Aの1乱入者。
三日の猶予は、残酷なほど正確に、そして無慈悲な速さで溶けて消えました。
教会都市、大聖堂前広場。
そこは今や、数千の聴衆と、それ以上の数の視線で埋め尽くされています。張り巡らされた中継用のカメラのレンズが、獲物を狙う獣の瞳のように、一斉に中央の祭壇へと向けられていました。
「…」
隣で沈黙を貫く瞳には、一切の曇りもありません。
勇者は、いつもと変わらぬ装いでした。風にたなびく真紅のマント、煌めく神話等級の鎧。周囲の喧騒や、この儀式の重々しさなど一切関心がないかのように、彼はただ、隣に立つ最高の報酬だけを見つめています。
対して、彼の花嫁。ジャンヌの姿は、この世のものとは思えぬほどに美しい虚飾に満ちていました。
純白のドレスは、彼女の意志を封じ込めるための拘束衣のように重く、幾重にも重なるレースは、血の通った肌を隠す死装飾のようです。
(ああ…まぶしいな)
ジャンヌは自分に向けられた無数の歓声と、勇者の純粋すぎる瞳を直視することができません。
彼女の背筋は、組織を担う騎士としての矜持によって真っすぐに伸びていましたが、その瞳に宿っていたのは、作り物のような光です。
「―――では、誓いの言葉を…」
広場に設置された巨大な拡声器から、牧師の声が粛々と響き渡ります。その声は、感動を呼ぶために特別に調律されたルーンを通じ、都市の隅々にまで幸福を強制的に浸透させていきました。
「…」
勇者が、満足げにこくりと頷きました。彼の神話等級の鎧の胸当てには、教会の意向で刻まれた企業のロゴが、撮影用の照明を浴びてさんさんと輝いています。
ドレスの裾の中で、ジャンヌの指先は、まるで独立した生き物のように小刻みに震えていました。
三日の間、彼女は抗おうとしました。ヒメカを探し、クラウゼの影を追い、仲間たちの痛いほどの沈黙を受けながら、ジャンヌは普段通りの激務をこなし、その合間の少ない睡眠時間を削ってまで、この配役から逃れる道を血を吐く思いで探し続けました。
けれど。
目の前に立つ、この圧倒的な存在を前にして、あらゆる抵抗は意味を成しませんでした。
彼が新商品を片手に微笑むだけで、神聖教会には莫大な富が流れ込み。彼が剣を振るうだけで、騎士たちが積み上げてきた戦術や努力は、すべて不要な手間として過去へと追いやられました。
その圧倒的な利益の暴力の前に、一人の女の人生など、あまりにも安すぎる代償でしかなかったのです。
「誓います」
自分の口から出たはずのその声は、耳の奥で他人のセリフのように響きました。
「…では、誓いの口づけを」
勇者が、少年のように無邪気な手つきで、彼女の白いベールに手をかけました。
薄い布が持ち上がるわずかな抵抗さえ、ジャンヌには自分を繋ぎ止める最後の鎖のように思えました。
露わになった、息を呑むような美しさに、聴衆から小さな歓声が上がります。
ジャンヌは、ゆっくりと顔を上げました。
レンズの向こうにもいるであろう数えきれない観客たちへ。さらに、純粋なまでに自らの欲求に従う隣の男へ。
彼女は完璧な、そして一切の体温を欠いたヒロインの微笑みを浮かべました。
広場を埋め尽くす全員が、今、この瞬間の為だけに存在しています。
空中へと投げられる準備を終えた色とりどりの花。炸裂の瞬間を待つ花火のルーン。
この日の為だけに結成された楽団員たちは、一人の例外もなく、指揮者が持つ磨かれた白い棒きれを食い入るように見つめていました。
唇が重なる。そのたった一つの合図を、巨大な野望の集合体が渇望しています。
指揮者の指先が、僅かに震えるように持ち上がりました。
ジャンヌは、自分を取り囲むすべての期待という名の暴力が、自らの唇、その一点に収束していくのを感じていました。
花嫁と花婿が互いに顔を傾けた。
―――その時です。
「待てええええいッ!!!」
