Cの1ヴァーミリオの怪人。
大聖堂前の広場から中央へ伸びる石造りの街道を、マクシミリアンは脇目も振らずに駆け抜けていました。
街道の喧騒が、彼の姿を認めた地点からざわめきへと質を変えていきます。
中継映像で見たばかりの花嫁を腕に抱え、血走った眼で駆ける男の姿に、行きかう人々は一瞬だけ息を呑みました。
「おい、あれ………!」
「ジャンヌ様だ!」
「本当に連れ出しやがったぞ!」
誰かが叫んだ次の瞬間、往来の空気が一変します。
人々は我先にと壁際へ身を寄せ、露店の店主は荷台を引き、通りの中央に一本の道が生まれました。
「走れ!止まるな!」
「マクシミリアン様!」
「左だ!中央はまだ混んでるぞ!」
風になびく純白と、それを運ぶ男の必死すぎる形相。そのあまりの切実さに、彼らはただ、半ば祈るような顔でその背を送り出していました。
「ありがとうございます!皆様!」
腕の中には、ドレスに包まれたジャンヌの身体。
幾重にも重なった生地は見た目以上に重量があり、さらに、彼女が身に付けた宝飾の類はどれも悪趣味なほど重たく、走るたびに耳障りな音を立てています。
それでも、マクシミリアンの脚は止まりませんでした。いいえ、止まるわけにはいかなかったのです。
「マクシーン……お前たち、本気でこんなことを…」
「ええ。本気ですとも…!」
返ってきた声に、いつもの柔和な青年の響きはありません。
微笑みすらかなぐり捨てた彼の横顔には、ただ一つの決意だけが刻まれていました。
「ルキウス様も、レオン様も、すべて承知の上です。ですからどうか、今だけはお静かに」
「…しかし!」
「わかっています!全部わかっています!けれど…これでいいんです!」
自分に言い聞かせるように告げたマクシミリアン。
―――いいわけがあるか、この愚か者。
その言葉は喉を通りませんでした。
マクシミリアンの横顔は、水を差すにはあまりにも必死で、滑稽に見えてしまうほどに純粋だったのです。
彼にこれほどの苦行を強いているのが、他でもない自分の重みであること。
その光景を取り巻く人々が、まるで祭りの続きを眺めるように顔を高揚させていること。
「ジャンヌ様!ジャンヌ様ー!」
「急げ急げ急げ!」
「道を空けろー!」
その事実が、麻痺していたジャンヌの意識をふいに現実へ引き戻しました。
本気で逃げるつもりなら、この大げさな衣装を引き裂いて、自分の足で彼と並走した方が早いのです。
そう気づいた瞬間、心はすっと冷めていきました。
「マクシーン。貴様は何をしているのか分かって…」
「言わないでッ!!…言わないでくださいジャンヌ様…!お願いです!」
悲鳴のような懇願に、ジャンヌは言葉を飲み込み、呆れた顔で彼を見上げました。
絶え間ない揺れに同調するように、豪勢な耳飾りが彼女の頬を叩きます。
奪われた花嫁というにはあまりに冷静な、やれやれとでも言いたげな眼差し。
ですが、マクシミリアンは彼女が口を開くより早く、吐き出すように続けました。
「私だって不本意です!けどジャンヌ様!あなたと勇者が夫婦になるなど……私ですら…その…虫唾が走りますッ!嫌なんです!」
石畳を蹴るたびに、風が二人の身体を打ちます。
背後からはなおも、怒号と歓声と、何かが崩れるような轟音が入り混じって聞こえていました。
通りのあちこちに設けられた巨大な投影機の中には、上級聖務特使――そしてルキウスたちが、いまだ派手に暴れている姿が映し出されています。
ですが、その喧騒も、曲がり角を二つ三つ越える頃には、少しずつ雑踏に飲み込まれ始めていました。
目指すのは都市の中央にある浮きシップのターミナル。
