6.運命の挨拶
麟くんの挨拶は海桜家にとって、大きな衝撃をもたらした。
「鏡花と一緒にいたい。でも、いつかはこうなるってわかってた。だから俺がほかの女と籍を入れることになっても、鏡花の傍にいたい。俺たちの関係を見逃してほしい」
「本当にその女の腹に宿った子どもは、お前の子か?」
「間違いないと思う。俺と付き合ってると思ってたらしいし、どこか人の話を聞かない奴だったから。セフレだとは思ってなかったと思う」
それを聞いたお父さんは目の前に座る麟くんを、何か未知なる生物を見たかのように顔をこわばらせた。お母さんはわたしを見つめて、何か言いたそうだ。
居心地のいい日本家屋の実家は、ふたりの手作りの家具でいっぱいだ。それらがもう少ししたら、新しい場所に連れていかれる。
周輔さんの気持ちがわかってしまった。この家を、このふたりを愛しているからこそ、ふたりの過ごした場所が消えてほしくない。だから繋ぎとめたくて、自分のものにする。でもわたしには家を買うお金なんてない。お母さんに相談すればこの家を譲ってくれるかもしれないけど、ふたりがいない家なんてわたしには必要ない。
「いま七ヵ月を過ぎた。腹が大きくなるまで俺に隠して、もう堕ろすこともできない状態までもっていかれた。責任を取れって向こうの親族からも言われてるし、俺も向こうの親にはお世話になったから。車の整備士で、その、向こうの父親が」
「結婚の挨拶かと思ったら、まさか別の女との結婚の挨拶をされるとはな」
愛着のあるテーブルに項垂れたお父さんは、いままで口を閉ざしてオレンジの皮をむいているお母さんに視線を向けた。
お父さんがナイフで切れ込みを入れたあと、お母さんが手でするするとむいていく連携は見慣れた光景だ。
わたしは自分の両手を見下ろした。日が昇る前に海に出て、午前中はずっと船の上にいた。潮風が髪を湿らせ、体中に海の冷たさが流れ込んできたみたいだった。麟くんと実家に向かうまでは心の底から漁業を楽しんでいた。
「晴花、俺がお前にほかの女と結婚するけど、一緒にいたいと言ったらどうする?」
「ついていくよ」
「そうだと思ったよ」
即答したお母さんにお父さんはさらに体を縮ませた。骨ばった背中を撫でたお母さんはむき終わったオレンジを食べるより先に、わたしと目を合わせた。
「鏡花ちゃん、いつだって自分の心に輝く本音を選ぶのよ」
「…すぐわかる?」
「わかるよ。あたしと澄都くんを見てきたなら、鏡花ちゃんはわかってる。自分の気持ちを素直にさせる方法も、何が自分にとって正しいのかもね」
「……うん」
麟くんがほかの誰かと結婚するのはびっくりだったし、もしかしたらわたしと結婚するんじゃないかと期待していた。
でもその期待はひとりにならなくて済むという、安心感から湧いた感情だ。恋とは何かが違う。お母さんとお父さんの関係性がずっと理想だったけど、麟くんとは同じ関係性にならない。お母さんのように普通じゃない人生を選べない。
麟くんのために狂った自分を演じ続けられない。
わたしにとって麟くんといられる条件は独身でいるか、わたしたちで結婚するか。その二択だった。
でもわたしと籍をいれたところで、麟くんの望む感情は一生向けることはできない。周輔さんがお母さんに向ける執着が、わたしにはない。かといって無関心でもない。ひとりになりたくないから、依存されることを許していた。ただ、それだけだった。
「一緒にはもう暮らせないけど、麟くんの会いたいときに会いに行くよ」
わたしの提案を聞いた麟くんは、サッと顔色を変えた。血の気が引いていく表情を初めて見た。
口を半分ほど開いたまま固まる麟くんから目を逸らして、ふたりを見る。お母さんはオレンジを頬張って、ティッシュに種を吐き出した。お父さんはお母さんの肩を抱いて、喉を上下に動かす。
「鏡花、それでいいんだな」
何かとんでもない危機に瀕しているみたいな顔でお父さんが問う。まるでいまから誰かが死んでしまう決断を聞いてしまったような、あるいはわたしが麟くんに言葉の刃物を向けてしまって嘆いているような。
何度聞かれても麟くんが誰かと結婚するなら、わたしは世間体を気にして離れる。いままで麟くんとセフレだと勘違いされて、漁業の人にだらしないと言われても我慢していたのは、お互いに独身であり、後ろめたいことを何一つしていなかったからだ。
「わたしの答えは変わらないよ」
「麟太郎」
久しぶりに聞いた麟くんの名前を、お父さんが呼んだ。大きくない声なのになぜか居間に響いた。お母さんはオレンジを食べ終えて、まんまるとした毛玉を引き寄せる。よく見れば唇を嚙みしめていたから、真剣な空気に耐えられないのかもしれないと、今更に察した。
「命は大事にしろよ。子どもだって簡単にできるわけじゃない。ただ、お前の運命がそうした。子どもがお前を選んだんだ。鏡花が俺と晴花を繋いでくれたように、その子どもがお前の未来を繋ぐ」
「…鏡花のいない未来なんていらないよ」
