5.二十歳の葛藤
二十歳を迎えたわたしは人生を振り返ってみて、風邪を引いたことがなかったな、と今更に気づいた。
実家に帰省したときに風邪を引いていないか確認したら「気づかないうちに風邪を引いて、知らないうちに風邪を治したんだろ」とお父さんに言われた。確かにその線が濃厚だと思う。
わたしは大学に通うことなく、漁業で働いている。いま両手に握っている網を見下ろし、上下に揺れる船に乗っていることを思い出しながら、麟くんとの出会いは必然だったのかなと思い馳せた。
「鏡花、網の調子は良さそうか」
「うん、魚が引っかかってる感覚があるよ」
「今回も大漁だといいが」
気難しい顔をしながら、つるつるの頭を隠すように青色のニット帽をかぶるおじいちゃん。彼は麟くんのおじいちゃんで誰も後継者がいないことに悩んではいたけど、自分の代で漁業が途絶えてもいいと考えていたそうだ。
麟くんは一人っ子だったし、麟くんのお父さんもまた一人っ子だった。そのお父さんは麟くんが幼いときに自らの手で死を選んでしまったようだけど、細かなことが気になる性格の人だった、と麟くんが言っていた。
鯵や秋刀魚がいっぱい詰め込まれたバケツとともに港に帰還すると、麟くんの車が止まっていた。おじいちゃんが網の片づけをしながら「あんな孫でいいのか」とわたしに訊ねてくる。
「わたしとっても幸せだよ」
「だが、車の部品ばっかり作って、ろくに家庭を顧みない。それどころかスナックの娘さんに手を出したようだが」
「いつものことだから」
「そうか」
漁業の人は初めわたしを受け入れなかったし、麟くんの彼女でもないことに好奇心が薄まらなかった。
どんな関係なのか聞いていくうちに「世間一般的な友人」から離れていたことを知って、根掘り葉掘り聞かなくなった。その代わりに視線は氷よりも冷たくなったし、麟くんを薄汚れた子どもと評した。よく「親がああだから子どももそうなる」と言われる。
「鏡花、やっと帰ってきたね。見て、いい部品が作れたんだ。これでクラシックカーの修理もできそうだよ」
「へえ! みせて」
わたしのお父さんと話すうちに麟くんは変わった。自分と同じ境遇を体験したお父さんと馬が合ったらしい。
パソコン関係は趣味の範囲に留めて、お父さんとDIYについて話すうちにものづくりに興味が湧いたようだ。軽トラの整備を任されるようになってからは車に情熱を注いでいる。ただ、麟くんは飽き性なので、どれほど車の部品作りに熱を上げるかはわからない。明日には飽きている可能性がある。
「そういえば魚は釣れたの?」
「うん、いっぱい。ほら、あのバケツに入ってるのが今回釣れたぶんだよ」
わたしが指さしたのはおじいちゃんに任せた青いバケツだ。わたしは網を引っ張ったり、おじいちゃんの釣ったお魚をクーラーボックスに入れたり、細かな作業を任される。時々釣り竿を任されるけど、あんまりお魚が近づいてくれないので、釣り糸をむなしく眺めることが多い。でも海が好きなので飽きずにずっと眺めていられる。漁業はわたしにとって天職だ。
「また周輔さんから電話あったって?」
「そう、お母さんとデートしたいから居場所を教えてほしいって。それか、待ち合わせでいいから、とにかく会いたいって」
わたしが周輔さん家を離れるとき、意外にも藍実さんが渋った。お願いだからまだいてほしいと言われたけど、麟くんが大学に行かずに傍にいてほしいというので、漁業を手伝ってみたいと言ったのだ。世間話に「じいさんがひとりで漁業やってる」と聞かせてくれたのを忘れていなかったわたしに、麟くんはメガネを落としてしまうほど驚いていた。
「表では立派な会社員で、しかも部長にまで昇進したってのに。裏では初恋の既婚者を追いかけてるなんて、警察の手にも負えないほどのヘビーな話だ」
「ほんとうにね。でもお母さんは知名度があるから、悪いのは周輔さんになるけどね」
「立派な歌作れるようになってすごいよ。初めてその名前を聞いたとき、悪口叩かれまくってて有名な人だったから驚いた」
お母さんの歌はみんなから「中二くさい」「異世界を愛しすぎてる」「音楽をわかってない」とまで言われてたけど、いまでは売れっ子ミュージシャンの歌を作っている。作詞作曲で関わるお母さんの名前は瞬く間に知れ渡った。
