Bの1氷遊び。
広場の中央では、もはや祝祭の名残すら見当たりませんでした。
割れた石畳。折れた椅子。踏み荒らされた花々。そして、逃げ遅れた幾人もの聴衆が、悲鳴すら吞み込まれたような顔で立ち尽くしています。
その上空。
土煙を背に、ベラトリスはまるで舞台の幕間を楽しむ歌姫のように、優雅な姿勢で浮かんでいました。
紅く彩られた爪の先が、滑らかに持ち上がります。
「真空刃」
放たれた真空の刃が、空間そのものを薄く断ちながら迫りました。
「ぬッ…!」
―――ギィンッ!
ルキウスの剣が火花を散らします。
受け止めたはずの斬撃は、しかし鋼を打った手応えに乏しく、ひどく乾いた衝撃だけを残して彼の腕を痺れさせました。
続けざまに、二閃、三閃。
目に見えぬ刃が石畳を裂き、周囲の噴水や街灯を紙細工のように断ち割っていきます。
ルキウスは正面からそれをいなし、踏み込み、なおも距離を詰めようとしました。
ですが。
「近づけるとでも?」
薄いヴェールの向こう、ベラトリスがくすりと笑いました。
次の瞬間、彼女の周囲に展開していた淡い光の輪が、不気味に脈打ちます。
広場に取り残されていた人々の肩が、びくりと跳ねました。
「……ッ」
老爺が一人。
泣き腫らした女が一人。
まだ幼さの残る少年までもが、虚ろな目のまま、ふらりとルキウスの前へ歩み出てきます。
『敵!敵!ベラトリス様の…敵ぃ!』
「…!」
彼らは糸で吊られた操り人形のようにぎこちない足取りで、ルキウスとベラトリスの間へと割り込んでいきました。
かつて幸福を誓い合うはずだった祭壇の前で、ルキウスは自身の呼吸を深く、鋭く整えていました。
「…貴様」
ベラトリスは唇の端に笑みを乗せたまま、無邪気に肩をすくめます。
「あら、お可哀そうに。普段の行いが報われず、残念でございますわね?どのようなお題目を並べ立てようとも、あなた方のやっていることは、独りよがり。自らを慰めるだけの惨めな行為。……立派な騎士様?この方々を、斬れるのでございましょうか?」
彼女がそう言い終えた直後、『魅了』に瞳を濁らせた数人が、嬉々としてルキウスへと躍りかかりました。彼らは武器すら持たず、ただの肉の壁としてルキウスの視界と剣筋を遮ります。
「くっ…!」
彼は押し寄せる人波をいなし、彼女の最も得意とする位置へ、あえて布陣します。
「笑わせるなベラトリス。普段の行いとやらが報われないなどと、誰よりも証明しているのは貴様ではないか。心では拒絶しつつも、行動を起こせない臆病者めが」
『大気よ蹂躙せよ』
「ッ!?」
重ねて放たれた風塊が、ルキウスの見え透いた挑発ごと、逃げ遅れた人々ごと、一直線に薙ぎ払われます。
人の悲鳴、骨が折れる音。
「…」
落ち葉の如く軽々と舞い上がる肉の壁。
暴風がルキウスの肩口を掠めました。継ぎ目が裂け、宙に投げ出された鎧の一部があっという間に削り取られます。
ですが、その瞬間でした。
ルキウスの足が、鋭く踏み込みます。
「…まあ」
ヴェールの奥、ベラトリスがわずかに目を細めます。
「なんて哀れな生物なのでございましょう?まるで犬」
指先から放たれるのは、美しくも無慈悲なコードスキルの連鳴り。その全てに、明確な殺意が込められていました。
「犬で結構。…少なくとも犬は主人を選ぶ」
ルキウスは最小限の動きでそれらを躱し、あるいはあえて急所を外して受けることで前進を止めません。
「恥をかかされる主人とやらも、つくづく災難でございますわね」
「思わないさ…恥などと。あのお方を、貴様のような女の物差しで測るな」
「ずいぶんと小さな物差しでございますわね。小さな小さな、箱庭でしかいきがれない…哀れで小さな男」
「ぬかせ。好きなだけ、望むだけ、味方とやらを増やすがいい。一人で立てぬものほど、群れを美しいと呼びたがる」
