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世界の定義。

 そこは、視界のすべてを乳白色の濃い霧が覆い尽くす、広大な静寂の空間でした。

 足元は磨き抜かれた黒曜石のような床がどこまでも続いていますが、数歩先さえ霧に溶けて見えません。ただ、はるか遠くから、感応波でも、また、エレメントでもない正体不明の重い残響が響いてきます。


「…なんですの、ここ。なにもありませんわ…エレメントも…何も」


 ヒメカは、未だに痺れを残す指先を握り直し、不安げに周囲を見渡しました。

 二人のすぐ手前、その虚無の入口に、不自然なほどひっそりとそれは置かれていました。


 それは、古びたルーン彫刻石の台座の上に鎮座する、膨大な数の『ルーン文字のパズル盤』。


 幾千、幾万もの微細なルーンが刻まれた石板が、複雑に絡み合い、見ているだけでも気の遠くなるような、幾何学的な模様を形成しています。

 しかし、その一部は欠け、あるいは不自然に反転し、全体としての意味をなしていません。


「……ふん。今度の防衛は挑戦というわけか。アトラスらしい、鼻持ちならない趣向だ」


 クラウゼは霧の奥を見ようともせず、そのパズル盤の前に歩み寄りました。


「パズル…?クラウゼ様、まさかこれを解かなければ、この霧は晴れないのですの?」

「解くのではない。これは再定義だ。このパズルの配列こそが、この先の空間の物理法則そのものを書き込んでいる。…見てごらん」


 クラウゼがパズルの端にある一片を、指先でわずかに動かしました。


 すると。


ゴォォォォ……。


 霧の奥で、何かが崩れ、あるいは組み上がるような巨大な地鳴りが響きました。

 同時に、二人から少し離れた床が音もなく反転し、底の見えない暗闇の亀裂が口を開けます。


「ヒィッ!?な、なんですの、今の音は!」


「配列を間違えれば、空間そのものが消滅するか、あるいは僕たちが存在しない概念として処理される」


「……ガイネン。いやですわ。なんだかとても、嫌な響きですの…クラウゼ様?わたくしに何かお手伝いできることはありませんの?」


 ヒメカはもどかしげに足踏みをし、クラウゼの横顔を覗き込みました。

 

「君は、そこで見てればいい。…僕がこのパズルを解く瞬間をね」


 クラウゼは迷いのない手つきで、無数のルーンがひしめくパズル盤へと指をかけました。


 カチ、カチ、と小気味良い音が静寂の中に響きます。

 彼がルーンの一部をパズル盤の隅へと整然と並べ始めると、呼応するように周囲の霧が激しく渦巻き、床の黒曜石が波打つように形を変えました。


ゴォォォォ……。


「クラウゼ様!また床が、それとこの音も!」

「静かに。気が散る」

「…」


 クラウゼが最後の一片を収めると、荒れ狂っていた空間の振動が、水を打ったように収まりました。床の亀裂は塞がり、霧は凪ぎ、世界は最初と同じ、平穏な虚無へと回帰します。


「なるほど、調和状態…とでも呼ぶべきかな」

「?」


 クラウゼは独り言のように呟くと、納得したように一度頷きました。しかし、彼の指は止まりません。

 完成したはずのパズルを再び崩すと、今度はより少ない手数で、別のルーンを組み合わせ始めました。


ゴォォォォ……。


「クラウゼ様!?せっかく収まったのに、何を…!」

「…ほう。『簡略版』にも対応しているのか。味な真似を…」


 二度目の調和。

空間は再度、最初と同じ状態へと戻りました。


 そして―――。

彼は三度、ルーン文字を滑らせます。

 

 今度は、アトラスの教本にも、教会のデータベースにも存在しない、歪で、それでいて完成された美しさを持つ奇妙なルーンの組み合わせ。

 クラウゼというプレイヤーの深淵、彼しか知らないはずの独自のコードが、パズル盤の上に並べられていきます。


 カチリ。


 最後の一片が嵌った瞬間。

 世界もやはり、調和しました。


「なるほどな。アトラスめ…不愉快だ。実に、不愉快だよ」


 クラウゼは不敵に微笑むと、ドクトルファウストをパズルの上に這わせました。

 ヒメカは思わず戦慄(わなな)きます。


「まさか…」

「ふん、まさか」


 クラウゼが短く応じると同時に、漆黒の影がパズル盤を撫でるように通過しました。

 すると、隅に並べられた彼独自のコードだけをその場に残し、盤上にあった31種類、数万字にも及ぶルーン文字が、まるで意志を持った虫の群れのように、一斉に動き出しました。


 耳を打つ高速の駆動音。

 影が過ぎ去った後には、種類ごとに完璧に整理されたルーンの山が、整然と積み上がっていました。

人間が一晩かけて終わらすであろう分類を、ドクは一瞬で終わらせてしまったのです。


「さて…ここからは僕のロールだ」


 クラウゼは、選別されたルーンの山から必要な文字だけを、まるで指揮者が音符を拾い上げるような滑らかさで中央へと引き寄せました。

 

 彼が組み上げているのは、見たことのないほど、複雑なコード。


「クラウゼ様…なんですの、そのコードは?それでスキル一つ分のコードですの?」

 

 ヒメカは目を皿にして、構築されていく文字列を覗き込みました。

 数千のルーンが整然と並び、中央に幾何学模様が描き出されていきます。しかし、その中心部には、たった一箇所だけ、ぽっかりと空白が残されていました。


「あっ!あと一文字、足りませんわ!クラウゼ様!」

 