静寂を切り裂いたのは、祝祭の調べではなく、魂そのものを震わせるような凄まじい怒号でした。
数千の聴衆が、そしてカメラの向こう側の数十万が、一瞬、何が起きたのか理解できずに硬直します。
振り下ろされるはずだった指揮棒が、宙で泳ぐ―――。
その混乱の渦中、祭壇の脇、来賓席に控えていた一人の男の元に、後光を背負った騎士の一人が推参します。
「たぁあああ゛あ゛ッ!」
「…ッ!?」
悲鳴が上がるよりも早く、抜き放たれた剣が冷たい残光を描きます。
彼がその刃を突きつけたのはこの式典を企画し、利益の奔流その中枢を司る、豪奢な毛皮を羽織った初老の男―――取締役の首元です。
刃が首元に触れる寸前で止まり、取締役の喉が引きつったように上下しました。
男を盾にするようにして、その騎士は、氷のように冷たく、それでいて青く燃え盛る瞳をカメラのレンズへと向けました。
「ルキウスッ!!」
朗々と響き渡る声。それは神聖教会の幹部の一人、ルキウスでした。
その名乗りが響いた瞬間、広場は混沌の渦中へと強制的に放り出されました。
「ルキウス!?…お…お前!いったいなにをやっているんだッ!?」
祭壇の上でジャンヌが息を吹き返したかのように声を震わせます。
聴衆の誰もが、冷徹な騎士の突然の蛮行に思考を硬直させている中、祭壇の影から這い出した何者かが、ジャンヌへと忍び寄りました。
「ジャンヌ様!失礼いたします!」
マクシミリアンです。
「お…おい!貴様………!」
―――タタタタタッ!
マクシミリアンは、ジャンヌを横抱きに、脱兎の如くその場から走り去りました。
彼がまんまと花嫁を誘拐せしめたのを見計らい、ルキウスは、カメラに向かって堂々と宣言します。
「いいか。これは武力蜂起でも、ましてやクーデターでもない。これはそう、エンターテイメントだ」
ルキウスは、レンズの向こう側にいる数多の観客を嘲笑うように言い放ちました。
恐怖に顔を歪める取締役の喉元で、白銀の刃が傾きます。
「さあ貴様ッ!!」
「ウッ!!」
「この俺。ルキウスが直々に、貴様らが愛してやまない経済活動に協力を申し出ているのだ。高らかに宣言しろッ!さもなくば、やがて訪れるであろう最大の功績を、貴様自身。見逃す羽目になるぞ…!」
強烈な、魂をも凍りつかせるほどの殺気。数えきれないカメラのピントが乱れます。
取締役は、罠にかかった獣のように怯え、もはや騎士としての温情など微塵も期待できないことを悟りました。
しかし同時に、彼の脳を焼いていたのは、この壮大なアクシデントが生放送中に起きているという現実でした。
恐怖すらも燃料に、彼の野心は燃え上がりました。
ここにいるのは、オファー一つで舞台に立つような三流役者などではありません。騎士団が誇る逸材、超一流のショーストッパーなのです。
「ま……回せ!カメラを止めるな!一秒たりとも逃さずに記録しろ!!」
取締役が、裏返った声で絶叫しました。
彼のその言葉は、もはや祝祭の終わりではなく、新たな物語の開幕を告げるものでした。
ルキウスは、口の隅に冷笑をひらめかせます。
「…賢明な判断だ。諸君ッ!!チャンネルはそのままだぞ。ここから先は台本にない、命を懸けたドラマの始まりだ…!」
一方、広場の散策コースでは、マクシミリアンがジャンヌの細い腰を抱きかかえ、純白のドレスの裾を翻しながら、驚異的な脚力で石畳を蹴っていました。
「マクシーン……お前たち、何を考えて…!」
「お静かに、ジャンヌ様!これが我らの甲斐性です!」
マクシミリアンは、トレードマークの穏やかな微笑みをかなぐり捨て、一心不乱に逃走ルートへと突き進みます。
その背後、ルキウスが存分にその辣腕を振るう広場では、凄まじい砂煙が立ち昇りました。
―――
狂奔するカメラのレンズが、逃げ去る花嫁の背中を諦め、広場の中央へとズームを戻しました。