予定されていたパレードの通過地点を大きく迂回しながら、彼は早くも施設内の最短ルートを脳内で何度もなぞりました。
ジャンヌという重量物を腕に抱え、沿道から飛ぶ熱狂と声援に背中を押されながら、彼は必死にその道を突き進んでいきました。
頭上を通過する影。雲ではありません。絶え間なく発着を繰り返す浮きシップの船体でした。
「来たぞ!こっちだ!」
「がんばって!」
「みんな道をあけろ!」
背中を叩くような声に、マクシミリアンの心臓は早鐘を打ちました。
いち早く状況を理解した騎士たちが、あちこちで怒鳴り声を張り上げ、人波を押し分けています。
一方で、事情を知らぬ多くのプレイヤーたちは、ただ目の前で起きた異常事態に好奇の眼差しを注ぐばかりでした。
肺は焼けるように熱く、痺れた腕の感覚はとうに失われていましたが、視線の先には自由な空へと繋がる門がその威容を現しています。
「…よし。ジャンヌ様!海上で護衛艦隊が待機しています!ランデヴーポイントは………!」
「…」
必死なその声を、ジャンヌはどこか遠く、数週間先の未来から聞いているような気がしていました。熱に浮かされた周囲とは対照的に、彼女の意識だけが静かに凪いでいたのです。
目指すターミナルは、天を衝く巨大な塔の頂にあります。
その足元に広がる往来にたどり着いた瞬間、マクシミリアンを包む空気が、物理的な重圧を伴って変質しました。
大勢の人々。その肩越しに、やけに目を引く男が立っています。
灰色の三つ揃えのスーツを隙なく着こなし、整えられた口髭を蓄えた男。その男が、マクシミリアンの視線に気づくと同時に不敵に口元を歪めました。
―――殺される。
本能が、マクシミリアンの背筋に冷水を浴びせかけました。
彼は迷わず、腕の中のジャンヌを前方へと放り出していました。騎士としてあるまじき、しかしそうせざるを得なかった唯一の判断。
マクシミリアンはそのまま剣を抜き放とうと柄に手をかけましたが、現実は彼の反射を許しませんでした。
顎の骨が砕ける、鈍く、取り返しのつかない音が脳内に響き渡ります。男の拳がめり込んだ瞬間、マクシミリアンの身体は文字通り弾丸と化しました。
空を飛び、凄まじい衝撃と共に、ターミナルである塔の中腹へと体が突き刺さりました。
轟音、悲鳴。眩いほどに光を反射する外壁がひび割れ、街全体を揺るがすほどの衝撃に、塔がゆっくりと、傾いていきました。
「…くっ!なんだ!?」
ジャンヌは街道に投げ出されたまま、背後を振り返ります。
逃げ惑う群衆、あるいは何が起きたのか分からず呆然と立ち尽くす人々の頭上に、砕かれた塔の破片が光の粒子となって降り注いでいます。
先ほどまでマクシミリアンがいた場所、そこに、見知らぬスーツ姿の男が立っていました。
男はスーツの裾を軽く払うと、流れるような所作で胸ポケットから煙草を取り出し、その先端に点火します。
「ヴァーミリオの怪人」
男は軽く両手を広げ、静かにそう名乗りました。
整えられた紳士の装い。しかし、そのブラウンの瞳の奥には、飢えた獣が放つような不気味な赤光が揺らめいています。
「ヴァーミリオの…怪人?」
ジャンヌがその名をなぞるように復唱した、次の瞬間。
視界から男の姿が消え去りました。
火のついた煙草だけがその場に取り残されていました。
風さえ追いつけない速度。直後、湿り気を帯びた不気味な声がジャンヌの耳先をくすぐりました。
「では、頂くとしよう」
心臓を素手で掴まれたような戦慄がジャンヌを襲います。
振り返る間もなく、背後に立った怪人が牙を剥きました。その口元が、逃れられない一つの摂理として、彼女の白い首筋へと迫りました。




