【第十二話】見知らぬ夜の夢
【前回のあらすじ】
食事会を終え、宿屋に帰ったみくるは、リーリアやシグレを誘い公共浴場へと赴く。多種多様な浴槽や、異世界ならではの魔法ギミックに興奮しつつ、和やかなガールズトークを楽しんだ。そして談笑の果てに夜も深まり、村全体が寝静まる中、ふと目を覚ます。肌に風を感じ視線を向けると……開けた覚えの無い窓から、夜風が吹き込んでいた。
夜が深まって、風も少し強くなってきたらしい。薄いレースのカーテンを揺らしながら、ほんの少し冷たいそれが肌をするりと通り過ぎていく。
あたしは身を起こすと、ぼーっとその様子を眺めつつ考える。寝る前までは、誰も窓に触ってなかったと思うんだけど……その後に二人のどっちかが起きて、開けたのかなぁ。うーんでも、窓開けないと眠れないほど暑くもないけどなぁ?
いろいろと疑問には思いつつ、ベッドを静かに降りた。風は気持ちいいんだけど、開けっ放しで虫とか入ってきたら嫌だし、とりあえずスクリーンだけでも降ろしておこうかな。
できるだけ足音を立てないように爪先で歩いて、窓枠に手をかける。少し背伸びをして、窓の上にぶら下がったスクリーンの金具をつまんで――
「ん?」
そこであたしは、ふと窓から見える景色に目を凝らした。今……向こうに何かいたような?
家の明かりもすっかり消えた、真っ暗な村。その奥の方で、ぼんやりとだけど、動いている影が見えた。まさかモンスターが村まで入ってくることはないだろうし、野生動物でもいる? いや、でも、あの感じは……人影のように見える。眠れない誰かが散歩でもしてるのかな。
何の気なしに動きを目で追う。その人影はゆっくりと移動して、ふと立ち止まった。そして少しの間その場に留まっていたけれど……
「……!」
突然緑色の光が瞬いて、次の瞬間にはもう、その場所には文字通り影も形もなくなっていた。
な、何だったの今の……!?
突如消えた謎の人影に、正体不明の光。ま、まさか怪奇現象……!? いやゴースト系モンスターがいるくらいだし、むしろ現実世界よりもそれはありえそうな話だけども!
スクリーンの金具から手を放して、じっと考える。
……多分、普段ならぐっすり寝ている時間帯、そしてあたしだけが起きて今の現象を目撃したという、ちょっとした特別感がいたずらをしたんだと思う。
普段なら思いついても実行しないような冒険心が、むくむくと頭をもたげてきた。
(……よし)
すっかり目が覚めてしまったあたしは、心の中で呟いて、再びそぉーっと歩くとブーツを取りに行く。すなわち、気になるならこの目で確かめちゃおうという訳だ。ドアを開けるとどうしても木が軋む音を立てちゃうから……いいや、誰も見てないし、ちょっとお行儀悪いけど窓から出ちゃえ。
窓枠に乗り上げて、慎重に足から降りる。あたし一人くぐり抜ける程度には十分な大きさで、大した苦労もなくすとんと外に出ることができた。目の前には、昼間村の子達が遊んでいた広場が見える。さて、確かこの奥だった気がするんだけど……。
大体のアタリを付けていたところまで歩いてみる。薄い石畳の敷き詰められた道を進むたびに、底が厚く頑丈に作られたブーツがコトン、コトンとこもった音を立てた。虫の声がどこからか聞こえる以外はしーんとしていて、その足音がやけに大きい気がする。
そしてあの光が見えた場所に着いて、周りを見回した。
でも昼間見た通りの景色が映るばかりで、これといって変わったものは見当たらない。地面にしゃがみこんでみても、こういう場合にありがちな、何か落ちてるとかそういうこともない。
「……なんもないかぁ……」
発見を期待していただけに、ちょっと損した気分。まあ、でもそんなもんかも。暗かったし、見間違いとか気のせいって可能性も十分にあるし。
さぁて……だったらこれ以上ここにいたって仕方ないよね。部屋に戻って寝直そうっと。
目を閉じて、んーっと伸びをしながら回れ右をすると、そのまま歩き出した。
ブーツの底が地面を叩く。来た時と同じ、くぐもったかすかな足音がして――
――あれ?
