表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

一.私

 私は、歌が好きだ。歌うこと、というよりも、言葉を紡ぐことが好き。自分の言葉で紡いだ詞に曲がついたら、どんな歌になるのか興味はあるが、楽譜はかろうじて読めるくらいで、作曲のスキルもセンスもない。ピアノが弾けたらなぁ。ギターが弾けたらなぁ。思うだけで、努力をしようとするわけでもなく、書き溜めた作詞ノートが積み上がっていくばかり。どうにかしたいけどどうにもできないまま、淡々と過ぎていく日々の中に居る。


 最近、立ち寄る喫茶店がある。こじんまりとしたお店で、いつ入っても柔らかい静寂があって、人もまばらで、とても落ち着くので気に入っている。店長さんには悪いけど、コーヒーがびっくりするほど美味しくない。それなのにタルトが美味しくて、タルト食べたさについつい足を運んでしまう。タルトさえ食べられたらいいのに、なぜかコーヒーとセットでしか注文ができなくて、ニ回目に入店した時に、コーヒー以外の飲み物はないのか聞いてみたら、申し訳ございません、と、糸目で温和そうな顔のまま言われ、単品で注文できないのか、とは聞くに聞けなかった。残すのは忍びなくて、今日は美味しくいただけるかも、と飲んでみるが、今日も駄目だった、といつも飲み残してしまうので、次に来る時に煙たがられないかと心配になるけど、何も気にしていないかのような店長さんに、いらっしゃいませ、と言われると、許されている気がしてホッとする。


 席について、ノートを広げたら、そこはもう、自分だけの空間。小さい音量で好きな歌を流しながら、思い浮かんだ言葉を書き連ねていく。書いては消して、消しては書いて。タルトを食べて、美味しくて幸せで、コーヒーにチャレンジして、びっくりするほど美味しくなくて水を流し込んで。そしてまた思い浮かんだ言葉を書いては消して、消しては書いて。休日の贅沢な時間の過ごし方を、満喫していく。


 昨日の仕事帰りに思いついたフレーズを、ようやく繋げて一つの詞が出来上がった頃、外が雨模様になったことに気づく。家を出る時は雨が降っていなかったので、傘を持ってきていなかった。一つの詞ができたら帰るという暗黙のルールがあったが、今日はもう少し居ることにして、今出来上がった詞を再考しながら、雨足が弱くなるのを待とう。その前に、お手洗い。


 雨が降っているから、音楽を消してヘッドホンを外す。雨音は心地がいい。聞こえているのに、こんなに静か。


 一つしかない化粧室に、先客がいたのでだいぶ待たされた。待っている間、雨音とか、何かが落ちた音とか、コーヒーを淹れる音とか、様々な音に身を委ねて退屈をしのぐ。先客は長身のマダムで、すれ違い様にふわりと笑って、上品な香水の匂いをふりまき、ヒールの音を高く響かせて去って行った。自分があの美貌に敵うとは到底思わないのに、いつもより化粧直しにこだわっていたら、長居をしてしまった。


 席に戻ると、飲み残されて冷め切ったコーヒーが、おかえり、と言わんばかりに小さく揺れた。席につき、ノートを開こうとして感じた、違和感。席を立つ前、書き途中のページにシャープペンを挟んでいったつもりだったが、表紙の上に乗せられている。誰かに見られたのかな、落ちたのを拾ってくれたのかな、まぁいっか、と、ここまで三秒。好きなことに集中する時、必要な情報しか拾わない目と耳。周りの目も気にならない自分に、心の中で拍手していたら、隣の席でパソコンと睨めっこをしている人の、ヘッドホンから聞こえる音が気になった。今し方、気にならないと心の中で絶賛していたのに。ヘッドホンを外しているせいか、と適当な理由で片付けて、いかにも気にしていませんという態度でノートに目線を落としたまま、かすかに漏れるその音に耳をすませる。聞いたことがあるような、ないような。歌声のないインスト曲。ずっと聞いていたいような、むずがゆいような。気になり出したら止まらない。心がザワザワしていく。


 集中が途切れたんだ、よし、帰ろう。


 荷物を手早くまとめて、出入り口に向かう。ガラス越しに外をのぞくと、雨は弱くはなっていたが、止んではいなかった。とりあえず外に出て、走って行こうか、どうしようか、と迷っていると、サッと誰かが駆け出して行った。隣の席に座っていた人だ。荷物を守るように抱えて、遠くなって行く背中をぼんやり眺めていたら、あの、歌声のないインスト曲が頭の中で鳴った。鼻歌で歌おうとしたら、ちゃんとは覚えてなかったようで、歌えなかった。誰の歌なんだろう、どんな歌詞なんだろう。そんなことを考えながら立ち尽くしていたら、歩いて帰れそうなくらいの雨足になっていた。でもやっぱり、完全には止んでいない。


 あの人は、あの喫茶店のコーヒーを飲める人なんだろうか。そんなことを思いながら、足早に家路についた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