二.僕
厳しい母のもとでずっと習い続けていたピアノは、弾きたいと思って弾いたことは一度もない。ただ、自分で作った曲を弾く時だけは本当に楽しくて、辞めたいと思うことは一度もなかった。親元を離れ、色々自由になれた身になってから気づく、母のありがたみ。あなたからもらった「ピアノが弾ける」という一生の財産を、台無しにしない生き方をしていきたいけど、その武器だけで戦っていく自信はなくて、迷い続けている。
音大に通いながら、作った曲をピアノで弾く動画を投稿して、自分の世界を守っていく日々。進路の方向性を決めなければならない時期に差し掛かると、そんな日々は錆びた歯車のようにうまく回らなくなっていく。一番新しい動画を上げてから、何ヶ月が過ぎているんだろう。いわゆる、スランプというやつに陥っている。
だから今日は、やったことのないことに挑戦しようと思う。降りたことのない駅で降りて、ブラブラして、いい感じのお店に入って、お茶をして。部屋に篭りがちの自分にはなかなかの冒険プランだし、それでスランプが抜け出せるとは思っていないけれど、気分転換くらいにはなるはず。早速、荷物をまとめて家を出る。気分転換をしようと思っているのに、パソコンを忘れずに持ってきてしまう自分に、呆れもするが誇らしい気持ちもある。
適当な駅で降りて、人の流れに身を任せながら改札口を出る。足早に歩いてカフェを見つけては、人の多さに嫌気が差して、通り過ぎる。たった数メートルのその時間が、とてつもなく長く感じてどっと疲れて、おまけに雨も降ってきた。今日はもう引き返そうかと心が折れかけた僕の目の前に、その店はひっそりと佇んでいた。雨も凌げるしもうここしかない、と、覚悟を決めて入店。服や鞄の水気を少し手で払って店内を見渡すと、人はまばらで、落ち着いた雰囲気が、コーヒーや甘い物の匂いと一緒に漂っていて、ほっと一息が出た。注文口で待ち伏せている人以外に従業員らしき人が見当たらないので、おそらくあの人が店長なのだろう。そんなことを思いながら、注文口へ向かう。コーヒーさえ飲めればよかったのだが、タルトとセットでしか注文できないようだ。甘い物が苦手な僕は悩んだ末、おまかせで、と言いながら顔を上げると、店長さんがとても悲しそうにまゆげを歪めたので、なぜかとても申し訳なくなって、いちごのタルトをお願いした。
席に着いて、とりあえずコーヒーを一口飲む。びっくりするくらい美味しくなかったが、飲めないこともないので、なんでもないような顔をしてもう一口。いちごのタルトが食べて欲しそうにてらてら光っているので、いちごだけつまんで、コーヒーを飲むことに専念。ホットコーヒーにしたので体が温まってきて、上着を脱ごうとしたら、テーブルの端にあった紙ナプキン入れに手が当たって、落としてしまった。音に気づいた店長さんが、こちらで片付けますね、と来てくれたが、拾う姿をただ見ているだけではいたたまれなくなって、自主的に拾うのを手伝った。意外と距離の近い隣の席のテーブルの下にも紙ナプキンが散らばってしまったので、人がいなくてよかった、と思いながら、最後の一枚を拾う。お手数をおかけしました、と言う店長さんの声が背中越しに聞こえ、大丈夫です、と起き上がった時に思い切り頭をぶつけてテーブルが傾いた。声にならない痛みに耐えながら目を開けると、店長さんがテーブルをうまいこと支え、倒れるのは回避された模様。奇跡的に、食器類や飲み残してあるコーヒーもひっくり返らず済んで、しゃがむ僕の膝元にこの席の利用客の物であろうノートとシャープペンが落ちていた。ノートは落ちた衝撃で開いていて、何かが書いてあり、そのワンフレーズが目に飛び込んできた、かと思うと、頭の中で作りたい曲が爆音で流れ出した。
本当に大丈夫ですか?という、店長さんの声で我に返り、言葉が出ずに頷きながら、ノートとシャープペンを拾ってテーブルの上に戻し、自分の席に着く。冷静になりたいような気がして、残っていたコーヒーを飲み干す。
駄目だ、冷静でなんかいられない。
パソコンとヘッドホンを取り出すと、プログラムされた機械のように手指が動いて、あっという間に一曲が出来上がった。頭にこびりついて離れないフレーズ。あれは一サビ後に出てくる部分かな。足し算じゃない、引き算かな。あのノートに書かれているのは歌詞だったのかな。あぁ、歌詞の全貌が知りたい。その歌詞に見合った曲を作りたい、言葉に音を当てたい。僕に、一目見たら全部記憶できる目と頭があったらなぁ。自分が作った曲に歌詞が欲しいと、こんなに思ったのは初めてで、色々な感情が入り混じって、何が何だかわけが分からない。とにかく、サビ部分を繰り返し聞きながら、微妙な調節を重ねていく。
隣の席の人が戻ってきたのは、なんとなく気配で分かった。だけど自分の作業に没頭していたくて、気づくとその気配は消えていて、隣のテーブルは綺麗に片付けられていた。
追いかけなきゃ、と思った時には、もう席を立っていた。
出入り口付近まで来て、扉の外でぼやける人影を見つけ、立ち止まる。その人は、本当に隣の席に座っていた人?仮にそうだったとして、声をかけて、どうするつもり?頭の中で、もう一人の僕が質問攻めをしてくる。席を立ってしまったから、戻るのも気が引けて、躊躇している間、生まれたてで未完成な曲が頭の中で爆音で鳴り続けているせいで、振り絞ろうとしていた勇気よりも、衝動が勝ってしまった。
荷物を抱えるようにして、小雨の中店を飛び出す。無我夢中で家まで帰り、曲が納得する形になる頃には、すっかり夜も更けていた。気分転換くらいになればいいやと思っていた今朝の自分とは、全く違う生き物になったかのよう。作りたい曲が、頭の中でたくさんストックされていく。
またあの店に行けば、スランプから抜け出させてくれた主に会えるだろうか。出来上がった曲をリピート再生して、かすむ目をこする。降りた駅も店の名前も思い出せないのに、びっくりするくらい美味しくなかったコーヒーの味は思い出せる。
曲のタイトルは、起きてから考えよう。ニヤける口元が元に戻らないまま、睡魔を受け入れた。