……足音が、しなかった。
それだけじゃない。踏みしめた足裏が、それまでとは違う感触を返してきた。
なんだか妙に柔らかい。爪先が若干沈み込むのが分かる。
え? いや、だって石畳のはずじゃ……
突然すぎる違和感に驚いて、まぶたを開いたあたしの目にまず飛び込んできたのは――幾重にも重なる木の枝、だった。
「……は……へぇ?」
理解が追いつかず、間抜けな声を出しながら周囲を見渡す。
木々があたしを取り囲んでいた。明かりの消えた家も、これから向かう宿屋も、ない。がさがさっと風で枝葉がこすれる音が聞こえた。吸い込む空気に、ちょっと土っぽい匂いが混ざっている。
目を閉じていたのはほんのわずかな時間だったはず。振り返って一歩踏み出す、そんな数秒にも満たない瞬間で……全くの別世界に変わってしまった。
いきなりワープした、そうとしか言いようがない。
「何ここっ……どこぉ!?」
振り返った先で、木の幹に巻き付くように伸びた赤いものが視界に入った。その横には、しおれて、花びらの先がどす黒く変色した花。
つい最近、それを見たことがある。あたしはこの場所を知ってる。やっとこれだけは分かった。
「ここ……アムルーナの森……しかも奥のとこ!?」
まるでそうだとでも言わんばかりに、大きく震えて葉擦れの音を鳴らす枝。いつの間にか風がさらに強くなってきている。
「いやいやいやいや! なんでそんなとこに来てんの!?」
場所が判明したところで混乱しているのには変わりなくて、あたしはぶんぶん首を振りながら立ち上がった。
「しかも一人きりって……! もし今モンスターに襲われたりしたら……ね、ねぇお兄ちゃん!」
つい話しかけようとして、ハッとする。耳に触れた指先に、イヤーカフの感触は無い。そりゃそうだよ、お風呂行くときからずっと外してたんだから!
どっ、どうしよう、もしかしてあたし今、めちゃくちゃピンチ!?
「と、とにかくここを出ないと! 何とかして村に帰んなきゃ……!」
幸い月明かりのおかげで視界は悪くはない。とはいえ、どっちが出口なのかもよく分からないし、闇雲に歩いていいものかどうか……!
そして、周囲を見回していたあたしはぎくっと動きを止めた。
見てしまったんだ。枝葉の重なった向こう側、暗闇の中でうごめくもの……。
「はっ……!」
どくりと心臓が跳ねた。ぬるりと音もなく姿を現したのは……あのアメーバみたいな不定形のモンスター。
ゆらゆらと動きながら近付いてくる。恐れていたことが早くも現実になってしまった。に、逃げないと……!
慌てて踵を返した直後、あたしはその足に急ブレーキをかける。
……いる。逃げようとした進路の先、更に二体のアメーバがうごめいていた。
は……挟まれた……!?
「うぅうっ……!!」
周囲は密集した木と枝。その木に登ろうにも、足が掛けられるような都合のいい位置に枝が生えていない。腕の力だけで懸垂みたいによじ登るなんて、絶対無理だ。
後ずさりした背中に幹がぶち当たって、そのままくずおれるように根元に座り込んだ。左右に視線を揺らすたびに、少しずつだけれど、アメーバとの距離が縮まってきているのが分かる。このままじゃ捕まる。でも逃げ場が……!
全身が急激に冷えて、心臓がバクバクとうるさいくらいに激しく鳴り出した。息がうまく吸えない。涙がにじんで、視界がぼやける。恐怖心が目を閉じさせようとしている。でもそうしたが最後、もう二度と開くことがなさそうな気がして――ただふらふらと顔を動かしながら、震えているしかなかった。
すがるように、偶然落ちていた一本の木の枝を掴んだ。細い枯れ枝。武器にするにはあまりにも頼りない。でもこのまま大人しく捕まるよりは……! それに、道幅はギリギリ二人分くらいのスペースがある。アメーバが二体で塞いでいる方は無理だけど、一体しかいない方なら! 思い切って攻撃して、怯んだ横をすり抜けて……で、でも怯まなかったら……!?
