黄金律。
それは、世界の記述が根本から書き換えられていくかのような、奇妙な光景でした。
クラウゼが最後の一文を打ち込んだ瞬間、盤面を埋め尽くしていたルーン文字のピースが、まるで底なし沼に沈むように、音もなくパズル盤へと吸い込まれていきました。
空間に漂う乳白色の霧に、ヒメカの声が反響します。
「…!あ、見てくださいまし!文字が、飲み込まれていきますわ!」
彼女が驚きに目を見開く中、入れ替わるようにして、盤面の底から新たなブロックがせり上がってきます。それは無機質な石の質感から、温かな木の質感を持つものへと変貌していきました。
刻まれているのはアルファベット。
『Roomfee on Sea Abyss
Myths on Gaia Craft
Media on Tornado
World on Volkenion 』
「…また、パズルですの?」
がっくりと肩を落とすヒメカ。
一方でクラウゼは不敵に鼻を鳴らし、現れたブロックに侮蔑を込めた視線を落とします。
「…呆気ない。出来の悪いアナグラムだ」
彼は迷うことなく右腕を盤面に滑らせました。
ガシャガシャという耳障りな音を立てて、現れたブロックの半分以上が盤面の外へと掃き出されていきます。
「な、なんですの!?せっかく出てきた文字を、そんなに捨ててしまって…!足りなくなってしまいますわよ!」
「足りない?ふん、逆だよヒメカ。言葉が多すぎるから、本質がぼやけるんだ。アトラスが求めているのは饒舌な弁明じゃない、彼らはそうだな…自らの知性の衰えを自嘲することで、見下した気になっているんだよ」
声をかすかに昂揚させながら、クラウゼは残ったブロックを組み替えます。
一歩一歩、着実にゴールへと近づく足音のように、それらは小気味良い接触音を奏でます。
「アナグラム。これは単純な言葉のパズルさ。特定の英単語を分解し、別の意味を持った単語へと組み替える…つまり」
彼は最後に、盤面の空白へ向けて唯一残った単語。『World』をそのまま滑り込ませます。
「これだ」
パズル盤を見下し、クラウゼは極めて尊大な態度で鼻を鳴らします。
完成した単語の配列を、彼は低く、けれど誇示するように宣言しました。
「『THE WORLD IS MADE OF MEMORY』…世界は記憶で出来ている」
「世界…?記憶…」
その瞬間。
乳白色の霧が、生き物のように一斉に足元へと吸い込まれていきます。
霧が晴れた先に待っていたのは、想像を絶する光景でした。
~アトラス地下迷宮。第四層・真なる魔法の間~
そこは、果てしなく続く巨大な円形図書館でした。
天井が霞むほど高くそびえ立つ壁面は、全てが本棚で埋め尽くされ、そこには皮装丁の古書から、見たこともない異国の巻物まで、膨大な数の書物が、地層のように積み上げられています。
「これは…クラウゼ様ッ!」
ヒメカが見上げる先、本棚の合間には、怪しげな光を放つ杖、ひとりでにページがめくれる分厚い本、宙に浮く奇妙な天球儀など、ありとあらゆる本物の魔法の道具が、無造作に、しかし不気味な秩序をもって陳列されていました。
そのどれもが、現代の科学技術では到達できない、あるいは再現することすらも不可能な結果をもたらす奇跡。この世界の理から明確に逸脱した力を放っています。
「ふん。真の魔法を知りつつ、学術的に解明できないからと言って偽物を教え続けていたなんて。まったくどうしようもない連中だよ……まあいい」
「クラウゼ様!見てくださいまし、あちら!こんなに…!まるで魔法ですの!」
好奇心と達成感に突き動かされたヒメカは、ドレスの裾を翻し、世界中から流れ着いた知の海の中へと、一足先に駆け出していきました。積み上げられた古書の山の間を、栗色の螺旋を揺らしながら進む彼女の姿は、まるで、おとぎ話に迷い込んでしまった少女そのものです。
「おい、勝手に…。やれやれ」
クラウゼは吐き捨てるように呟きましたが、その瞳には、並べられた魔道具たちの放つ異常な発光現象への鋭い観察の色が宿っていました。彼は本棚の影に隠れたヒメカを無視し、ゆっくりと未知の空間へと足を踏み入れます。
しかし。
彼らがその円形図書館の中央、ちょうどドーム状の天井からわずかな光が差し込む広場に揃った、その時でした。
ズゥゥゥゥゥン…!!