麟くんは立ち上がって頭を下げると、そのまま何も言わずに出て行った。借りている駐車場まで歩いて一時間かかるけど、麟くんは気にせずに坂道を下っていく。わたしはそれを見送ると、縁側に腰かけて夕暮れを見上げた。きょうはバーベキューをする予定だったけど、麟くんが帰ってしまったし、わたしのお腹も機能していないのかちっとも空いていない。
「鏡花、行かなくていいのか」
「行ってどうするの?」
縁側の木材をするすると撫でる。この家を買ったときは縁側なんてなくて、穴だらけの襖が倒れていた。それをお父さんとお母さんが木を切って塗装して、ふたりで悩みながらなんとか作ったのだ。知識がなくても作れるなんて凄いと思った。
「お前、意外に冷静なんだな」
お母さんを腕に抱いたまま隣に座ったお父さんからは、いつの日かに聞いたバニラの香水が香った。デートでもないのに何でつけているんだろうと思ったけど、今朝はふたりとも出かけていないらしいし、思い当たるのは麟くんの訪問くらいだ。もしかしたらふたりとも結婚の挨拶だと思って、ドキドキしながら待ってたんだろうか。
「お父さんの言う通り、わたしは世間体を気にしてる。世間から見て悪いことだと判断したら、その先に踏み込めない。麟くんと独身のままなら一緒に生きて行けたし、漁業だって続いてたと思う」
「辞めるのか?」
「そうするつもり」
わたしは恋愛について詳しくないから、麟くんとの関係性に名前をつけられない。お父さんだってきっとわからない。お母さんはお父さん以外の人を好きになったことがないから知らないはずだ。
「捨てるのは簡単だろうけどな。本当にそれでいいのか?」
「お父さんが気にしてるのは世間体?」
「いや、俺ならたぶん死ぬだろうな、って」
お母さんを抱きしめたお父さんの顔はよく見えなかった。お母さんは眠そうに瞼を擦って、その手をお腹にのせた。麟くんの彼女さんもこのくらいお腹が大きくなっていて、でも夫になる人にはセフレだと思われていた。その気持ちをわたしが推し量ることなんてできない。麟くんは結婚という形で責任を取る。悪いことじゃないはずなのに、なぜわたしが罪悪感を感じているんだろう。
「麟くんが死んだら、どうすればいいの」
「まず死なせないようにするもんだ」
「どうやって?」
「体でもなんでも使うしかないだろうよ」
俺だってわからん、とお父さんは投げやりに言った。お母さんはちょっとだけ笑った。こんな空気で笑えるなんてさすがはお母さん。普通にバーベキューだってしそうだけど、お腹のこともあるから脂っこいお肉は食べられないのだろう。焦げ目のついた野菜をもくもくと食べるお母さんを見たかった。
「わたしと麟くんはそういう体の付き合いはないんだよ」
「麟太郎は臆病だからな」
「そうは見えないけど。臆病だったらあんなに彼女さんをキープしないし」
「鏡花が傍にいてくれることはわかっても保証はない。お前は健康体だし、漁業で働いて自立したし、勉強だってそれなりにできる。自分がいなくても生きて行けると思わせるような女だ。それがずっと麟太郎は不安だったんだよ」
何もできない女が好きなんだろうか。お母さんはちょっとずつ裁縫ができるようになっているし、洋ナシのパイは世界で一番おいしい。お父さんが半分も食べてしまうくらいだ。
「いま晴花のこと考えただろ。それが答えなんだ」
「どういう意味?」
「お前の理想は晴花なんだよ。晴花になりたいけど、お前は常識を知っている。周りの目を気にして抗おうとする。そんで晴花と比べてみて全然違う自分に落胆する。お前の世界に麟太郎は初めからいない。ひとりぼっちを防ぐために傍にいたくらいだ」
「…よくわかんない」
世界で一番お母さんが好きだけど、お母さんになりたいと思っていたんだろうか。お母さんはありのままの自分でいいと言ってくれる。わたしはいまの自分が一番好きだ。じゃあわたしの世界にはわたし以外に誰がいるんだろう。
「責任取って麟太郎と永遠に不倫関係でいるか、麟太郎の手を離して、俺たちと一緒に暮らしながら大学に行くか。いまのお前が選べる選択肢はそれくらいだろ」
これからも麟くんの家の押入れに住みながら、おじいちゃんの漁業を手伝う。海の生き物を眺めたり、その日釣れる魚の量に一喜一憂したりする。目が眩むような青空を眺めながら一日が終わっていくのを体感するのは、わたしにとっては幸せな人生だ。
だけど、麟くんの彼女さんの気持ちを考えてしまう。飽きることなくずっと。壊れたラジカセみたいに彼女さんが悲しむ姿だけを想像してリピート再生する。麟くんに触れられるたびに、既婚者という暴力がわたしを襲う。
普通から外れたわたしを、わたし自身が受け入れられるんだろうか。
うんとむかし。わたしは叶えたい夢があった。それはいまでも胸の一番奥で輝き続けている。
「ひとまずあの子の様子を見守りながら、お互いにベストな形を探そう。誰も死なない世界を、夢見ていたいから」
ずっと黙っていたお母さんが発した言葉に、わたしはどれほど救われただろう。お父さんはそれを聞いて「さすがだ」と呟いた。
誰にとってのベストかはわからないけど、いまわたしは人生の分岐点に立たされていることだけはわかった。
*