陰ながら応援して、でも時々陰口をたたいて「世間にお前を広めたくない」「お前の歌は俺だけにあってほしい」と願い続けた周輔さんは、お母さんが有名になったとたん、会社で「俺の幼なじみなんだ」と暴露した。
世間を味方につけてお母さんと結婚したかったそうだけど、お母さんは既婚者であることを隠さなかったので、周輔さんの異常さが知れ渡るだけだった。それでも表の顔は普通の会社員なので、周輔さんの知り合いは見なかったことにしているらしい。
「今度の休み、鏡花の実家行っていいか? 挨拶したい」
「挨拶? いいけど」
なんの挨拶かはわからないけど、麟くんのことだから事情のある挨拶なんだろう。相変わらず電話線を繋いでいないお父さんたちと連絡を取り合うには、お母さんのパソコンにメールを送るしかない。お母さんは音楽活動を頻繁にはしておらず、お父さんの畑仕事を手伝いながら日々を謳歌しているので、パソコンを見るのは週に一度くらいだ。返信もそのくらいになるだろう。
漁業の手伝いをしながら多くはないお金をもらい、細々と麟くんの家で暮らしているわたしは押入れが住居だ。
狭いところに憧れていたし、麟くんの彼女さんとばったり会うのは気が引けたから。
いまだに彼女を作り続けながら結婚には踏み切らない麟くん。わたしに対しては心臓の音を聞くくらいで、性的な意味合いはない。ただ傍にいてほしいと、永遠に失われない関係性でいたいと言われたので、わたしはそれを守ってる。
彼氏を作ったことが一度だけあったけど麟くんが大泣きして、しばらく情緒不安定になったので一日で別れてしまった。
帰省したときにふたりに話すと「そうだろうな」となぜか納得されてしまった。お母さんは「麟くんを大事にね」と言っていたので、何となく彼氏を作るのはまずいんだろうと察した。
「それで挨拶ってなんだろうね」
麟くんと帰省する前にわたしひとりで帰ってきた。わたし以外のご飯を食べようとしない麟くんには、きちんと一日分のご飯を作っておいたけど、彼女さんが見たらどう思うんだろう。明らかに同居人がいるとわかるけど、麟くんはお互い合意の上で付き合ってるらしいから、わたしがいても気にしない彼女さんたちなのだ。だから、たぶん大丈夫なはず。
畑仕事をしていたお父さんと、縁側でそれを眺めながら編み物をするお母さんに駆け寄った。一応車の免許を持ってるけど、軽トラ以外の車を見るとお父さんが事故を思い出して発狂するので、近くのバス停からここまで歩く必要がある。一時間かかるから、結構な運動になる。
「普通は結婚の挨拶じゃないのか」
お母さんの隣に座りながら、挨拶の意味を考えるふたりを眺めた。せっせと野菜にお水をあげたり、病気になっていないか確認するお父さんは時々お母さんの様子を見る。お母さんのお腹はちょっぴり膨らんでいて、明らかな妊婦だとわかった。
「わたしに弟か妹ができるんだ」
「晴花が積極的なせいでな。俺はいままでずっと反対したつもりだった」
「お父さん、お母さんが大好きなら断れないでしょ」
「ああ、そうだ。いつも俺が折れる」
周輔さんはお母さんが妊婦さんだと知らない。お母さんは穏やかな表情で「知ったら死んでしまうだろうね」と言った。たぶん、それが事実になることはわかった。
37歳を迎えたふたりはむかしと同じように、ずっとふたりで生きていくんだと思っていたけど、お母さんは「十分幸せになったから、今度は記憶を変えていこうと思って」と第二の人生を始めたそうだ。何だか壮大な考え方である。
「いつかは可愛いカエルの車に乗って、新築の家に暮らして、旅行に行きたいなぁ」
「…晴花、俺のトラウマを克服させようたってムリだからな」
「ふふ、そうねえ」
事故のせいで軽トラ以外乗れず、お母さんと出会う前に新築の家で母親と再婚相手の父親から暴力を受けていて、自暴自棄になって全財産を使ってナンパした女性と旅行して、わたしが生まれることとなったお父さんのトラウマ。17歳で赤ん坊を押し付けられたお父さんは、お母さんの存在だけで生きてきた。いまでも、お母さんの存在だけでいいと願ってるお父さん。お母さんもそれを望んでいるけど、お父さんとの赤ん坊が欲しいらしい。
「鏡花ちゃんの送ってくれるお魚はとっても美味しいし、澄都くんが魚を卸す姿はとってもカッコいいし、あたしたちのところに新たな命が芽吹いてくれて毎日幸せなんだ」
「赤ちゃんがほしいと思ったのはなんで?」