鼓膜を揺らす重低音。
四層の静寂を完全に圧砕する、凄まじい地鳴りが空間を支配しました。
「な、なんですの!?地震!?また通路が狭まりますの!?」
ヒメカが足を踏ん張り、周囲を見渡しました。
陳列された本や道具の数々が一斉に青い光で包まれます。
クラウゼは、その発光を視覚でしか捉えることができませんでした。
そのことが、彼に根源的な恐怖を思い出させたのは、言うまでもありません。
広場の最奥、巨大な壁としてそびえていた書棚が割れ、暗がりに鎮座していたそれが、鈍い光を放ちました。
ギ、ギギギ…ッ!
金属と石が擦れ合う不快な音が、円形図書館の壁面を伝い反響します。
本棚に収められていた数万の書物が一斉に震え、魔法の道具たちが共鳴するように不気味な光を明滅させました。
「…やはりな。簡単すぎると思った」
「クラウゼ様!あれはいったい!」
暗闇の中からゆっくりと、しかし確かな殺意を持って立ち上がったのは、見上げるほどの巨躯を誇る黄金。
その巨像が膝を伸ばすたびに、床の石畳には放射状の亀裂が走り、周囲に積み上げられていた古書の山が雪崩のように崩落し、空中へと投げ出されます。
ズシィィン!
ズシィィン!!
「………」
―――第四層。黄金のアトラス像。
「ク!クラウゼ様ッ!」
「ああ、敵だ。まるで捻りのないベタな仕掛けだが、定番の中にこそ真理があるというわけか…実に不愉快だ」
クラウゼが冷徹な視線で見上げる先。立ち上がった黄金の巨躯は、広間全体を飲み込むような圧倒的質量をもって二人の前に立ちはだかりました。
ドゴォォォン!!
巨像が、その一歩を踏み出します。
明るみに晒された巨体は眩い黄金に輝き、両手で支えるように背負う天球儀の星々は、規則的な公転を続けていました。
なによりも特筆すべきはその巨体。数々の奇妙な品々が霞んで見えるほどの、圧倒的な存在感。
ドゴォォォォン!!!
さらに一歩踏み出す、たったそれだけで、図書館を満たしていた静謐な空気が圧縮され、凄まじい突風がヒメカのドレスを激しく乱しました。
黄金の巨像が、遥か頭上。天を支えていたその剛腕を、緩慢に、しかし確実な殺意をもって動かしました。
背負っていた天球儀の星々。それが光り輝き、轟音と共に軌道を変えます。
「…まさか、な」
「ヒィィィ!?」
ッドオオオオン!!!!
黄金の天球が床を叩いた瞬間、第四層の全てが悲鳴を上げました。床は粉々に砕け散り、爆発的な衝撃となって無数の古書を宙に舞い上がらせます。
辛うじて左右に跳んで回避した二人でしたが、その衝撃波だけでヒメカの華奢な体は、さらに数メートルも吹き飛ばされました。
「…ッ、なんですのこの威力!」
「…ただの質量攻撃さ!実につまらない…けれど、ひとところに固まって入れば、次は二人まとめて押しつぶされてしまうぞ…!」
クラウゼは床を抉る一撃を見つめながら、鋭く叫びます。
巨像は止まりません。めり込んだ天球を軽々と引き抜き、次なる一撃の準備を始めています。
「ヒメカ!攻撃だ!出し惜しみをするな!」
「で、でもクラウゼ様!ここにはエレメントが…空っぽですの!」
三層での気の遠くなるような無が、ヒメカの体には未だに焼き付いています。コードスキルの発動を躊躇い、顔を青くしました。
しかし、クラウゼは不敵に唇を歪めます。
「ここはもうさっきとはまるで異なる空間だよ。君が無抵抗のまま潰されたいというなら、それは別に構わないが…試してみるといい」
「え…そうですの…?」
ヒメカは試しに、意識を集中させ周囲のエレメントに呼びかけます。
すると、この黄金の空気の中には、肌がピリつくほどに濃密で、澄み渡る力の奔流が満ちていました。
「…これは」
「だから言ったろう。……最後にものを言うのは、『力』ってことなのさ」
ギ…ギギギ……!
