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屋烏の子  作者: 沖宮綾華
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7.新しい生活と新しい出会い


 21歳を迎えたわたしは東京の大学に通っている。意外にも大学にはわたしと同じ年齢の人がいて、疎外感を感じることはなかった。

 去年の冬に弟が生まれたわたしは、確かに海桜家にいると苦しい気持ちを味わうことがあった。

 でも憧れの新築に住みながら、それぞれが新しい人生を切り拓いた環境はとても居心地がよかった。

 お母さんは曲を作り続けながら、わたしにくれた愛情を同じだけ子どもに注いでいる。わたしは大学に行きながら、新築の実家に帰ってお母さんを眺める。

 新築の一階は花屋さんに改造されていて、お父さんが夢を叶えたのだ。

 まさかお父さんが花屋さんを経営したかったなんて、予想外だった。あの県境に住んでいたころから花屋さんでバイトして修行を積み、ようやく自分のお店を持てたらしい。お母さんが音楽の道で成功したから、お父さんにも余裕が生まれて夢を叶えられたのだろう。


 麟くんは生まれた子どもを抱いて、わたしに会いたいと言った。

 あれは寒さが厳しくなってきた今年の初めあたりだっただろう。実家に挨拶しに行った日から、麟くんからの音沙汰は一切なかった。

 お父さんは「もう死んでるんじゃないか」と不安そうだったけど、アパートに様子を見に行ったら、麟くんは普通に自転車に乗って車の部品を作りに出かけていた。そのアパートには女の人が暮らしていて、あの人が麟くんの結婚相手なのかと納得した。


「これ、俺の子どもなんだって」

「かわいいね」

「本当に思ってる?」


 ファミリーレストランに呼び出されたわたしは赤ちゃんを見ながら、何か注文していいのかと顔色を窺った。

 周輔さんみたいにやつれきった麟くんは、むかしの面影をどこにも残していなかった。ずっとむかし、わたしのことをヘンだと言い続けた子のお母さんみたいな、働きすぎて疲れ切った顔だ。


「ごめん、よくわかんない」

「そうだろうね。俺なんかの子どもに愛着わくはずがないから」

「イラついてるの?」

「…ごめん」


 温かな服に身を包んだ赤ちゃんは、結構大人しかった。わたしのお母さんのもとを選んだ赤ちゃんはありえないくらいおてんばで、元気で、おもちゃを手に握ったら暴れまわる。お父さんが「新種の生き物か?」と困惑していたのが面白かった。


「なんかおむつ替えたり、ミルクとか飲ませるんでしょ? もう飲ませたの?」

「それより聞くことがあるよね」


 大人しい赤ちゃんがいつ怪獣みたいに暴れるのか、ひやひやしていたわたしは首を傾げた。ずっと苛立っている麟くんを見るのは、初めて出会ったとき以来だろうか。

 学校の帰り道、頬を真っ赤に腫らした麟くんがガードレールに寄りかかっていた。

 わたしが濡れたハンカチを差し出すと腕を掴まれたので、なにかご飯を食べようと、カップ麺を買って麟くんの家にお邪魔した。

 あの日は、麟くんのお母さんが働いていた店で出会った女性と付き合っていたらしいが、年齢をごまかしていたのがばれて振られたそうだ。確かに麟くんは老け顔ではないけど、大人びた雰囲気がある。それでも未成年の顔立ちだと思うんだけど、大人のお姉さんには気づかれなかったらしい。


「もう鏡花の人生から俺は追い出されたの?」

「わたしはそんな壮大な考え方をしたことがない」

「俺はどうでもいいの?」


 お母さんと見た昼ドラや藍実さんの発言とそっくりだった。主に女性が言うセリフだけど、麟くんが言っても似合っていた。

 黒縁メガネをかけたままの麟くんは、力なく赤ちゃんを抱いている。その腕が緩まないか、わたしはちょっとドキドキした。


 そういえばそうだ。

 わたしはみかんちゃんといるときはドキドキが治まって、周輔さんや藍実さんが押しかけてきたときは心臓が飛び出そうなほどドキドキした。

 恋をしたらドキドキするもんだとお父さんが言っていたけど、その理屈だと周輔さんたちに恋をしていたことになる。麟くんにすらドキドキしたことがないのに、恋って何なんだろう。ドキドキ=恋っていう方程式はわたしに通用しないんだろうか。弟ではなくわたしこそが新種の生き物だったのか。