レンズの先、もうもうと立ち昇る砂煙のカーテンを割って、死神の如き優雅な影がファインダーへと躍り出ます。
『大気よ蹂躙せよ…』
広場の中央、ベラトリスが優雅に指先を跳ねさせました。
彼女のコードスキルが発動した瞬間、災害規模の強大なエネルギーが大地を抉り、周囲の聴衆を敵味方なくなぎ倒しました。
あわや死の淵に立たされた取締役は腰を抜かしながらも、逃げ出したカメラマンの機材を必死につかみ取ります。
「ま、回せ……!これが、これが本物だッ!金になるぞおぉ!!!」
もはや生存本能と強欲が混ざり合った叫び。彼は震える手でカメラを構え、レンズをルキウスとベラトリスへと向けました。
「ふん、狂った豚め。ようやくその醜い本性を現したか」
彼は空中に浮遊するベラトリスを鋭く見据えます。
彼女の指先には、この場のすべてを粉々に粉砕するだけのエレメントが、早くも収束し始めていました。
「―――おいたが過ぎますわね。汚らわしいハエなど。もう見飽きているといいますのに」
「貴様こそ、汚物にたかるハエではないか。どれほど優美な汚物でも、汚物であることに違いはない。誰からも感知されぬ場所で土へと帰り、雄大な自然に貢献するがいい。それが最も無害であり、かつ有益な貴様らの末路だ」
『……真空刃』
「ッ!」
―――ギィイイインッ!
ルキウスが剣を振るい、迫りくる土煙の刃を切り裂きます。
しかし、その刃の向こうから。音もなく、第二の刃が彼へと迫りました。抜き放たれたレイピアが鋭い閃光を放ちます。
「…邪魔をするなら」
ロロです。
―――ガキィィンッ!
激しい激突音。
火花が散り、ルキウスの瞳を的確に狙った一撃が弾き飛ばされました。
「…クッ!」
渦を巻く砂煙の中で、癖のある頭髪が炎のように揺らめきます。
彼は、どっしりと構えた刃の背後から、その朗々とした声を、逃げ惑う聴衆たちが放つ喧騒の中へ投じました。
「卑怯とは言わん。不安ならその後ろの木偶の坊も連れてくるがいいッ!」
レオンとルキウス。並び立った二人の騎士は、言葉を交わすことなく一瞬だけ視線を交差させました。そこには、死地を渡り歩いてきた者だけが分かち合える、爽やかな風が吹いています。
うっすらと彩られた、あどけなさが残る表情が歪みます。
ロロの背後。勇者が表情を失ったまま立ち尽くしていました。花嫁を奪われた屈辱も、騎士たちの反逆に対する怒りも、そこには一切ありません。
その歪な沈黙を、ベラトリスの艶やかな美声が塗り替えます。
「ロロ、前衛を引き剥がしてくださいませ。邪魔でございます」
ロロは唇を引き締め、前に出かけていた重心を戻しました。
次にベラトリスは、背後で立ち尽くしている勇者に向かって告げました。
「勇者様。花嫁はあちらでございますわ」
まるで散歩の行き先でも示すような、あまりにも穏やかな声色でした。
けれど、その一言が持つ意味を、この場の誰もが理解しました。
勇者の視線が、石畳の散策路へと向けられます。
「…」
彼は沈黙のまま駆け出しました。
「行かせるかッ!!」
吼えたのはレオンでした。
鍛え抜かれた脚が石畳を割り、彼は迷いなくその進路へと全身全霊を差し込みます。
騎士として、ここを通すわけにはいかない。その判断に、一片の遅れもありませんでした。
―――ですが。
その横合いから、一本の銀閃が走りました。
「…遅い」
ロロです。
細身の体躯からは想像もつかない猛烈な踏み込みが空気を爆発させました。
レイピアが閃いた―――そう見えたときには、彼女の体そのものが砲弾の如き勢いでレオンの懐へと潜り込んでいたのです。
「なッ―――」
レオンの目が見開かれました。
突きか、あるは斬撃か。いいえ、そのどちらでもありません。
肩。肘。剣の鍔。その全てが、異常なまでに洗練された体重移動と膂力によって、一つの破城槌へと変えられていたのです。
―――ッドォンッ!