刷ったような所作で、天球は頭上へと掲げられ、その頂点で停止します。次なる一撃が実行されるまでのわずかな時間。ヒメカの高笑いが空間に響き渡ります。
「…ふふふ…ふふふふふ…おーほっほっほっほ!!そうと決まれば簡単ですの!!っはあああ!」
ヒメカがその小さな掌を天に掲げ、高らかに、世界に刻まれた理のひとつを宣言します。
瞬く間に、彼女の体は巨像にも勝るとも劣らない黄金の輝きに包まれました。
「全軍突撃!礼儀知らずの置物を粉々にしてくださいませ!―――『リトルカンパニー』!!」
空間が歪み、砕けた床、本棚の間の壁、果てには天井より。次々と精巧な軍隊が湧き出してきました。
赤い軍服を纏ったくるみ割り人形のような兵隊たち。彼らは一糸乱れぬ動きで、巨大な大砲をけん引しながら巨像の足元へと布陣します。
「…相変わらず、興味深いコードだよ」
口の隅に冷笑をひらめかせ、クラウゼは鼻を鳴らします。
振り上げられた天球を前に、ヒメカは一歩も動じません。
「ファイア!!」
鋭い号令が響き渡ると同時に、最前列の指揮官人形が指揮棒を振り下ろしました。
ドガガガガガァァァン!!
一斉に火を噴く数十門の大砲。放たれた砲弾は巨像の足元へと吸い込まれていきました。
図書館の壁面を震わせる凄まじい金属衝突音。黄金の装甲を叩く衝撃波が、周囲の本棚を粉々に粉砕し、吹き荒れる白煙が巨像の姿を完全に覆い隠します。
「おーっほっほっほっほ!ご覧になってクラウゼ様!これこそ、わたくしの実力ですの!」
煙の向こうに確かな着弾の手ごたえを感じ、ヒメカは扇を広げるような仕草で勝ち誇ります。しかし、一方でクラウゼは、その場から一歩も動かぬまま冷ややかな笑みを浮かべていました。
「それでいい、狙いは君だ…」
「えっ…?」
ヒメカの顔から笑みが消えるのと、風が巻くのは同時でした。
ギ…ギギギ!!
煙の中から現れたのは、傷一つない、無機質な黄金の輝き。
いくつもの砲火を浴びたはずの巨体は、煤ひとつ付いていない清浄な姿で悠然とそこに立ち尽くしていました。それどころか、浴びせられたエネルギーを吸収したかのように、掲げた天球にさらに不気味な光が灯ります。
「そんな…直撃しましたのに…!」
ヒメカの小さな体を、巨大な影が覆い尽くします。
天球に散りばめられた星々が、流れ星のように影の中を通過していきました。
巨像が、その剛腕を大きく振り下ろしました。
「ヒィィィィ!!!!」
ッドオオオオン!!!!
凄まじい衝撃波が発生し、奮闘していたリトルカンパニーの兵隊たちは、まるで紙屑のように一瞬で壁際まで吹き飛ばされ、粉々に砕け散ります。
さらに、巻き起こる風に、林立する本棚が次々とドミノ倒しになり、ヒメカたちの逃げ場を狭めていきました。
クラウゼは、静かに好機を見計らっていました。
十分に力を溜め、彼独自のコードを唱えます。
「闇よ…」
崩落した本の山から、ヒメカが潜り出ます。
真っ先に視界に飛び込んできたのは、網膜を焼く黄金の光の中にあって、なおも暗い、真の闇。
空間を飲み込み、粘り気すら感じさせる漆黒の影が、クラウゼの背後に鋭い槍となって構えられます。
「あれは…!クラウゼ様のッ!」
「貫けッ!」
突き出された人差し指が標的を捉えた刹那、彼の背後、漆黒の剛腕が唸りを上げます。
狙いは、巨像が背負う天球儀のわずかなすき間、天球同士をつなぐ円環です。
ギィィィィィイィイイインッ!!!!!!