「麟くんと会っていいの?」

「…会ってほしい、いままで通りでいたい」

「でも押入れには住めないよ。お母さんたちが東京で暮らすからついていかないとだし」


 麟くんは顔をうつむかせてしまった。実家で挨拶した翌日には漁業に出向いて、おじいちゃんに辞めることを伝えた。

 おじいちゃんは見抜いていたようで「意外に長くいてくれたな」と頭を撫でてくれた。思えば、おじいちゃんが教えてくれた漁業はいつも簡単な作業ばかりだ。わたしが立ち去ることを前提にしていたんだろうか。


「でも毎日麟くんに会いに行こうと思えば行けるよ。周輔さんだってそうだったし」


 会いに行ったところでわたしは何をすればいいんだろう。料理は奥さんがやるだろうし、子どもの世話なんてできない。

 麟くんとお話するために会いに行けばいいのか、また心臓の音を聞かせたらいいのか。

 単純で明確な答えを教えてほしかった。


「たったひとつ道を間違えただけで、本当に大切なもの全てを失うんだ」

「どういうこと?」

「…俺に会わなくていい、鏡花は自分の人生を歩んで」


 また逃げるように麟くんは立ち去ってしまったけど、わたしは追いかけなかった。麟くんの寂しそうな背中は引き留めたくなるけれど、もう父親になったのだ。ひとりで生きていくわけじゃない、責任感を背負っていかなければならない。

 何も注文せずに立ち去った麟くんを訝しげに見た店員に、わたしは目についた季節限定のパフェを頼んだ。

 麟くんがこのお店に行きにくくならないようにと思って注文した。そこでもやはりわたしは世間体を気にしていた。



 大学に通っていると、人との付き合いが増える。同じ教室にずっと集まっているわけではないし、高校生のときから知り合いだった人たちはグループになるけど大半はサークル仲間で集まる。

 わたしは将来海外を飛び回ってみたかったので、英語を話せるように科目を選んだ。だけど、サークルは写真部にした。お母さんが中学生のころ、一年間だけ写真部だったからだ。

 ここまでくるとお母さんの幻影を求めていると誤解されても仕方がない。ちなみに写真部では毎週出されるテーマの写真を撮るのが活動内容だ。


「あ、鏡花ちゃん。こっちこっち」


 そんな写真部の部長さんから呼び出されて、人生で初めてバーに来た。居酒屋じゃないところが東京って感じがする。麟くんと東京の高校に通っていたときはあまり街中を歩かなかった。お互いバイトがあったし、わたしは時々辞めてお母さんたちに会いに行ったりしていて、東京に住んでるのに観光する時間がなかったのだ。

 田舎心丸出しのわたしは呼び出されたバーにこわごわとしながら入店して、わたしに手を振った部長さんのもとに近寄った。


「へえ、素朴だけどかわいいね」


 写真部の人以外にもガタイのいい人が集まっていて、男女の数が綺麗に揃っていた。もしかして合コンだったのだろうかと思うけど、わたしを遠慮なく眺める男前な人より、カウンターでグラスを磨く女性が気になった。


「なに飲む? あ、未成年の人はちゃんとノンアルコールにしてね」


 部長さんの隣に座りながら手渡されたメニューを眺める。部長さんはわたしが入部したときから大人びていて、髪はパーマをあててオシャレさんだし、爪先をきちんと磨いている。レモンみたいな色のネイルが綺麗だなと思いながら、わたしは部長さんおすすめのカクテルを頼んだ。