思考もぐちゃぐちゃで、まとまらないまま考えている内に、気付けば一体で現れたアメーバが側まで来ていた。座り込んだすぐ目の前。結局木の枝を振り上げることすらできずに、あたしは固まる。ブーツの先にどろどろとした体が触れる。
赤い、影が、迫った。
「ひぃっ……!」
呑み込まれる……!
声すら出ない状況の中、両腕で頭を抱えるように縮こまった。
……ずる、とアメーバが動く。輪郭を不規則に揺らしながら、その全身はあたしの足の上を滑って……
滑っ……て……
「……え……?」
そこで何かおかしいと気付いたあたしは、頭を抱えた腕を外した。
全然、登ってこない。それどころか、アメーバはずるずると移動すると、とうとうあたしを越えていってしまった。
……す、素通りした……!?
あたしは呆然とその姿を見送る。確実にあたしの存在には気付いてるはずなのに――まるで道端の石ころみたいに、気にもしていないようだった。
そして反対側の二体のアメーバに至っては、あたしに触れることすらなく、ゆっくりとその姿を反転させると、道を引き返していった。
そしてそれから、十秒、二十秒と時間が過ぎる。
ゆっくりと指先に体温が戻ってきて、心臓はまだ激しく動いてるけど、それでも少しは落ち着いてきた。震える膝で立ち上がると、溜めていた分を全て解放するように、大きく息を吐き出した。
「た……助かったぁ……」
だけど、全く訳が分からない。昼間パーティーで来たときはあんなにしつこく追いかけてきたのに。あたしがこのゲーム世界のキャラクターじゃないから? いやでも、他のモンスターは普通に襲いかかってきたし……。
ぐるぐる考えても分かる訳がなくて、諦めたあたしは頭を振った。分かんないんならもうしょうがない! それよりも、早くここを出て村まで戻らないと。何度か屈伸をして固まっていた脚をほぐしてから、再び森の出口を探して歩き出した。
その後ひたすら歩き回ること数分。相変わらずおどろおどろしい風景ばかり続いていて、帰り道が見当もつかない。か、完全な迷子……。
そして、さまよう中で何度かアメーバにも遭遇した。でも、結果はみんな同じだった。襲ってこない。むしろあたしから近づいても全くのノーリアクションだ。まるで眼中にない――そもそも目は付いてないけど――という感じだった。
これはこれでむしろ気味が悪いんだけど、安全に移動できるならそれに越したことはないもんね。そして幸いなことに、アメーバのおかげで普通のモンスターはいなくなってるから、ここはもう実質安全地帯みたいなものだった。
歩く最中、びゅうぅっと強い風が吹いて髪を抑えた。枯れ葉が舞い上がって、乾いた音を立てて散らばる。
なんか、どんどん風が強くなってきてるような……。天気が悪くならないといいんだけど。周囲の状況も相まってなんだか不穏な感じがして、背中を震えが登った。気分も焦る。
いい加減違う景色が見たい……! と大股で何歩か歩いたその時だった。
視界がうっすらと赤く染まり出した気がして、はたと立ち止まる。気のせい……じゃない。赤くもやもやした霧状のものが、いつの間にか周囲に立ちこめ始めていた。
ちょっと待ってこれ……瘴気!? てことは、現在地は森の奥の方ってことで……。
「ああぁもうウソでしょ〜!?」
どっと疲労感が押し寄せてきて、あたしはその場にうずくまった。ずっと出口探して歩いてたのに、まるで逆方向だったなんて!
そんなあたしをあざ笑うように、瘴気はいきなりぐっと濃さを増した。すっかり不明瞭な視界の中で、淀む赤色。
「むぐっ!」
あまり吸い込むのも体に悪いような気がして、思わず灰色のローブの袖で口元を押さえる。これのせいで、昼間は撤退するしかなくなったんだ。みんな、こうなった途端に力が抜けてふらふらになっちゃって。
……でも……
瘴気に巻かれながら、あたしはその場に立ち尽くす。昼に感じたことは間違いじゃなかった。やっぱりだ。
やっぱり……あたしは、これに触れても平気みたい。気分が悪くなったりとか、立てなくなったりとか、行動に支障をきたすような変化は何も起きない。自由に動けるんだ、こんな状態でも。あたしだけなら……。
とはいえ、状況は何一つ良くなってない。ただでさえ道が分からないのに、この上視界まで悪くなったら、余計に出られなくなる……!