直後、空間が引き裂かれます。凄まじい炸裂音。はじけ飛ぶ闇の飛沫の中に、膨大な火花が飛び散りました。
…しかし。
ギ…ギギギッ!
「!」
光と闇、そのどちらもが土砂降りのように降り注ぐ中、巨像にダメージはありません。
「そ、そんな…!クラウゼ様の攻撃ですら、効かないのですか!?これでは、手も足もでませんわ!」
ヒメカの横顔に絶望の色が広がります。ですが、当のクラウゼは倒壊してくる本棚の破片を最小限の動きで軽やかに躱しながら、その唇に冷笑を湛えました。
「硬いな。…ヒメカ、もう一度砲撃だ。さっきと同じでいい」
淡々と告げられたその指示には、彼女の疲弊を顧みない非情さと、それゆえの絶対的な信頼が同居していました。
ヒメカは、すぐさま精神を研ぎ澄まし、次なる攻撃に備えます。
「…はい!クラウゼ様!リトルカンパニー!全力全開ですの!!」
再編された人形たちが、一斉に砲撃体制に移ります。
その瞬間、空間を撫でるように影が伸びました。
黄金のアトラス像は悠然と、背負った天球を振り上げました。
数えきれない人の知恵。それを悉く捻り潰してきた難問の如く、その身は決して揺るぎなく、世界に存在し続けるのだ。
直撃に晒されてもなお陰ることのない輝きが、そう物語っているかのようでした。
が―――
「ファイア!!!」
ドガァァァァァァンッ!!!!!
着弾。先ほどまでとは全く異なる破壊の音が響き渡りました。
あれほど盤石だった黄金の表皮が、ごっそりと剥がれ落ち、巨像の巨躯は大きくのけぞります。
「お……おーっほっほっほ!?見ましたか!?砕けましたわ、砕けましたのクラウゼ様!」
ヒメカの歓喜の絶叫。
クラウゼはほくそ笑みました。
「効いたね。このまま削るとしよう」
ヒメカの高笑いが、彼の小さな嘲笑をかき消している…その時です。
ブォォォォォォン……!!
アトラス像が背負う天球儀が、けたたましく軋み始めました。先ほどまでとは違う、昏く、しかし網膜を刺すような赤黒い光が、天球儀の空洞から溢れ出します。
「…ッ!?ヒメカ、下がれ!」
クラウゼの警告に、ヒメカは従えませんでした。
禍々しい黄金の光に足がすくんだわけではありません。
もっと単純な力が、彼女の両足そのものを物理的に拘束していたのです。
「え…?あ、あれ…?あ、足が…動きませんの!床と……床とくっついていますの!?」
「なに!?」
ヒメカの華奢な足首に、いつの間にか床の石畳が植物の蔓のように絡みついていました。
駆け付けたクラウゼが彼女の足元を検めます。
彼は愕然に目を見開きました。ドレスの下、彼女の足首から先は正体不明の原理によって、無機質な灰色の石へと変質していきます。
「どうなっている…?」
あまりにも唐突で、理不尽な現象。低く告げたクラウゼの額に、うっすらと汗が滲みます。
一方で、ヒメカは淡々と告げました。
「切ってくださいまし」
「なに…ッ?!」
「切ってくださいましクラウゼ様!」
「正気か!?」
黄金のアトラス像が巨体を軋ませました。
掲げられた天球は、今や周囲のエレメントさえも飲み込み、空間そのものを歪ませています。
「わたくしの精度では体にも当たってしまいますの。ですので、お早く!」
「…しかし」
クラウゼは絶句します。そして、その一瞬の躊躇いが、二人を破滅へと誘いました。
黄金のアトラス像は床を割り、全ての質量をもって、二人へと飛び掛かったのです。
訪れた一瞬の沈黙。
その次にやってきたのは、衝撃でも痛みでもありません。
二人を叩き潰すはずだった巨大な天球儀が、クラウゼの背に触れた瞬間。
サラサラ………。
耳元を撫でたのは、超質量が生み出す唸りでなく、砂時計の砂が落ちるような、優しくも冷徹な音でした。
