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三日の猶予。

~教会都市・聖護区、ロロの私室~

 

 意識の底から、泥のような眠りを引き剥がす。

 ロロは、重い瞼をゆっくりと持ち上げました。


 カーテンの隙間から差し込む朝日は、部屋の中に無機質なコントラストを描いています。

 彼女はシーツの感触を指先で確かめ、自分がいつの間にか深い眠りに落ちていたことを悟りました。


(…寝ていた。こんな時に)


 胃の奥に広がるのは、空腹と、熟睡してしまったことへの言いようのない嫌悪感でした。

 勇者パーティーの一員として、あるいは彼の代理の表現者として、常に神経を研ぎ澄ませていなければならない自負。それが、生理的な欲求に屈してしまった。

 その事実が、彼女の心にいくつかの鮮明な記憶の断片として積み重なります。


 鉛のように重い体を引きずり、彼女は窓辺へと歩み寄りました。

 関節の節々に残る鈍い痛み。倦怠感。肌の内側には、昨夜ひとりで燃やし尽くした熱の名残だけが、冷めきらぬ灰のように沈んでいました。

 それは単なる疲労というよりも、これまでの旅路のすべてが色を失い、そのまま肉体の重みとなったかのようでした。


 彼女が窓を薄く開けると、湿った海風が部屋に籠った熱気をさらっていきます。

 街の至る所に設置された拡声器から、あの声が流れ込んできました。


『―――リアの風が共にあらんことを…。さて、』


 パーティの一人ベラトリス。

 その甘く、それでいて一切の体温を感じさせない冷徹な声が、誰の足音よりも深く、街の路地裏へと浸透していきます。しかし奇妙なことに、ロロの耳には、それ以降の言葉が意味を持って届くことはありませんでした。


『―――勇者様とジャンヌ様の御成婚。それは、教会都市並びに全圏域の安定に資する、極めて意義深い慶事でございます。長きにわたり揺らいでいた世界の針は、お二人によって結ばれた真の愛によって、今、正しい位置へと戻ろうとしております―――神聖教会に連なる皆様におかれましては、どうか穏やかな心持にて、この新たなる節目をお迎えください―――本件に伴う警備体制の強化、並びに一部区画の通行制限につきましては、すでに通達の通りでございます。―――なお、式典の詳細日程につきましては、追って正式に布告いたします。祝福の祈りは、大聖堂ならびに指定礼拝所にて、随時受け付けておりますので―――』


 淀みなく、機械的に紡がれる言葉たち。

 街の灯りは、その声に従順に従うように、白み始めた空へと役割を繋いでいきます。

 

 ロロは窓枠に手をかけ、白光に染まり行く都市を眺めていました。

 視界に広がるのは、ひび一つない、あまりにも美しく整えられた平穏。


「…勇者様を、起こして差し上げないと」


 彼女の呟きは、ベラトリスの残響にかき消されました。

 すでに恒例となった襲撃者たちの雄たけびが、どこか遠くで木霊します。


 ―――門が破られたのだろうか?


 とりとめもない疑問が、ぼやける思考に刻まれることはありません。


 鏡を見ることもなく、機械的な手つきで身支度を整え、彼女の気配だけが、熱を失った部屋の中から音もなく遠ざかっていきました。





~教会都市・東側マーケット周辺~


 レイド奨励令に基づき、この日も教会都市には、野心に燃えるプレイヤーたちが現れました。東門の堅牢な鉄門を、異形の腕が叩きます。


「くるぞ!第一、第二中隊、交互に前へ!商業区に一歩たりとも踏み込ませるな!」


 ジャンヌの声が、濡れた石畳に響きます。続く、抜剣の号令。

 しかし、その凛としたはずの剣鳴りには、どこかいつもとは異なるわずかなノイズが混じっていました。


 ……今朝の放送を、この街の誰もが聞いている。


 剣を抜き放つ騎士たちの背中に、昨日までの迷いのない忠誠心はありませんでした。

 未だに繰り返されている、上級聖務特使の放送。


『―――勇者様とジャンヌ様の御成婚』


 噂を知りつつ口を噤んでいた者も、強引に押し付けられる報告に耳を疑う者も、湧き上がる雑念を抑えずにはいられません。

 いったい、何のために戦うのか。

 その疑問が、連携の僅かな遅れとなって現れます。


「―――門が、突破されます!」


 悲鳴のような報告。轟音と共に東門が崩落し、襲撃者の大群がマーケットへと流れ込もうとした、その時でした。

 野心に燃える暴徒たちの鼻先に、鋭く舞い降りる者がいました。

 直後、放たれた光が、全てを白く焼き尽くしてしまいます。


 空から降臨したのは、眩いばかりの神性を纏った、世界の解そのもの。


「…勇者」


 彼は言葉を発しません。ただ一度、剣を横に薙いだだけでした。

 騎士たちが死力を尽くして食い止めようとしていた敵の群れが、まるで薄い紙細工のように、一瞬で塵へと変わってしまいます。


 圧倒的な、あまりにも残酷なまでの、力の差。 

 