どん!
「ぎゃっ!?」
焦って駆け出したら、木に激突した。じんじん痛む鼻を押さえて、涙目になりながら思わず目の前の幹をにらむ。
せめてこの瘴気が届かないところまでは行かなくちゃ。もうどっちが前なのかすらよく分からなくなっちゃったけど、こんなとこで立ち止まってるよりはマシなはず……そう自分に言い聞かせるように念じて、あたしはただひたすら足を動かした。
すると、そこから数分立った頃。
「……!」
最初に変わったのは、音だった。微妙にだけど、風の音がちょっと違う。
これまでは狭い木々の間を通り抜けて吹く風だから、ビュウビュウという中に少し笛みたいな甲高い音が混ざっていた。それに、枝や葉が揺さぶられる音もすぐ近くでしていた。でも今聞こえる風の音は、そういったものが少し遠い。
それに加えて、足音も。降り積もった枯れ葉や枯れ枝を踏むパリパリ、カサカサという音が歩く度にしていたのに、それが急に減った。
心なしか窮屈な圧迫感も無くなった気がする。思い立って、落ちていた長めの枝を拾って振り回してみる。すると、何もぶつかる手応えがない。
な、なんか、広い場所に出たっぽい……?
急に変化した状況に、おっかなびっくり足を踏み出した……その時だった。
「――のですか。それは――で――」
かすかに、でも確実に聞こえた何者かの声に驚いて、あたしは出しかけた足を引っ込める。
そしてよく目を凝らすと……いた。赤く煙る先にうっすらと、二人分の人影が見えた。
ずっと一人ぼっちでさまよう中、自分以外の人をやっと見つけた……そんな状況だけど、全くホッとはしなかった。
むしろ、湧き上がってきたのは強い警戒心だ。だって、この瘴気は本来誰も近付けないような危険なもの――まあ、あたしの状況は一旦ちょっと置いとくとして――そんなものが渦巻いてる中で平然と立って話してるなんて、明らかに普通じゃない。ここで「もしかしたら助けてもらえるかも!?」なんて考えるほど、あたしも脳天気じゃないんだから。
とっさに近くの木の陰に隠れて、見つからないように気をつけながらじりじりと近付く。気分はまるでエージェントだ。視界が悪いのがむしろ好都合。目立つようなことさえしなければ、あたしの存在には気付かれないはず。
目論見は上手くいって、かなり近くまで来れた。謎の二人組は、どっちも黒いローブみたいなものをまとっているように見える。フードまですっぽり被って、まるで人目から姿を隠してるみたい。何この人達、いかにも怪しいじゃん……。
一人は枝が邪魔で、それ以上よく見えなかった。ただ、向かい合うもう一人だけが、かろうじてその姿形を確認できる。
顔は……やけにのっぺりしてると思ったら、仮面だ、これ。顔全体をすっかり覆う、楕円形の白っぽい仮面。目に当たる部分に切れ込みが二ヶ所入っているだけで、他は模様も何も描かれてない、殺風景なデザインをしている。
「その程度であれば、問題視する必要も無いでしょう。多少の例外にかまけていられる程、我々も暇ではないのですから」
仮面の向こうで、その人が喋った。こもってる上に風の音が邪魔で聞きづらいけど……なんか、独特な声。女の人にしては低いし、男の人にしては高い。中性的と言えばそうなのかも。
「では――通り――こに――させて――」
それに対して、もう一人が答える。ただその声はとても小さくて、しかもあたしにほぼ背を向けているからか、一層聞き取りにくい。もはや単語すらよく分かんないけど……声からして、多分男の人?
「ええ。悠長にして逃しても困ります。明日にでもお願いしますよ」
うーん、何の話をしてるんだろ……?