あれほど硬質を誇っていた天球も、指先も、手首も。そして天を仰ぐほどの巨躯の隅々までもが―――まるで、そこに実体など最初からなかったかのように、光り輝く砂金へと崩れ去っていきます。
「…あ、あ………」
ヒメカは呆然とそれを見上げるしかありませんでした。
つい先ほどまで空間を歪ませていた破壊のエネルギーは、今では完全に沈黙しています。
代わりに宙を舞うのは、数百万粒の黄金の粉雪。
それは第四層の天井から降り注ぐ光を反射し、息を呑むほど美しいカーテンとなって、ヒメカの足元へ、そして、彼女を覆い隠すように膝を付いたクラウゼの肩へと、静かに降り積もっていきます。
カラン…。
巨像が掲げていた天球儀さえもが、ただの砂粒となって崩れ落ち、その一部が、虚無の音を立てて床を転がりました。
「あ…え!…あ、やりましたの?!クラウゼ様!」
ヒメカが耳元でそう叫び、クラウゼは静かに立ち上がりました。
彼の背後では、第四層を埋め尽くしていた数えきれない品々が、再び世界の理に従うように光を失い、音もなく床へと落ちていきました。
「あ!わたくしの足!無事でございますわ!よかったですの!」
ヒメカはその場で跳ねまわり、全身で喜びを表現していました。
次に彼女は、その場でぺたりと座り、足元の黄金を両手ですくい上げます。
「それッ!それぇ!」
再び舞い落ちる黄金の粉雪。満面の笑みを浮かべたヒメカが、その行為を何度も繰り返しました。
「ご覧になってくださいまし、クラウゼ様!あの恐ろしい像がこんなに細かく粉砕ッ!ですのッ!おーほっほっほっほ!!派手な見た目の割には呆気ない幕切れ!いわゆる、勝ちイベでしたのね!」
ヒメカは子供のように無邪気に笑いながら、両手いっぱいに砂金をすくい上げては頭上へ放り投げます。黄金の粒子が彼女の栗色の髪に降り注ぎ、まるで新しい髪飾りのように輝いていました。
「驚いて損してしまいましたの。ね、クラウゼ様?」
「…」
その一方で、クラウゼは視線を下げたままピクリとも動きません。
崩れ落ちた本棚の影に立ち、ただ一点を見つめて沈黙を守っています。その肩はかすかに震えており、勝利を噛みしめているようには到底見えませんでした。
「…クラウゼ様?どうされましたの?そんなに黙りこくって」
ヒメカは砂を払って立ち上がり、不思議そうに首を傾げました。
彼に歩み寄り、その横顔を覗き込もうとします。
「あ!わたくし、わかりましたわ!」
ふいに、ヒメカは得心がいったように両手を鳴らします。その高い音は、静まり返った黄金の広間に場違いなほど明るく響きました。
「わたくしの足が元に戻ってしまったのが残念なのですの?あのようなコードスキル、わたくしだって見たことも聞いたこともありませんもの!」
クラウゼは、ヒメカの足を切りませんでした。
そんなつもりなど、ありませんでした。
そう、彼は、そんなつもりなど、無かったのです。
クラウゼは、低く掠れた声で言いました。
「背中を見せろ」
「へ?」
「背中を見せろ…!」
突然の、剥き出しの焦燥を含んだ要求。ヒメカは驚きに目を丸くしましたが、彼の異様な気迫に押されるように、戸惑いながらもその背中を差し出しました。
「…もう。なんですの?藪から棒に………はい、クラウゼ様?」
「………」
クラウゼは目元に鋭い殺意を宿していました。
次いで、彼は自身のコートを脱ぎ捨てると、もう一度ヒメカに低く命じます。
「僕の背中も見てくれ」
クラウゼは真っ白なシャツを背負うようにたくし上げ、傷一つない素肌を黄金の光に晒します。
その背後で、ヒメカがつま先を伸ばしました。
「ん……よく見えませんの」
「…」
彼は黙ったまま膝を曲げました。