 バーとは聞いていたけど、洋画で見るような店内ではなかった。

 ちゃんと四人掛けテーブルがあるし、カウンターもあるけど、距離が離れている。あのバーテンダーさんが気になるけど、部長さんと男前な人に挟まれてしまったので身動きが取れなかった。

 猫の毛みたいに跳ねるわたしの髪を摘まんだ男前な人は「おれ一樹、きみは?」と聞いてくる。初めての場所に緊張していたせいで「鏡花です」と答えるのが精いっぱいだった。


「化粧薄くてさ、ネイルもしてない女の子っているんだね。天然記念物?」

「ちょっと鏡花ちゃんを汚さないでよ」

「ラグビー部のマネージャーになってよ」

「ダメ、鏡花ちゃんは写真部でもエースなんだから」


 まだ入学してからそれほど経っていないのに、部長さんはわたしを次期部長として育てようと奮起になっている。

 お母さんが化粧の仕方を知らないので、わたしは部長さんから教わった。ネイルだってしようと思えばできるけど、休日はお父さんの花の手入れを手伝いたいので、部長さんから教わった日以来塗っていない。


 バーテンダーさんを盗み見た。お母さんよりも短い髪はスパッと耳辺りで切りそろえられていて、眉は凛々しくつり上がっている。

 部長さんより化粧が濃くて、肌は少し日焼けしていた。分厚い唇にはたばこが挟まれていて、わたしの周りにはいないタイプだな、とときめいてしまう。


「二次会行こうぜ」


 その言葉を聞いたときにはわたしはお酒をたくさん飲んでいたし、足元がおぼつかなかった。でも男前な人に送られるのはごめんだったから駄々をこねて、しばらくバーでゆっくりすると押し通した。

 四人掛けテーブルからカウンターに移動すると、冷たいテーブルに頬を引っ付けた。

 店内に流れるジャズの音を改めて聞く。耳にするすると流れ込んできて、あの県境にある実家を思い出した。


「水飲んでおきな」


 男性にしてはずいぶんと男っ気のない、でもセクシーな声に顔を上げる。あのバーテンダーさんがわたしを見つめていた。


「すみません、お水いただきます」

「ン」


 一重の瞳が猫みたいにつり上がっていて、鼻は外国の人みたいに高い。体がすらっとしていて、女性らしいというよりギリシャ彫刻みたいだ。

 男性らしい女性ってこんな感じなのかな、と手渡されたグラスを一気に飲み干した。


「このグラス綺麗…」

「あたしの親父の手作りだ。いらないって言っても送り付けてくるもんだから、店で使ってるんだ」

「へえ…」


 店内に人が少なくなっていることを確認して、バーテンダーさんを見上げた。お父さんからもらったらしいグラスを磨く彼女は、わたしの心臓をとても落ち着けてくれる。まるで夜の海のさざ波を聞いているみたいだ。


「わたし、鏡花って言います」

「ナンパ?」


 彼女は口角を持ち上げて吐息だけで笑うと「自己紹介は次回ね」と、指に挟んだレシートを見せた。


「代金はあのサークルの仲間が払ってくれたみたいだから、お水代ね」

「いくらですか?」


 茹だった頭で訊ねると、彼女が手渡すレシートを見つめた。頭の奥でお母さんが授業参観の紙を見下ろすイメージが湧く。

 レシートには電話番号が書かれていた。


「あんたの視線、まるでナンパみたいだったから。昼間は店閉めて、このバーの二階で寝てるんだけど、あんたの撮った写真見せてよ」

「話し声そんなに聞こえました?」

「丸聞こえだった。あの男の人、あんたにアプローチしてもムシされて面白かったよ」


 ちょっと恥ずかしい思いをしながらバーテンダーさんに別れを告げると、さっそく携帯に番号を登録した。

 浮き立つ自分が怖いのに、もとの場所には戻れない。お父さんが「お前の理想は晴花なんだよ」と言った言葉を思い出した。



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