全く見当もつかないまま、ひとまず身を隠して耳に全神経を集中させる。するとローブの人がまた何か言ったらしくて、仮面の人は軽く肩を揺らして笑うような仕草を見せた。
「何を今更。たかが辺境の森が一つ死ぬ事など、計画に於いては些末なものでしょう」
その言葉の一部が引っかかった。も、森……? それって、このアムルーナの森のこと言ってる? しかもさっき、確かに計画って……。
そこであたしは良くない直感をしてしまった。ひょっとしてこの人達、森の異変と何か関係ある!? てっきりまたモンスターが悪さしてて、それを倒したら解決って思ってたけど……まさかの陰謀!? 黒幕!? サスペンスっ!?
ど、どうしよう軽い気持ちで盗み聞きしてるけど、あたし今とんでもない場にいるんじゃ……?
「――かし――の力――ったら――」
「ご安心を。必ず招き寄せられますよ。それさえ揃えば……貴方の悲願も叶うでしょう」
そう考えると、発されるセリフが全部悪役めいているように聞こえて、あたしはますます身を固くする。
「……では、良い報せをお待ちしております」
その言葉を最後に、仮面の人がスッと片手を上げた。すると空中に黒い魔法陣が出現。その中心から同じく黒い光が吹き出すと、体全体を包み込んで……まばたきをした次の瞬間には、もうその姿は消えていた。空間転移……ってやつなのかな?
「…………」
一人残ったローブの人が、大きく息をついた。あ、移動する……? となるとここにいるのもマズいかも。そーっと離れて見つからないように……後ずさり……
ぴたん、と濡れた布を当てられたような感触が背中に発生した。
びくっとして振り向くと、いつの間にか音もなく接近していたアメーバが、すぐ目の前でうごめいていた。ぬらぬら揺れる赤と黒のまだら。
「ぅわっ……!」
一瞬で全身に嫌な寒気が走り、そのせいでうっかり……本当についうっかり、声が出てしまって。
――ヤバい!
慌てて口を押さえても、もう遅い。
「なっ!?」
完全にこっちの存在に気付いたと分かる声が聞こえて、私は大慌てで駆け出した。その物音で完全に居場所までバレただろうけど、もうそんなこと構っちゃいられない!
後ろの方で、慌ただしく追いかけてくる足音がする。
「ま、待てっ……!」
途切れがちに聞こえる声。待てと言われて待つ人なんていない!
視界も足元も悪くて走るのには最悪の状況。でもそれは向こうだって同じはず……これでも足には結構自信があるんだから……!
がむしゃらに全力疾走していると、急に霧が晴れるように目の前がクリアになった。あっ瘴気を抜けたんだ。じゃあ多分方向はこっちで合ってる! このまま森も抜けちゃえ!
その時、足元に白い魔法陣が出現した。
「――!?」
驚く間もなくそこから半透明の鎖が伸びて、足に絡みつく。たちまち地面に縫い付けられる体、急激に崩れるバランス。
「んぎぐっ!」
成す術もなく、盛大に転んだ。地面が柔らかい土だったおかげで痛みはそこまでじゃないけど、そんなことにホッとしてる余裕はない。
急いで起き上がろうとする。でも鎖はさらに成長するように伸びて、腰、お腹、ついには胸辺りまでがんじがらめに縛ってしまった。見た目は薄いガラスみたいで脆そうなのに、思い切り力を込めてもビクともしない。
これって……バインドの魔法……!? 嘘でしょ魔法使うのはズルだって……!