空気が悲鳴を上げ、レオンの体が横薙ぎに吹き飛びます。
石畳を割り、火花を散らしながら、彼の体は広場の外縁へと大きく弾き飛ばされました。
「ぐ…ッ!なんの…ッ!」
辛うじて体勢を立て直した時にはもう、元の位置から数十メートルも離されていました。
すでに激しい戦闘を繰り広げているルキウスとベラトリスの姿。
その光景に重なるようにして、ロロが左右に大きく位置を変えながら、まるでコマ送りのように迫ります。
地を滑るように着地し、間髪入れずに再加速。
白銀のレイピアが細く唸り、目も眩むような幾筋もの残光を描き出しました。
「勇者様の元へは行かせない」
「…ッ!!」
短い声。感情の起伏をほとんど感じさせない、平坦な警告。
しかし、その剣は明らかに異質でした。細腕から繰り出される一振りごとに、本来あるはずのない質量が乗っています。
(こいつ……フェンサーだと…!?)
速いだけではありません。鋭いだけでもありません。ただ強い。純粋な身体能力そのものが、常軌を逸していたのです。
ロロは、レオンの驚愕など意に介さず、さらに一歩、深く踏み込みました。
剣と剣が噛み合ったまま、彼女は殆ど体当たりのような圧力で、レオンをさらに後方、建物が密集する往来まで押し流していきました。
「くっ…!」
街道に靴底がめり込み、背後で壁が崩落しました。
勇者の姿はおろか、式場ですら遠くにありました。
ですが、ロロの猛攻は止まりません。
彼女はその無機質な双眸を一切逸らすことなく、正確無比な連撃を繰り出します。
「…あなたは邪魔。あなたは不純物…あなたはここには、必要無い」
淡々と紡がれる言葉。白銀のレイピアがレオンの鎧の隙間を正確に削り取っていきます。
火花を散らしながら、レオンは剣の腹でロロの刺突を受け流しました。重低音を響かせる彼の武に対し、ロロの剣は高周波の唸りを上げ、重力そのものを無視したような軌道で跳ねまわります。
内臓が揺さぶられるような衝撃に耐えながら、レオンは奥歯を噛みしめました。
(…折られる!)
直後、ロロは羽毛のように軽く、空中へと舞い上がりました。
『流星』
神速のコード発動。
「―――!」
身構える間もなく、強烈な一撃がレオンの胸元を抉るように放たれました。
流星。その名を体現する一撃は、間に割って入った鋼の刃を易々と粉砕し、さらなる加速をもって、レオンの体を一気に貫きました。
―――ッドォォンッ!!
急激に圧縮された大気が、一拍遅れて弾けます。
レオンは背後の壁を突き破り、崩落する瓦礫の中に沈みました。
砂煙が舞う中、ロロは音もなく着地し、レイピアの切っ先を垂直に保ったまま相手の出方を伺います。
「…」
やがて彼女は、流れるような所作で銀色のレイピアを鞘へと納めました。
「何もできないの、あなたには」
そう言い残し、ロロは翻ると真っすぐに広場へと歩き出しました。