「尊敬も賛美も得られない、醜い敗者の遠吠えでございます」
「構わないさ。貴様は美しい。誰もがそう言うだろう…だがな」
ルキウスの嘲笑を孕んだ言葉が、先んじてベラトリスの耳に届きます。
石畳が爆ぜ、乱舞する殺意の中を突き進み、ルキウスの剣がベラトリスの懐へ届こうとしました。
彼女は即座に後背へと飛び退きます。
「お前は、あの下種には選ばれない…!」
研ぎ澄まされた一閃が、ベラトリスの豪華なドレスを切り裂き、彼女の豊満な胸元を掠めます。
再び距離を取るベラトリス。着地する、体中に深い傷を負ったルキウス。
優劣は明らか、しかしルキウスは、早くも勝ち誇ったかのように、冷笑を浮かべました。
「これを見ている者には……」
彼がそう発言すると、死体のように顔を青くした取締役が巨大なカメラのレンズをルキウスへと向けました。
「ぁぁ…ぁぁ…」
ベラトリスの精神支配、魅了に抗う、強烈な矜持。
ルキウスは憐れむように、あるいは賞賛するように鼻を鳴らし、恐ろしいほどに美しく構えた剣を翻しました。
「諸君らの後学のために教えておいてやろう。俺のウィリ、それはすなわち『傷の連撃』ッ!!」
その宣言と共に、ルキウスの全身から目には見えない鋭利な気配が立ち上がりました。
空気が張り詰めます。まるで彼の輪郭そのものが、ひと回り鋭く研ぎ上げられたかのようでした。
「敵に傷を刻むたびに、この身は研ぎ澄まされる。一太刀ごとに速く、重く、鋭くなる―――それがこの俺の力だ…!」
「…傷?」
上空で、ベラトリスの指先が胸元をなぞりました。
切り裂かれた布の下、白い肌に走る確かな痛み。
「無駄だ」
ルキウスが獰猛に嗤います。
「治したところで意味はない。俺の刃は既に、研ぎ上げられているぞ…ベラトリス!」
白磁の指先が止まり、ベラトリスの余裕に満ちた微笑の端が、氷の亀裂のようにわずかに歪みます。
「元の非力さを棚に上げた…なんとも貧しいウィリでございますこと」
「なんとでも言うがいい。それより、もっと高く飛ぶべきではないか?次の刃は深くなるぞ」
ベラトリスの視線が、ルキウスの背後―――広場を囲む城壁の尖塔や、入り組んだ建物の屋根の隙間を走ります。
彼女はそれらの直線上に、絶えずに肉の壁を配置していました。
「高く飛ぶだけの愚かな鳥は、猟師の格好の得物。……この期に及んで、そのように無粋な決着をお望みでございましょうか?」
ルキウスは忌々しげに鼻を鳴らします。
「小市民め、試してみるがいい」
ベラトリスは、ほんの一瞬だけ微笑みを止めます。
ですが、それも瞬きほどの間でした。
「ふふ……ええ。では、お望みどおりに」
彼女の細い指先が、何気ない仕草で空をすくいました。
「ッ!?」
ルキウスの視線の隅で、逃げ遅れていた少年の身体が、不自然な軌道でふわりと持ち上がりました。彼は悲鳴一つ上げません。
濁った瞳のまま、糸に吊られた人形のように、あっけなく見上げるほどの高さまで引きずり上げられてしまいます。
一切の遮蔽物が存在しない空間で、その身体は静止しました。
「…あら?…的にしては、いささか役不足でしたでございましょうか?」
「やめろッ!!」
吼えたルキウスへ、ベラトリスは薄く笑いかけます。
「ええもちろん。始めから、そのつもりでございます」
その言葉の直後でした。
彼女の指が、今度はゆるやかに下を指します。
ふっと、少年の身体を支えていた見えない糸がほどけました。
それと同時に、ルキウスの足元の石畳が、ぬるりと音もなく融け崩れます。
『軟泥楽土』
「…………くっ!」
本来硬くあるべき大地が、突如として沼のように粘り気を帯び、彼の両足を容赦なく吞み込んでいきます。踏み込みの力を奪い、跳躍の初速を殺し、救助へ向かう騎士の動きそのものを鈍らせるための、あまりにも冷笑的な一手でした。