なんとか抜け出そうともがくあたしの耳に、枯れ葉を踏む音が届いた。
ぎくりと顔を上に向けると、黒いローブ姿の人がこちらを見下ろしている。目深に被ったフードが陰になって、口元がぼんやり見える以外は全く分からない。
「ぃやっ……やだっ! 来ないで!」
必死な叫びも虚しく、その人はしゃがみ込むとあたしの目の前に手をかざした。ぼぅっとかすかな光が宿る。
「ひ……!?」
このままだと何かされる……! そんな恐怖が、あたしを突き動かした。
「うわああやめてっ!」
「!?」
半ばヤケになって、体を跳ね上げると倒れ込むようにぶつけた。ローブの人は体勢を崩して、あたし共々地面に転がる。
するとその衝撃で鎖の一部分が緩んで、奇跡的に右手の肘から先だけがすっぽ抜けた。
「わあぁーッ!!」
喚きながら少しだけ自由になった右手をめちゃくちゃに振ると、偶然指先が何かに引っ掛かった。反射的に強く掴んで、力任せに引き寄せる。細くて硬い金属のような……どうやらネックレスか何かのチェーンらしい。
「ぐっ!」
当然その動きでローブの人の体はガクンとつんのめり、息の詰まった声を出した。それでも強引に立ち上がろうとするから、あたしとの間で引っ張り合うような形になる。
次の瞬間、ブツンと千切れるような音。急になくなった手応え。何か小さなものが落ちてきて、あたしの額に当たった。
「いたっ!」
軽い衝撃に驚いて、思わず反射的な声が出る。
――その、直後だった。
突然、強い光が瞬いた。目の前をすっかり覆ってくらませるほどの光だ。
「うわっ!? 何っ、ちょっと何!?」
もう何度目かも分からない叫び声を上げる。そして光が止んで、景色が戻ってくると……
「え……な、にこの……?」
……あたしの目の前に、何かがいた。
把握できたことは、ただそれだけだった。
唐突に降って湧いたとしか言いようがないそれは……真っ白い毛に覆われた四本足の、小さな動物だった。
子犬のようでもあるけど、長い耳はウサギみたいだし、ふさふさと太くて長い尻尾はキツネのようにも見える。
状況が全く理解できなくて、ぽかんとした声が洩れた。
一瞬ローブの人が魔法で出現させたのかと思ったけど、どうやら違う。だって彼もあたしと同じように呆然と口を開いて、地面に膝を付いた姿勢のまま固まっていたから。予想外のことなんだ、これは。
「……んきゅう……」
謎の白い生物が甲高い鳴き声を上げた。あたしを背にして四つ足を踏ん張って、ローブの人を見上げて……。
「きゅうぅっ!」
威嚇するように、もう一声。
え……? ま、まさか、ひょっとしてさっきからこの子、あたしを守ろうとしてくれてる……?
「……何故……だ……」
ローブの人の口から、低い呟きが洩れる。
その時、あたしの視界の端でゆらっと動くものがあった。
とっさに目を動かす。アメーバだ。いつの間に集まっていたのか、数体固まってうごめいていた。これまでずーっと他人事のように関わってこなかったアメーバ達。なんで今頃になってこんなたくさん……。
と、思ったのも束の間。
どういう訳だか、急に心変わりしたかのように、一斉に近づいてきた。
ぶよぶよと輪郭を変えながら、向かった先は……あの人だ。
「はっ!? や、やめろっ……来るな……うぐぅっ……!」
数体のアメーバにまとわりつかれて、ローブの人がくぐもった声を上げる。
すると、あたしの体を締め付けていた息苦しい感覚がふっと楽になった。見れば、半透明の鎖が緩んで消えかかっている。こっ……これは絶好のチャンス!?
「あ……! 待て!」
もうすっかり役立たずになった鎖を振り解いたあたしを見て、ローブの人が切羽詰まった声を上げる。でも当然、あたしはそれを無視して再び走り出した。
急に現れた白い生き物とか、これまでとは打って変わって襲い掛かってきたアメーバとか、あと何よりこの人とか、気になることは多すぎるけど……ひとまずここから逃げるのが一番大事! 中途半端な距離じゃ、さっきみたいに魔法で捕まるかもしれない。とにかく遠くに! 走れあたし!
重たくなってきた足に鞭打ってひた走る。ぜえぜえという呼吸音がまるで他人のものみたいだ。それでも止まればまたあの人が来るかもしれないという恐怖で体を動かし続けた。
その時ふと、前方に明るい光が見えた気がして顔を上げる。
すると目に飛び込んできたのは、鮮やかな緑だった。異変に浸食されてない、生命力あふれる自然の緑……ということは、もう森の出口が近い!