「もう病弱じゃなくなって、澄都くんとコツコツお金も貯められたし、自由の兆しを感じたから。鏡花ちゃんもずっと兄弟がほしいって言ってたからね」
「もう十年以上前だけどね」
「待たせすぎちゃったね」
お母さんは小さなころのわたしの願いを聞いて「いつか必ず叶える」と言っていた。ふたりはまず初めにお母さんの病気を治すためにお金を貯めて、その次に安定したら子どもを作ろうと考えていたらしい。いつまでもお母さんが帰ってくると信じている周輔さんはきっとびっくりしたあと死んでしまうだろう。死因はショック死かもしれない。だが、事実、ふたりは純愛なのだ。
「赤ちゃんが大人になったら、次は?」
「そうねえ、旅行かなあ。そのときはあたしと澄都くんは六十歳を超えてるだろうから、年金だけで生きていけるし、変に近所づきあいを頑張らなくてもいいし」
「自由だね」
「ずっと自由だよ」
それはいいとして、挨拶ってなんだろう。お母さんが話を戻したのでお父さんも畑仕事を止めて、こちらに近づいた。お母さんがわたしのために飲み物を用意しようと動いたから、お父さんが察して代わりに動いたのだ。相変わらず連携が完璧だ。
「結婚の挨拶だったら、鏡花ちゃんは受け入れるの?」
「うーん、そんな感じしないけどなぁ」
「アイツはとんでもない爆弾を持ってくるからな。籍入れようがほかの女を抱くだろうよ」
お父さんが汲んでくれた麦茶を飲み干すと、お母さんの手元を見る。テーブルの脚の靴下は全部編み終えたので、いまは椅子の靴下を編んでいるらしい。お父さんがお母さんの隣に腰を下ろして靴下を摘まむ。相変わらず細長いそれを、お父さんはいたく気に入っていた。
「お父さんには理解できるの? 麟くんの気持ち」
「鏡花が生まれてなかったら、晴花が病弱じゃなかったら。晴花が普通だったら。俺も同じ人間になってただろうな」
「お母さんのことが好きなのにほかの人を抱くの?」
垂れ下がる靴下を摘まみながら、お父さんはお母さんの膝の上に寝転んだ。37歳になっても金の髪に染めるお父さん。お母さんがその金の髪を好んでいて、学生時代に王子様みたいと褒めたから、ずっと律儀に染めているのだ。
「普通だったら一線を引いて距離を取る。俺はそれを見て勝手に傷ついてほかの女を求める。元気な姿を見てると汚れた自分と比較して、傍にいれなくなる。自虐するんだ。お前は俺を選ばなくても、ほかに似合うやつがいるだろうって」
「ふふ、残念だったね」
お母さんはお父さんの話を聞いてもほほ笑むだけだった。ほかの女性と付き合ってる姿を想像して胸が痛まないなんて。わたしですら好きな人が誰かと付き合っていたり、肌を重ねているのを想像したら死にたくなる。これが普通の感情なんだろうか。
「晴花は目を離したら倒れてるし、なぜか傍にいるのはいつも俺だし。傍に気が狂った幼なじみがいるのに平然としてるから、俺じゃないとダメなんじゃないかって錯覚する。常に見るようになって、手を貸すようになったら、ほかの奴なんてどうでもよくなった」
お母さんのことだから辛くても平気なんて言わずに「吐きそう、傍にいて」とか言いそうだ。
あと、寂しがりやだから「きょうは泊っていって。でないと寂しい。あなたしか頼れない」とかも言うだろう。お父さんだって家で暴力を振るわれていたら帰りたくないだろうし、遠慮してもお母さんのおばあちゃんを使って引き留めさせたら、もう帰る気は失せる。
強引で素直で、周りを気にしないお母さんだからこそ、お父さんは手放すことができなかった。
「わたしもふたりみたいな人と結婚したいなぁ」
「だったらアイツはやめたほうがいい。お前は普通だからな」
スパッとお父さんが言い切った。驚いて視線を落とすと、お母さんの膝の上でまどろむお父さんがはっきりした口調で続ける。
「いくら普通じゃないふりをしていても、お前は理性的だ。世間体を気にして大学に行こうとしていたし、漁業に行っても、周りの言葉を気にして俺たちに報告してただろ。結局あの狂気の幼なじみの家に三年間暮らしても殺人を犯さなかったし、未遂もなかった。お前は人を殺すことなんてできない、ごくごく一般的な思考と行動力なんだよ」
「確かに」
「アイツがお前を家に閉じ込めたがっても翻していたし、女を連れてきたときはトラブルにならないように姿を隠す。理不尽な暴力を受けても愛想笑いで済ませる女と同じだ。いつだって言い返せないし、自分の意見を言わない。相手に嫌われたくないから」
