133.色欲
全身の血が熱くなっている。
対峙するのは、ウサギのように長い耳の生えた淫魔だ。
名は、確か……キュウ。
「アンタ、名前は?」
ボクに訊いているようだ。
名乗って何の得がある?
「あなたに名乗る名前など、持ち合わせていません。話しかけないでください」
ボクは更に血の巡りを早め、両手に魔力を込めた。
「ブラッドロウル……」
ボクが詠唱と同時に動き出すと、敵も同じように動き出す。
血液で生成した二本の剣を翳し、ボクはそれを奴の首へと振り下ろした。
直後、敵の身体が凄まじい炎に包まれ、その熱気でボクは攻撃を中断せざるを得なくなる。
この女、先ほどから無詠唱で火炎魔法を使用しているみたいだ。
メフィル、或いはメフィストの力によるものだろうか?
「ブラッドロウル、アシッド!」
「クフフッ」
大量の酸を振り撒いたつもりだったが、全て奴の炎に蒸発させられてしまった。
「アンタやるわね! 長く抵抗する子ほど、堕とし甲斐があるってものよ!」
奴の言葉に耳を傾けてはならない。
厄介なものだ。
五感を通してこちらの精神を蝕んでくる、魅了魔法。
ポルカさんとビートさん、そうしてバーナさんは、まだ理性を保っているけれど、既に戦闘が困難な状態だ。
皆も先程まで普通に戦っていたのだが、知らず知らずのうちに奴の術中に嵌っていたらしい。
「グオオオオッ!」
キュウの背後に、鋭く尖った無数の触手が迫る。
ザガンさんの操る、アンデッドクリーチャーのものだ。
「チッ」
奴は舌打ちをすると、素早くそれを避けた。
「アンタもしつこいわね。さっさと倒れなさいよ!」
ザガンさんはアンデッドを操っているから、キュウの催眠魔法を直接受けていないのだ。
彼のおかげで、どうにか敵の軍勢は抑えられている。
「ねぇ、そろそろ限界なんでしょ? 少し気を抜けばもう———」
「ッ!?」
まずい、耳元で囁かれた。
気配に気付けなかったのだ。
身体の力が抜け、妙な浮遊感に襲われる。
気を抜くな、少しでも気を抜いたら……!
「ルカ、大丈夫か!?」
ザガンさんの声が聞こえる。
大丈夫、戦いに集中すればいい。
「へぇ〜……アンタ、ルカっていうのね」
腹立たしいことに、名前を知られてしまった。
知られたところで損がある訳では無いが、知られなければ会話の頻度が減るかと思っていただけである。
実際、向こうがボクの名を知っていようがいまいが、何かと話題を見つけて話しかけて来るのだが……。
「くっ……はぁ……」
「かわいい……さっきまであんなに強かったのに、弱っちゃうとそんな情けない声が出るのね」
駄目だ、耳を傾けるな……。
「だま……れッ!」
すぐさま生成した血の剣で、キュウの声がする方向を振り払った。
手応えは無い。
大丈夫だ、離れる事が出来ればいい。
魅了魔法は、操血魔法で解除出来る。
もっと早く血を巡らせて、魅了解除の法陣を脳に行き届かせるのだ。
「アンタ、もしかしてアタシの魅了を解いてる? どうりで何回も魅了しているのに、全く効かないわけだわ」
「だから、何か出来るんですか? ボクにもっと強い魅了魔法でもかけてみます?」
奴の意識をこちらに向かせたい。
ボクなら短時間で魅了の解除が出来る。
あとは、隙を見て……
突如として、目の前が炎に包まれる。
この女、無詠唱な上に動きも速い為か、少しでも遅れると攻撃をもろに受けてしまいそうだ。
咄嗟に攻撃を避け、今度は無数の血液を撒き散らす。
「ブラッドロウル、ニードルプリズン!」
ボクは血の棘で檻を形成し、その内側にキュウを閉じ込めた。
「ボクはルカ・ツェペシュ・ヴァレンタイン。吸血鬼の末裔です。血を自在に操る事が出来るので、君の魅了魔法も血を使って解除しています」
正直なところ、ボク自身もここまで繊細に血を扱えた事に驚いている。
操血魔法を使い続けているうちに、かなりコツを掴めてきた。
「律儀に名乗ってくれたわね。アタシは色欲のキュウ。あのお方に仕えるグリードナイツよ」
あのお方とは、メフィルの事だろう。
彼女の他にも男が一人、魔物が一体居たけれど、なぜメフィルに従っているのだろうか?
「キュウ、君はどうしてメフィルに仕えているんですか? もしかして、何か弱みでも握られて……?」
「あのお方の事を悪くいうなッ! あのお方は、アタシを愛してくれた唯一の人なの……! アタシに、本物の愛を教えてくれたのよッ!」
そんなわけがあるか。
彼女は間違いなく利用されている。
欲望に飢えた魂に、創星魔法で力を与えた姿……メフィストは、グリードナイツの事をそう話していた。
つまり、キュウは色欲に飢えている。
「メフィルに愛されているのに、未だあなたは飢えているんですね。なぜですか?」
ボクの言葉に、キュウは目を血走らせて声を荒げる。
「黙れ! アンタごときに何がわかんのよ!」
その瞬間、棘の檻は激しい炎に包まれ溶けていく。
凄まじい火力だ。
近付いただけで、皮膚が焼けそうなほど熱い。
「アタシはこれで良いのよ……! あのお方の為になるなら、これで良いの!」
可哀想だ。
出来る事なら、その魂だけでも助けてあげたい。
「……そうですか。仕方ありませんね」
ボクは一度全ての操血魔法を解除し、右手に魔力を集中させた。
『ごめん、お待たせ!』
不意に、ポルカさんからの念話が届く。
最高のタイミングだ。
「サイコプロージョン!」
「火焔拳・弾!」
ポルカさんとバーナさんの攻撃が、左右からキュウに炸裂した。
「スタッグバイト!」
続けてビートさんが攻撃したけれど、これは避けられて腕に掠るだけとなってしまった。
しかし、あの攻撃によって毒が傷口に入ったはずだ。
「くっ……! アンタたち、どうして!?」
キュウは驚きを隠せないようで、その表情からは焦燥が見て取れる。
皆が魅了で動けなくなった直後、ポルカさんから念話が届いたのだ。
念魔法で魅了を解除出来るかも知れないから、それまでどうにか時間を稼いで欲しいとの事だった。
「時間はかかったけど、上手く行ったよ! ありがとね、ルカくんとザガンさん!」
「ふざけんじゃないわよ! もう許さない、アンタたち皆殺しにしてやる!」
そんな事はさせない。
こちらも準備は整った。
「来い」
ボクは一言そう呟き、魔力を込めた右手で何もない空間を掴む。
重く澱んだ空気が全身を包み、それはまるでボク自身の魂を吸い込んでしまうかのようであった。
そうして、ボクは一本の剣をこの手に握る。
漸くボクの元に来たか。
瞬間、脳内に言の葉が流れ込んでくる。
「無に帰せ、虚空剣ヴァニタス」
虚ろな光が、その剣身から怪しげに解き放たれた。