「あ!」
ヒメカが声を上げます。
「何がある?」
「これは…文字?でございましょうか?」
「どんなだ?」
シャツの裾から手を離し、ヒメカは足元の砂金に指先を滑らせました。
「そうですわね。こんな文字ですの…」
―――ℵ…。
「×!」
「ℵだ」
「……アレフ…?何ですの、この…鳥の足跡のような文字は?」
ヒメカが不思議そうに小首を傾げながら、自分の背中をなぞります。
彼女には見えていません。自分の背中にもまた、クラウゼと対をなすような別の文字、מת が刻まれていたことに。
それは黄金のアトラス像の崩壊と共に、今は薄れゆく影となって彼女の白い肌に溶け込んでいました。
「…?」
軽やかに飛び跳ね、ヒメカはクラウゼの横顔が覗ける位置へと回り込みます。
「……」
「…クラウゼ様?いつもみたいに説明してくださいませんの?この文字は何なのですの?どうしてあの像がサラサラになってしまったのですの?それに……どうしてそんなに怒っていらっしゃいますの?」
クラウゼは硬く口を噤んでいました。
いつもなら聞かれもしない理屈を滔々と述べるはずの彼が、知っているはずの知識を拒絶するように黙り込んでいる。その豹変ぶりに、ヒメカの好奇心は不安混じりに膨らんでいきました。
「……ねえねえクラウゼ様ぁ?どうしてですの?ねえどうして?」
ヒメカは、だらしなく飛び出した彼のシャツの裾を指先で摘まみ、すがるように揺らします。
その幼い仕草が、かえってクラウゼの理性と感情の均衡を決定的に破壊しました。
ふいに、クラウゼは両手の拳を強く握り締め、ギリリと奥歯を噛みしめました。
「…クソッ!!クソックソッ!!」
「…ヒッ!」
床の砂金を蹴散らし、突如として吐き捨てられた怒声。
ビクリと肩を震わせ、言葉を失ったヒメカを横目に、クラウゼは乱暴に髪をかき上げました。
彼は、肺に残った熱をすべて吐き出すように息をつくと、感情を殺した表情を張り付け直します。
「…まぁいい。勝ちは勝ちだ」
ヒメカには、その言葉が少しも「まあいい」ようには聞こえませんでした。
しかし、他でもないクラウゼがそう言うのです。
彼女は首を傾げたまま、それでもひとまず、勝利の余韻に身を委ねることにしました。
―――
巨像が崩れ去った後の静寂は、まるで長い嵐が過ぎ去ったあとの海のようでした。
崩れ落ちた本棚、砂のように積もった砂金、砕けた石畳の残骸。
先ほどまで激しく揺れていた空間は、いまや不気味なほど静まり返っています。
その沈黙の中に、かすかな銀色の光が差しました。
クラウゼが砂金の中から拾い上げたのは、精巧な装飾が施された、手のひらサイズの銀の三段トレー。
「…」
「何ですの?」
これならば…。そんな期待を胸に、ここぞとばかりに尋ねるヒメカ。
クラウゼは何も告げずに、それと対をなす蓋の部分を拾い上げ、おもむろにトレーに被せました。
「?」
ヒメカが見守る中、蓋が持ち上げられます。すると、真っ白な生クリームと真っ赤な苺が乗ったショートケーキが、トレーの上に忽然と姿を現しました。
「ッ!?…ケーキですのッ!」
ヒメカが驚愕に目を見開き、思わず身を乗り出します。
クラウゼが一切の躊躇なく一切れを口に運び、無造作に咀嚼するのを見て、彼女は悲鳴に近い声を上げました。
「クラウゼ様!平気なのですの?このようなもの…!」
「平気さ。『無限ビュッフェ』だよ。しらないのかい?」
クラウゼは空になったトレイを軽く振りました。すると、今度はモンブランが、その次はザッハトルテが、湧き水のように次々と溢れ出してきます。甘い香りが、戦闘の残り香を押しのけるように空間へ広がりました。
「一度蓋を閉めればしばらくは振るだけで出てくる。君も試してみるといい」