お母さんは近くに置いてあったみかんの皮をむき始めた。前に漁業に行くと話した時も、お母さんは平然とバナナを剥いて食べ始めていた。わたしだったら正座して話を聞くし、できても麦茶を飲むくらいだ。
「お母さんと血がつながってたらよかったのに」
いままで言わなかった本音を零すと、お母さんはわたしの手にみかんを半分置いた。当然食べる気が起きなくて、ただじっと見下ろす。お母さんはひと房頬張ると、残りはお父さんの口に放り込んだ。今度はおせんべいに手を伸ばしていて、お父さんが「俺に落とすなよ」と言う。お母さんは「絶対落とすからやめとこう」と笑った。
「血が違っても環境で性格が決まるのよ」
まだ名残惜しそうに両手でおせんべいを握りしめるお母さん。理性が保っているのか、封が切られていない状態だ。
むかし、授業参観の手紙や学校行事の紙を渡したときと同じ表情だった。宝物みたいに、好きなものを見つめる視線。
大好きな子どもの行事に関われる幸せ。お母さんは血がつながっていなくてもわたしを愛してくれている。
「だから、鏡花ちゃんはお父さんの姿を見て、周りの人を見て、あたしを見て、立派な人になろうとしたんじゃないのかな。何か鏡花ちゃんの理想があったのかも。自分らしくいることはとても難しいけどね」
お母さんの宝石みたいに輝く瞳は、いまわたしに向けられている。わたしとの会話を慈しみ、まるで抱きしめるみたいに。言葉ひとつにお母さんの愛を感じた。
「あたしは鏡花ちゃんと姿や性格が全く違うし、澄都くんとも違う。同じ人なんていない。でも、あたしたちは親子だから似ているところはある。あたしたちは紛れもなく親子だからね。自分の幸せを常に考えたらいいと思うよ」
「さすがは歌を作ってるだけあるな」
お父さんは美しい詩を聞いた人みたいにうっとりとしていた。ちょっと赤らんだ頬をお母さんが指先で撫でる。
わたしは麟くんと、こんな関係性になれるだろうか。何だか周輔さんみたいに、共依存を望んでしまいそうだ。
「だけど、鏡花。自分の発言には責任を持てよ。晴花の狂った幼なじみは外面を気にしているから、いまだに生き残ってる。自分の中で決定的なことが起きない限り、例え晴花と会えなくなろうと、晴花がいた思い出の場所でずっと生きていける。アイツは晴花が子どもを産んで、立派な新築に住んで、世間一般的な幸せを掴んだ姿を見たら本気で死ぬぜ。晴花もそれをわかっていた。でも、いつだって俺を優先してくれる」
お父さんが顔の向きを変えて、膨らんだお母さんのお腹に顔を当てた。むかしみたいに胸に顔をうずめることはあるみたいだけど、いまはお腹に顔を押し付けることが多い。
「俺が望んだんだ。心のどこかで、自分が生んだトラウマを克服したいって。晴花をもっと幸せにしたいって」
いつだってお母さんが望んでいるから、お父さんも流されるがままについてきたのだと思った。県境に住み始めたのも、周輔さんが見つけやすいように、お母さんのおばあちゃんの家からそれほど遠くない場所を選んで。電話線を切っても、パソコンは繋いだり。それらすべてお父さんが周輔さんに向かって宣戦布告していたのだろうか。周輔さんの執着を試していたんだろうか。
「俺も晴花に感化されたんだろうな。自分たちが世間の目にさらされる場所に行って、子育てして、好きなように生きても受け入れられるのか。俺がやりたかったことをやっても許されるのか。トラウマを乗り越えて、晴花ともっと開放的に生きられるのか。残りの人生すべてかけて、全部試したいんだ」
「おばあちゃんがあたしの卒業を前にして亡くなっちゃったから。突然農業を手伝ってもらうように言ったのはあたしなんだけどね」
「学生だった俺はほかに選択肢がなかったし、住む家もなかった。晴花がいなかったら鏡花を腕に抱いて、路頭をさまよっていたぜ」
不思議な形で成り立っている夫婦だな、と感慨深い気持ちになる。もしふたりに最愛の子どもができてしまったら、わたしは受け入れられるんだろうか。ふたりのもとに帰ってこられるだろうか。わたしと違って、ふたりと血が繋がっているし、お母さんの血が半分入っているなら普通ではないように思える。そんな子どもを見て、わたしは平気でいられるんだろうか。
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