 勇者は命乞い一つされることもなく、ゆっくりとジャンヌの方を振り返りました。

 先ほどまでの神性はすっかり鳴りを潜め、彼女の姿を見つけた途端、その無機質な瞳には、春の陽だまりのように純朴で、それゆえに恐ろしいほどの歓喜が宿ります。


「…!」


 彼はまるで、放課後の校庭で大好きな幼馴染を見つけた少年のような足取りで、門の残骸を飛び越え、彼女のもとへと駆け寄ろうとします。

 周囲の騎士たちは、その一挙手一投足を、石像のように硬直しながら見ていることしかできませんでした。彼らが守りたかったジャンヌは今、自分たちの手の届かない勇者の花嫁として、強引に書き換えられようとしていました。


「…各員、直ちに門の修復に取り掛かれ。負傷者の搬送をいそげ」


 ジャンヌは、駆け寄る勇者の視線を真っ向から受け止めることはありませんでした。

 彼女は冷たく、それでいて酷く乾いた音を立てて剣を鞘に納めると、背後の騎士たちへ極めて事務的な指示を投げかけます。 

 

 伸ばされた勇者の指先に触れたのは、温かな肩ではなく、無常に身を翻した彼女の髪先だけでした。


「…」


 取り残された勇者の手が、空中で行き場を失い、白々しい朝日の中に漂いました。

 再び、駆け出そうとする彼の手を、頑健な拳が捕えます。

 レオンは、ひと睨みで勇者の機先を制すると、行き場のない怒りを宿した瞳で勇者の姿を見据えます。そして、呆然とする仲間たちへ向け、地を這うような怒号を放ちました。


「何をしている!指示が聞こえなかったのか!」


 その声は、勇者の登場によって挫けかけていた騎士たちのプライドを、無理やり繋ぎ止めるだけの気高さを宿していました。

 ジャンヌは一度も振り返ることなく、光の中に取り残された勇者に背を向け、影の濃い路地へと消えていきました。


 



 撮影現場の控室。

 ジャンヌは鏡の中に映る自分の顔を忌々しげに見つめていました。

 そこには、勇者からのプロポーズという悪夢じみた祝福を受け、名実ともに大陸一のヒロインへと祭り上げられた白百合の騎士が座っています。


 そこへ、軽やかな靴音とともに、この世の春を体現したような人物が現れます。


「おはようございます、ジャンヌ様。……あら、少しお顔色が優れないようでございますわね?」


 ベラトリスでした。

 昨夜、部屋を呪詛と羽毛で埋め尽くし、狂気に身を焼いていた女とは到底思えない完璧な微笑。彼女はジャンヌの肩にそっと手を置き、鏡越しに覗き込みます。その指先には、昨夜の傷など微塵も感じさせない見事な治療術が施されていました。


「昨日のことは、もうドーンソリア中に放送されましたわ。勇者様からのプロポーズ……全女性の憧れを独占するお気持ちはいかがでございましょうか?」


 ベラトリスは、ジャンヌの首筋に触れるか触れないかの距離で、甘い毒のような吐息を漏らしました。

 その口元は、宮廷に飾られた仮面のように、どこまでも優雅に微笑んでいましたが、鏡に映る瞳の奥底には、光を一切反射しない深海のような暗黒が横たわっています。

 

――カチャ。


 無機質なラッチの音が、楽屋の重苦しい空気を切り裂きました。


「ジャンヌ!そろそろ出番よ!」


 元気なスタッフの声、活気に満ちた現場の喧騒が飛び込みます。その明るさが、この部屋の歪みをかえって際立たせました。


「ああ。今行く」


 その一言を境に、先ほどまでの迷いや拒絶が、霧が晴れるように消え去りました。

 彼女がゆっくりと椅子から立ち上がったその瞬間、背筋が真っすぐに伸び、瞳には公人としての生命力が宿ります。


「ベラトリス。すまないが、勇者に伝えておいて欲しいんだ。街を守ってくれてありがとう、と」


 鏡の前で手袋のしわを伸ばしながら、ジャンヌは淡々と続けました。


「もちろん、私が直接伝えるべきなのだろうが。…その、私は奴に手を上げているし……お前も見ていただろう。……気まずいんだ!」


 微かにうねる、楽屋の大気。

 その隅で、ロロは目を光らせています。


「…それにそのせいで、奴が妙に張り切りすぎて、これ以上面倒を起こされても困る。私には五人兄がいた。男たちのあのどうしようもない習性は、人並みに理解しているつもりだ」