差し出されたトレイの上に整列するケーキたち。
はじめは怯えていたヒメカも、その暴力的なまでの魅力には抗えませんでした。おずおずと一口、運んでみます。
…もぐ。
「ッ!?」
甘いクリームの舌触り、ねっとりと広がる芳醇なチョコレートの香り。
彼女は思わず喉を鳴らし、幸福に身を寄せました。
「…美味しい…!美味しいですわ!」
気づけば彼女は、黄金の砂の上にぺたりと座り込み、無限に湧き出すスイーツの山と格闘し始めています。
周囲には砕けた床の残骸や散乱した古書が転がっていましたが、今のヒメカにとってそれらは、ただのテーブル替わりでしかありませんでした。
一方で、クラウゼは雑然と並ぶ本棚の前で立ち止まりました。
彼は口の端にクリームをつけたまま、そして指先はチョコレートでベタベタに汚した状態で、本棚から大量の本を引っ張り出します。
「…これがそうか」
「クラウゼ様、汚いですわ!その高そうな本、チョコでベタベタですわ!価値が下がってしまいますの!もう、このハンカチを、貸して差し上げますの!」
「価値?そんなものはこの紙の束には元から存在しない。価値があるのは内容さ。知りたければ、僕から聞き出せばいい。まぁ、それができるならだけどね」
「まあ!クラウゼ様らしい物言いですこと!」
クラウゼの傲然とした態度に、ヒメカは不思議と安心を見出していました。
彼女は両手を丁寧に拭き上げ、地層のように積み上げられた本の上、ページを貪り食うように読み耽っているクラウゼの元へと向かいました。
「んしょ…それでクラウゼ様?それはどういったものですの?わたくしにも理解できるのでございましょうか?」
「知らないね」
当初の目的などすっかり忘れ、ヒメカは近くに落ちていた、表紙のはがれかけた古びた一冊を手に取ります。と、その時でした。
「―――ヒェェェェェェェンッ!!!」
「ヒッ!?な、なんですの!?この本!」
手にした本が、赤ん坊のような、あるいは捨てられた子犬のような悲痛な声を上げ、ヒメカの手の中で激しく暴れ始めました。驚いた彼女は本を放り投げようとしますが、本は磁石のように彼女の手の平に吸い付いて離れません。
「クラウゼ様あ!呪いですわ!食べ物の恨みですの?!」
「うるさいな…。それは『未読の嘆き』だよ」
クラウゼは本から目を離さず、べたつく指でページをめくりました。
「本の中には、意志に近い性質を持つものがある。製本されてから数十年、一度も誰の目にも触れられなかった本がたまに起こす、くだらない現象だよ。…読んでやれば泣き止む。子守歌代わりに、その難解な文字列でも読み上げてやるんだな」
「……そんな、誰にも見つけてもらえなかったなんて…よしよし、わたくしが読んで差し上げますから、泣き止んでくださいまし?」
ヒメカがおずおずとページをめくり、たどたどしく綴られた古い文字をなぞり始めると、あんなに激しかった鳴き声は、不思議と安らかな吐息のような音へと変わっていきました。
「…ふん。意外な才能だね」
クラウゼは手元の本を閉じ、満足げに周囲を見渡しました。
「『探し物を見つける魔法』……『三日後になる魔法』……。ここにあるのは現代の不便な魔法とは次元が違う。…どれもやばそうだ。けどこれは、『空腹になる魔法』……?」
クラウゼは、ニヤリと微笑み、魔導書を掲げて唱えます。
『キータン』
彼がそう唱えた瞬間、ヒメカの体が淡い光に包まれました。
早くもウトウトしかけていたヒメカが、慌てて顔を持ち上げ周囲を見渡します。
「ッ!?いったい何ですの!?」
…光が収まった直後、ヒメカを襲ったのは未知の魔物でもトラップでもありませんでした。
―――ギュルルルルルルゥッ!
