情に慄き、逃げようとしているかのようでもあった。
「知った口を叩くんじゃねェと、何遍言わせりゃァ気が済むってんだ? 所詮悪党。てめェとは端から住む世界が違うんだよ。恵まれて、お気楽能天気に生きてきた奴ほど、軽々しく夢だの希望だの言いやがる……。どん底でもがく連中にとっちゃ、それがどれだけ癪に障るか、まるで考えもしねェでなァ!」
足元の落ち葉を散らしながら振り返った遮楽は、続けざま腰の剣に荒々しく手を掛ける。動きに呼応し剣の鯉口が鳴った。鋭利な針先を思わせる視線は、一切の躊躇も無くクローヴィスを射貫く。
「御託を並べるだけの口なら要らねェ……いい加減黙らせるか、この野郎」
「すっ、すまない、確かに弾みとはいえ少々言葉が過ぎた。気に障ったのなら謝る!」
流石に慌てるクローヴィス。怯えた様子で身を引き、顔の前にかざした腕の向こうから必死な言葉を重ねた。
「だが君だって、慕ってくれてる仲間の命と生活を守りたいのは本心だろう!? さっきまでの狩りだってそうだ。とても義務感や立場だけで渋々やっているようには見えなかった! それなら、こんな刹那的なやり方には限界が有るって……もうとっくに気付いてるんじゃないのかい!? 他に方法が有れば良いと、そう考えた事は、本当に一度も無いのか!?」
「…………」
遮楽の視線が微かに揺れた。ほんの一瞬、呼吸の間が乱れる。
……しかし次の瞬間には再び硬く引き結ばれ、感情の隠れ蓑を取り戻していた。言葉を返す代わりに視線を外し、押し込めた息を吐く。ゆるりと脱力し、剣の柄から外れていく五指。
攻撃的な気配が収まったのを見て、クローヴィスが恐る恐るといった調子で腰の引けた体勢を戻す。表情にはまだどこか恐怖が残るが、それでも慎重に言葉を紡ぐその様子からは、弱々しい見た目や振る舞いにそぐわぬ強い意志が見て取れた。
「君には唯一無二の強さが有る。本来なら、誰とも群れず孤高に生きていけるくらいの。だけどそうはしなかったじゃないか。同じ境遇の者達を受け入れて、面倒を見て……。それは紛れもない君自身の善性だよ。苦境の中、他者の生まで背負って戦える……そんな男が、本当にただの悪党なものか」
そして首を横に振りながら、彼は慈しみに満ちているとも、泣きそうとも取れる声と表情で言った。
「その覚悟が、日々が、報われて欲しいと願うのは……果たして、愚かしい事かな?」
静けさが訪れる。いつしか鳥達の声も、どこか遠くなっていた。
遮楽は、動かなかった。
その眼差しは、遠くに向けられていた。木々が絡まり合い、徐々に鬱蒼とした闇へと沈んでいく向こうに、獣道がうっすらと覗いている。その先で待ち構えるのは、飢えてぎらついた眼と、すっかり嗅ぎ慣れてしまった血の匂い――。
だが時折、風が枝を揺らす。重なり合う葉の間を縫って、木漏れ日が細やかな光の粒を落とす。
少々間を置いた後、彼は一度顔を伏せると、どこか沈み、乾いた声で言った。
「……あっしを何だと思ってんだ。都合良く言いやがって……。その甘っちょろさ、いつか痛ェ目見るぜ。いや……もう何度も見てんのに懲りねェ、筋金入りの馬鹿なのかもしれねェがな」
その様子に、クローヴィスは微かに微笑む。
「それでも今日はこうして、最後まで話を聞いてくれたじゃないか」
「あァ、余計な時間を食ったぜ……。気が済んだか。だったらもう用は無ェんだ、失せな」
「そうだね、ありがとう……あっそうだ!」
そのまま別れるかに思えたが……彼は不意に何か思いついたような声を出し、自分の胸に手を当てながら言った。
「クローヴィスだ。今後とも宜しく頼む」
「あ?」
その言葉に怪訝そうな顔をする遮楽。
「いやそう言えば、こんなに何度も会っているのに教えてなかったと思ってね。クローヴィス……私の名前だ」
「おうそうか。興味無ェな」
「ちょ、ちょっと! こちらが名乗ったのだから君の名前も教えてくれたって良いだろう!?」
一言で切り捨ててさっさと立ち去ろうとする遮楽の背に手を伸ばし、慌てて叫ぶクローヴィス。
「やっとまともに話せたんだ。もっと君の事を知りたいんだよ」
「ったく……」
うんざりした様子で向き直ると、首を掻きながら目も合わせず、遮楽はぼそりと口を開く。
「遮楽だ。満足したらとっとと帰んな」
「あ、ありがとう……! 遮楽だね、覚えておくよ!」
「うるせェな! 帰れっつってんだろうが!」
一喝する遮楽に、晴れやかな表情で手を振るクローヴィス。誰の目から見ても、その光景はちぐはぐであった。
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