さらに。
「…チャージキャスト…」
ベラトリスの指先に、冷たい光の結晶がいくつも浮かび上がります。
それは先ほどまでの攻撃とは異なる、青白く澄み切った殺意でした。
少年の落下地点、霜のようなルーン文字が空間に展開し、その中心へと圧縮された氷の輝きが収束していきます。
ルキウスは躊躇いません。
すぐ脇。大型カメラを構えたまま、地面に飲み込まれつつある取締役の姿が目に入りました。
青ざめ、震え、それでもなおレンズだけは、目の前で繰り広げられる即興劇を追っている―――滑稽なほどに愚直な男。
「貸せええぇぇええ!!!!」
「ヒッ!!」
ルキウスは泥に沈みかけた脚を無理やり引き抜き、取締役の肩を押し込むように体勢を崩させました。
「貴様も男なら…気概を見せてみろ…!」
取締役の悲鳴。
「ぉおおおおおおッ!!」
全身の傷が軋むのも構わず、ルキウスはその場で強引に身体を跳ね上げました。
頑丈なカメラのフレームを蹴り、真っすぐに空中へと飛び出します。
上空で細められるベラトリスの瞳。
『氷星爆砕』
次の瞬間、ルキウスは落ちてくる体を、片腕で乱暴なほど強く抱きしめていました。
衝撃で肩が悲鳴を上げました。ですが、それでも彼は少年を離しません。そのまま半身を捻りあらかじめ用意されていた舞台から、わずかに着地点をずらします。
――――――ガァァァアアンッ!!
背後で、氷の星が弾けます。
咲き誇る巨大な氷華は、刹那の内に散りました。
無数の氷刃が放射状に噴き出します。
石畳は砕け、ぬかるみは一瞬で凍り付き、衝撃と寒波がルキウスの背を殴りつけます。
「がッ…!」
抱えた少年を庇うように身を伏せた彼の頬を、一片の氷刃が掠めていきました。
薄く裂けた傷口に、即座に凍気が噛みつきます。痛みが吹きあがるよりも早く、皮膚の裂け目は白く凍りつき、彼の痛みの中枢を犯していきました。
「ぁ…ぁぁ…敵…!」
少年の折れた腕が、力なく空を切ります。
ルキウスは慈しみを滲ませるように、密かに瞳を細めました。
少年の体を冷たい地面へと横たえ、ルキウスは膝を押し上げました。凍り付いた頬からは白い息が漏れました。
「…」
視線の先。上空には、変わらず優雅に浮かぶベラトリス。
彼女はわずかに首を傾げ、まるで期待より少しだけ面白い見世物でも見たかのように、冷ややかに目を細めていました。
「普段の行いが報われずに、残念でございますわね」
ルキウスは答えませんでした。
「どうなさいましたの? 先ほどまでの威勢は」
「……」
「また一つ、立派に救って差し上げたのでしょう? ええ、見事でございましたわ。実に騎士らしい。けれど、その結果がそれでございます」
「……」
「誰かを守るたび、自分を削る。傷つき、遅れ、届かなくなる。ふふ……なんて美しい敗北の作法なのでございましょう」
「……」
「あなたは最後までそうして、正しいまま負けていくのでございましょうね」
「…ベラトリス」
「……ええ、何でございましょう?」
「哀れな貴様に、一つ教えてやろう。男という生き物はな、本当に愛した女を易々とは抱かんものだ」
「ふん゛ッ!!」
「…」
ルキウスの発言を皮切りに、ベラトリスはより鋭く、より重い一撃を放ちました。
高速で放たれた切っ先を、ルキウスはどこか達観した視線で追います。
(駄目か……届かんな)
「ぁぁ…敵…ッ!」
「!?」
―――ガィィイイインッ!
間一髪、即死には至りませんでした。
反射的に振り抜かれた刃。
深々と切り裂かれた脇腹。
その横を、少年の体が無傷のまま弾き飛ばされていきます。
「はぁあああ゛ッ!!」
凄まじい気迫と共に飛び掛かるルキウス。そのまま彼は、ベラトリスの細い体を捕えます。
―――とさ…。
二人の体は、あっけないほどに軽い音を立て、広場の芝生の上へと落ちました。