「はうっ!」
静まり返った図書館に、およそ優美な彼女からは放たれるはずのない、猛烈な腹の虫が鳴り響きました。
「え……?お腹が…急に…!クラウゼ様ッ!?」
ヒメカの顔からすっと血の気が引いていきます。
胃袋の奥底からせり上がってくるのは、これまで経験したことのないような、立っていることすらもままならない強烈な飢餓感。
「ぁ、あ、ああ……!食べ物!食べ物ですの!」
ヒメカは膝から崩れ落ち、震える手足で砂金を掻き分けながら、這うようにして銀のトレーへと向かいました。その痛々しい姿は、砂漠で水を見つけた遭難者のようです。
バサリ、と彼女の手から一冊の本が滑り落ちました。
先ほどまでヒメカのたどたどしい黙読に安らいでいたその本は、自分を置いて食欲に走った彼女に身勝手にも絶望したのか、再び猛烈な勢いで叫び始めました。
「―――ビィェェェエエエンッ!!!」
泣き叫ぶ本。
なりふり構わず、トレーに山盛りにされたケーキを口へと押し込むヒメカ。
その光景を特等席で眺めていたクラウゼは、ついに堪えきれなくなったように、腹を抱えて背もたれ代わりの本棚を叩きました。
「…ッ、クッ、ハハハハハ!なるほど。アトラスが隠したがるわけだ」
「クラウゼ様ぁ!酷いですわ!酷すぎますの!……でも美味しいですの!いくらでも食べられますの!」
「それは良かった。ちなみにその横の道具は…」
「ッ!ピザですの!」
「そうだよ…よかったなヒメカ」
「はいですの!」
クラウゼは再びページに視線を落とし、置物のように動かなくなりました。
空腹という名の最高のスパイス。それが今のヒメカにとって、良いものであったのか、悪いものであったのか、知る由はありませんでした。
―――
アトラス第四層の天井から降り注ぐ光が陰ることはありません。
空腹を満たしたヒメカは、胸の前で宝物のように抱えた本をクラウゼへと突き出しました。
「難しくて読めませんの」
しかし、クラウゼはピクリとも動きません。視線は手元の原理魔法の原典に吸い付いたままで、まるで石像に話しかけているような静寂が返ってきます。
「…クラウゼ様?聞いていらっしゃいますの?読んで差し上げようと思っても、文字が蛇みたいにうねって、ちっとも理解できませんの!ですので、読んでくださいまし」
返ってきたのは、ページがめくられる乾いた音でした。
「断る。君が開いたんだ。君が読むべきだ。僕には情緒不安定な本を相手にしている暇など一秒たりともないよ」
「まぁ!冷たいですわ!さっきはあんなに笑って、わたくしに恥をかかせましたのに!」
ヒメカは頬を膨らませ、ベタベタになった指先で彼の肩を揺らそうとします。
クラウゼは煩わしそうに眉を寄せ、毒づくために顔を上げようとして―――ふと、彼女の背後に視線を落としました。
そこには、見るも無残に引き裂かれた原理魔法の原典。ずたずたになった紙の束が転がっていました。
他でも無い、ヒメカの仕業です。
「……」
クラウゼは、深く、深く、肺の底にあるすべての空気を吐き出すようなため息をつきました。
現代魔法学の至宝とも言える貴重な文献が、自分の悪ふざけの結果として全く価値の分からない人物によって永遠に失われてしまった。その取り返しのつかない事実が、彼の深淵に極小の後悔となって波紋を広げます。
「…貸せ」
彼は忌々しそうに呟き、古びた本をひったくるように奪い取りました。
「あ!読んでくださるのですね!…ワクワク!」
彼の内面の葛藤も、先ほどの自分への仕打ちも、今のヒメカには取るに足りないことでした。
積まれた本の上にハンカチを広げ、その上にちょこんと座ります。
「早く早く!じらさないでくださいまし!」
クラウゼは、まだチョコの跡が残る指先で、丁寧に本のページを撫でました。
すると、彼の指先が触れた箇所から、文字たちが整列し、まるで主を得た軍隊のように静まり返ります。
あんなに泣きわめいていた魔導書が、彼の指が触れた瞬間に安堵したように震えを止める様は、まるで魔法のようでした。
彼は低く、掠れた、けれど耳に心地よく響く声で、誰からも語られたことのない物語を紡ぎ始めました。
「……『そこは、世界から忘れ去られたような最果ての海……』」
黄金の光が降り注ぐ中、クラウゼの朗読が静かな図書館に溶けていきました。
一文字ごとに紡がれる言霊は、乾いた砂に染み込む水のように、ヒメカの意識を深く、優しい闇へと誘っていきました。
ヒメカは満足げに彼の膝の横に座り込み、その声に耳を傾けながら、ゆっくりと重くなる瞼を閉じました。
次に目が覚めたとき、彼女の体には、長襟のロングコートが掛けられておりました。
黄金のアトラス像が砂に帰り、静寂だけが支配する第四層。
二人がこの後どうなってしまったのか。それを知る者は、当事者である二人を除いて、誰もおりません。