 ベラトリスの返答を待たず、ジャンヌは眩い照明の中へと消えていきました。

 足音が遠ざかり、楽屋の扉が閉まります。

 残されたのは、高貴な香水の香りと、冷え切った沈黙だけでした。





 その夜。

 街の東側、ご馳走通りの一卓に、騎士たちの姿がありました。

 目の前に届けられたジョッキを傾け、ジャンヌは言葉を発します。

 まばらな人混みに、その声が完全に消えることはありません。


「勇者との件だが…」


 短い沈黙。

 それを見守る三名の騎士、レオン、ルキウス、マクシミリアン。彼らは身じろぎ一つせずに、食い入るように彼女の口元を見つめました。


「私は受けようと思う」


 周囲の笑い声や食器の触れ合う音が、急に遠くの出来事のように感じられました。騎士たちは、受け入れがたい発言に対して、微かに顔をしかめます。


「…あえて」


 最初に沈黙を破ったのはレオンでした。

 彼はテーブルを押し割らんばかりの力を込め、湧き上がる感情の発露を、言葉として絞り出します。


「あえて、申し上げます。ジャンヌ様おひとりが犠牲になることなどありませぬ。どうかここは、別の道を見つける努力をお忘れなきよう、慎んでお願い申し上げます…何卒」


 垂れた癖毛が、声に合わせて揺れています。

 ジャンヌは、畏まって下げられた頭をどこか他人事のように眺めていました。

 そして、レオン自身も。目で見なくともそれに気づいていました。


「レオン様のおっしゃる通りです」


 琥珀色の液体で満たされた、小さなグラスの湖面に視線を傾けていたマクシミリアンが、思わず身を乗り出しました。


「第一、ジャンヌ様おひとりにそのような選択を強いるなど、我らの甲斐性が無さすぎるではありませんか」


 彼の声は穏やかでしたが、その言葉の端々には、自分自身への激しい嫌悪が滲んでいます。

 ジャンヌは静かに腕を組みなおすと、夜の帳に包まれたご馳走通りへ視線を流しました。


 人足はまばらながらも、店先からは温かな湯気が立ち上り、誰かの笑い声が夜風に乗って聞こえてきます。今朝、あの鉄門が破られるほどの襲撃に晒されたとは到底思えない、あまりにも平穏な夜景。

 しかし、それが偶然や奇跡の結果でないことを、ジャンヌは冷静に理解していました。


 街の至る所に残されている、戦いの爪跡。

 ジャンヌはあえてそれを口にしませんでした。そうする必要など塵ほどもなかったのです。


「言うな、マクシーン。私も同じ思いだ」


 その言葉は、彼らの献身を拒絶するものではなく、むしろ誰よりも深く彼らの痛みを知っているからこその、血を流すような共感でした。


「…ジャンヌ様」


 マクシミリアンの悲痛な呼びかけを、彼女は視線だけで制します。

 ジャンヌはすっと立ち上がると、卓の上に残ったままの、温くなったジョッキには目もくれず、夜の闇が深く溜まった路地の方へと体を向けます。


「三日だ。その間に覚悟を決めろ。…時間を取らせてすまなかったな。お前たちも早く帰れ」


 それは、これ以上の対話を拒む、明確な終わりの合図でした。

 誰かが椅子を蹴って立ち上がる音を背中で聞きながら、ジャンヌは一度も振り返ることなく歩き出します。


 ご馳走通りの灯りから遠ざかるにつれ、彼女の影は石畳の上に長く、細く伸びていきました。

 



 冷たい鍵の音が部屋に響き、ジャンヌはようやく、今日という配役を脱ぎ捨てました。

 

 月明かりだけが差し込む、昨日と同じ静かな夜。

 ベッドに横たわると、その気配を察したコタロー丸が、柔らかい重みとなって彼女の胸の上に乗ってきました。喉を鳴らすその小さな振動だけが、今の彼女にとって唯一、純粋に触れることのできる現実でした。


 ジャンヌは天井を見つめたまま、暗闇の中で情報の断片を繋ぎ合わせます。

 部下たちから届けられた、極秘の報告。


(ヒメカが、戻らない…)


 アトラスの防衛任務に就いていたはずの、有能な片腕。

 そして、昨晩アトラスの敷地内で目撃されたという、不気味な影。上級聖務特使、クラウゼ。


 報告によれば、ヒメカは彼と共に姿をくらましたといいます。

 それが任務を装った誘拐なのか、あるいは想定外の事態に巻き込まれたのか。ジャンヌには判断がつきません。

 しかし、この状況下で、信頼していた部下と、得体の知れない特使が同時に消えたという事実は、ジャンヌの心に冷たいさざ波を立てていました。


「お前は、ずっと私といてくれよ?コタロー丸」


 ジャンヌは、コタロー丸の柔らかな毛並みに指を沈め、ぽつりと零しました。

 その瞳には、誰にも見せることのない剥き出しの疲弊と、それでも消えない鋭い猜疑心が宿っていました。


 

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