やった、とあたしは思わず笑みを浮かべる。ようやく出られそう! よしこのまま村まで走っ――
急に、意識が引き戻るような感覚。
「……ふぁ」
自然に、ぱちりと目が開いた。
そこでまず目にしたものは、木製の壁。爽やかな朝の光に照らされている。
身をよじると、柔らかいマットレスと滑らかなシーツの感触が伝わった。遠くから聞こえる鳥の声と、心地よい布団のぬくもり。
……言うまでもなく、ここはベッドの上……ミレクシアの、宿屋のベッドの上だ。アムルーナの森の中でも、ましてや異変で荒らされた奥地でもない。
ええと……要するに、一連のあれは……
「……ゆ、夢オチってことぉ……?」
なんてベタな。いやでも、急に森へ移動したりとか、脈絡も無く現れた人とか生き物とか、確かに夢でしかありえないかも……?
それにしても、なんだかものすごくリアルだったな。これがホラー映画とかなら、安心して布団をめくると足に手形がくっきり……みたいな展開になるんだろうけど、もちろんそんなこともない。
「変な夢、見たなぁ……」
身を起こして、ぼーっと寝起きの余韻に浸る。ちょっと体が痛いのは多分、昨日歩き通しだった筋肉痛だな、うん。
そして朝の支度を済ませて、普段着に着替えたあたしは部屋を出た。するとちょうどそのタイミングで、もう一つの部屋のドアも開く。中から、オルフェとジタンが出てきた。
「おはよう二人とも~……ん?」
気楽に声をかけようとして、ふと上げかけた手を止める。
……なんか、ジタンの様子がおかしい気がする。テンション若干低めなのと仏頂面はいつものことだけど、今はそれ以上にどんより暗いというか、具合悪そうというか……顔色も良くないし、なんか、雰囲気がゾンビみたい……。
「ジタンどしたの……? よく眠れなかった?」
「あァ? ……あー……」
あたしの呼びかけにも生返事。
「みくる、気にせんでええよ」
すると要領を得ないジタンの代わりに、オルフェが苦笑しつつ言った。
「半分自業自得みたいなもんじゃけぇ。単なる飲みすぎじゃ」
「飲みすぎ……!? えっお酒飲んだの?」
男子部屋は男子部屋で盛り上がってたらしい。いや二人とも男子って歳じゃないけど。特にオルフェ。
「昨日の夜いきなり部屋に遮楽が来たんだよ……」
壁に頭を付けたまま、いつも以上に覇気の無い声で喋るジタン。
「しかも大量の酒抱えて窓から入ってきて」
「歓迎の印ぃ言うてのぉ」
頬を掻きながらオルフェも合わせる。
「アイツやべぇって。ザルってレベルじゃねぇよ。浴びるほど飲むってああいうことを言うんだろうぜ」
「だ、だからってジタンまで飲んだくれる必要はなかったんじゃないの……?」
「みくるの言う通りじゃ。自分の限界も考えんと乗せられよってからに」
呆れ混じりのオルフェの声。
あぁなんか、お兄ちゃんも一回こういうことあったなぁ……成人祝いとかでお父さんとビール飲んだら、二杯くらいでぐでんぐでんになっちゃって……あれ以来、お兄ちゃんはお酒を飲んでない。
そして眉間のシワを一層深くしたジタンは、整えないままの無造作な金髪をぐしゃっと掻き回すと、丸めた背中をあたし達に向けた。
「うー頭、痛ッてぇ……すまんオルフェ、もう少し寝る……うぇ」
「はいはい……後で薬草入りの水持ってきちゃるけぇね」
「回復魔法で何とかなんない?」
「さすがに無理じゃのぉ」
ふらふらと部屋に戻っていくジタン。その姿はとてもゲームの主人公、それも伝説の肩書きを背負う勇者とは思えなかった……って、それは別にいつものことか。
「この調子じゃ、冒険なんてできないよね……今ならスライムにすら負けそうだし」
「ほうじゃねぇ」
ぱたんと力無く閉まる扉を見送って、あたしとオルフェは顔を見合わせるとやれやれと笑ったのだった。
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