三.俺
若い頃は、それはそれは、相当なやんちゃをしていた。自分が最強だという根拠のない自信を粉々に砕いたのは、女で、まさかその女が、自分の妻になるとは思いもよらなかった。でも、最愛だった。そんな最愛の女は、まだまだ元気な俺を残して死んだ。
二人で始めた喫茶店。コーヒーと甘い物を楽しんでもらうことをコンセプトに、役割分担。コーヒー豆を焙煎するのは、それが長年の趣味でもある妻が担当。甘い物に目がなく、作るのも好きだった俺がタルトを作る担当。コーヒーが客受けしなかったらタルトばかり売れて悔しくなるから、セットメニューのみでいこう、と言った時の妻の顔が忘れられない。コーヒーは、妻が淹れても、俺が淹れても、本当に不味かった。初めのうちは、色々と試行錯誤していた妻も、淹れると不味くなるしかないコーヒーにばかり時間を裂けない、と、産まれた娘の世話で忙しくしていて、いつになっても、不味いコーヒーしか提供出来ずにいた。でもこの不味いコーヒーが癖になる、と、常連は口を揃えて言ってくれて、店の運営が軌道に乗るのに、それほど時間はかからなかった。
あなたは目つきが怖いから、いつも笑っているようにして、言葉遣いも丁寧に、と言うのが、妻の口癖だった。今では、表情筋が凝り固まって、このお面みたいな顔が平常運転。初見なら、昔やんちゃしていたなんて微塵も分からないだろう。
妻が亡くなった日のことは、日が経つにつれフィルターがかかっていく。俺が今思い出せることは、前日の夜はいつも通りに一緒に風呂に入り一緒にベッドに入って、次の朝目を覚ますと、冷たくなった妻が隣で横たわっていたことぐらい。泣いている暇さえなく、葬儀やら何やらで一週間くらいが早送りで過ぎ、ひと段落した頃、一人で家にいる静けさを実感したら、涙がとめどなくあふれた。ひとしきり泣いた後、今後のことをぼやっとした頭で考えた。妻が最後に焙煎した豆が無くなるまでは、店を開けておこう。一人娘に子どもが産まれて困っているようだったから、近くに引っ越して孫守りをしながら、ひっそり一人暮らしをしよう。気が向いたら、その場所から何かを始めるのもいい。
客はまばらだが、不思議と途絶えることがなく、経営に苦しむこともなく閉店を迎えられるのは、幸せなことだ。店を閉める日も、普段通りの時間が流れていた。常連の爺さんに、この不味いコーヒーが飲めなくなるのは残念だ、と言われ、おそれいります、と返す。タルトをおいしそうに頬張る子を見て、自分が作り出した物を、おいしいと食べてくれることに嬉しさを感じる。そして何より、不味いコーヒーを不味そうに飲んだり、不味いと文句を言われたりすることが、なぜかとても、嬉しいんだ。
物思いに耽っていると、何かが落ちる音がして、そちらに向かう。紙ナプキン入れを落としたようだ。こういう時の対応にも口うるさかった妻を思い出しながら、紙ナプキンを丁寧に拾って揃えていく。落とした主も手伝ってくれるのを気配で感じ取りながら、自分の目に見える範囲の物を拾い終わって振り返ると、テーブルの下に丸まった背中を発見。声をかけて、しまった、と思った瞬間には、遅かった。客はテーブルに頭をぶつけ、それを防げなかったことと引き換えに、テーブルが倒れるのを阻止。とりあえず、大事には至らなかったようなので、業務に戻る。いつも肝が据わっていて堂々としている妻は、なぜかこういうアクシデントに弱かったことを思い出し、口の端が緩む。
ヒールの音を響かせて、化粧室から姉がカウンターに戻ってきた。もったいない、と言いながら残っていたコーヒーを飲み干し、ついさっき化粧を直してきたばかりだろうに、目元をぐちゃぐちゃにさせて、店を出て行った。妻のために店は続けていくべきだと、最後まで閉店を猛反対していた姉。姉が妻のことを可愛がっていたのは知っている。だけど、今日で閉店することは揺るがない。この店を始める時、セットメニューを崩さないことと、もう一つ決めていたことがある。どちらか一方が倒れたり死んだりしたら、店は閉めること。二人で始めた店が、残された片方の心と体の負担になるのは避けるため。まさかその時がこんなに早く訪れるとは、思いもよらなかったなぁ。
雨上がりの窓の外を眺めて、最後の閉店業務を行う。扉のガラスを丁寧に拭いた後、閉店する旨の張り紙を貼ってからふと思う。そういえば、常連や顔馴染みの中でも親しい人には閉店することを伝えていたけれど、それ以外の人に向けてのお知らせを特にしていなかった。明日、この店が閉店したことを知って、惜しむ人はどのくらいいるんだろうか。そんなことを思いながら、小綺麗になった店内で、残しておいた一人分のコーヒーを淹れる。香りは上等なんだけどなぁ。どうしてこんなに、美味しくないんだろう。どうしてこんなに美味しくないのに、また飲みたくなるんだろう。どうして、おまえはいなくなってしまったんだろう。どうして、どうして。
静寂が時を止めるかのような空間。二人の息づいた時間は確かにそこにあって、取り残された俺の形だけ浮き彫りにする。
おまえのいない日々も生きていく。どう足掻いても涙が出る最後の夜を、月明かりが優しく照らし続けていた。