 ヒメカが得意げに声を弾ませます。

 クラウゼは淀みない手つきで、隅にまとめられていた独自のルーンの列へと指を伸ばしました。


 彼はその列をさらりと一文字分だけ崩すと、指先で弾くようにして中央の空白へと滑り込ませます。


 カチリ。

 

 …。


「…調和したな」


 クラウゼは満足げにパズル盤から手を離しました。


「すごいですわ!隅にあったあのコードと、このコードが『同じ』!ですのね!ふふふ!もうすぐゴールですのね!」

 

「さてね。……ただこの解答は」

「ふむふむ…『ルームフィー・オン・シーアビス』…?どのようなコードスキルですの?わたくし、きになりますわ!発動してみたいですわ!」

 

 好奇心に目を輝かせたヒメカが、無邪気に指先を伸ばしました。その指がパズルの中心に触れた瞬間、構築したばかりのコードが淡い光とともに脈動します。

 ―――その時。

 彼女の関知しない場所。決して認識されない帳の向こう。闇の底よりも黒き何かが、音もなく、けれど確かに、突如として広がりつつありました。

 

「なに!?ばか!よせヒメカ!」


 クラウゼの顔から余裕が消え、血相を変えて彼女の手首を掴み、強引に引き剥がしました。それと同時に、彼は完成したばかりのパズル盤から、躊躇なく一文字をむしり取るように抜き取り隅へと追いやります。


 光は一瞬で霧散し、ルーンの配列は再び沈黙します。


「な、なんですの…そんなに怒らなくてもよろしいではありませんか。少し気になっただけですわ」


 ヒメカは赤くなった手首をさすりながら、不満げに唇を尖らせました。彼女にとって、それは珍しい玩具に触れるような、ごく軽い好奇心に過ぎなかったのです。

 

「少しだと…?冗談じゃない。今、僕たちは消滅しかけたんだぞ」


 クラウゼは激しく乱れた呼吸を整えながら、一文字欠けたルーンを忌々しげに睨みつけました。


「もう…大げさですわ。そのようなコードなど…このヒメカ、一度たりとも見たこともありませんわ。聞いたこともないですの」


 ヒメカの、楽観的な態度に、クラウゼはこめかみを押さえます。


「ヒメカ。そもそも君は、なぜこのコードが歴史の表舞台に一度も現れず、誰にも知られていないか分かるかい?」

「え?それは…とても難しくて、誰にも思いつかなかったからではありませんの?」


 何の疑いもなく、小首を傾げて問い返すヒメカ。

 その瞳は無垢でした。

 かつて同じように無知のまま消えていったであろう、数多の哀れな被害者たちの面影を見るように、クラウゼはいっそう語気を強め、吐き捨てるように告げました。


「どちらも正しいが、どちらも違う。…だが確かなのは、語り部の不在だ」


 クラウゼは冷淡な眼差しを彼女に向け、淡々と語り始めました。


「生存者バイアスという言葉を知っているか? 記録に残るのは、常に『生還した者』の言葉だけだ。だが、本当に恐ろしいコードというのは、それを見た者、使った者を一人も逃さない。発動した瞬間に観測者もろとも世界から消えるから、そもそも『危険である』という記録すら残らないのさ」


「…つまり、わたくしたちは…?」


「ああ。……君のその指先一つで、僕たちは今頃歴史から、最初からいなかったことにされていたよ」

 

 静寂に包まれた第三層。クラウゼの言葉は、霧を切り裂くように冷たく響きました。ごくり、と喉を鳴らし、ヒメカは青ざめた顔で自分の指先を見つめます。

 しかし、騎士として、あるいは直感に優れた一人のプレイヤーとして、彼女の中に小さな違和感が芽生えました。


「けれど…クラウゼ様?」

「なんだ?」

「一度も発動してもいないのに、やっぱり、変じゃありませんの?誰も見たことがないのに、どうしてそんなに恐ろしいものだと断言できますの?」


「…」


(あ!今、いつもの『やれやれ』って言いそうですわ!ワクワク)


 ヒメカは期待に胸を躍らせ、彼のため息を待ち構えました。不謹慎にも、この極限状態にあって彼女は、クラウゼとの慎ましい掛け合いに安らぎを見出していたのです。

 ―――ですが、返ってきた反応は予想外のものでした。


 クラウゼは、やれやれと呆れる代わりに、僅かに肩を落とし、視線をパズル盤の奥へと落としたのです。その横顔には、傲岸な超越者のそれではなく、未知の深淵を覗き込む探求者の危うい影が差していました。


「たしかに、君の言う通りだ。これらは仮説だ。僕も最初は、誰かの悪質な冗談か、あるいは僕に相応しい伝説の類かと思った」

「クラウゼ様…?」

「…けど、考えてもみろ。このコード、あまりに不気味じゃないか。…『ルームフィー』。『滞在費』だ」

「滞在費…?」


 ヒメカは首を傾げました。上級聖務特使が扱う物々しい言葉の中に、宿屋の支払いを思わせる世俗的な単語が混ざっている。その異質さが、じわじわと彼女の好奇心を粟立たせます。


「さらに『オン』、『シーアビス』。オンには様々な意味があるが、接続詞としての役割を超え、この場合は恐らく『作動』や『接触』の意味だろう。そしてシーアビス……『深海』だ」


「深海。作動。滞在費…」


 クラウゼは、最後の空欄を埋める一文字を弄びながら、呪文を解体するように言葉を紡ぎます。


「そう、滞在費だ。深海の、ね。…語幹の構成から推測するに、これは水系統のエレメント操作に属するコードスキルだろう。だが、骨の髄まで優越主義の…アトラスの文献にすら載っていないこの膨大なコード…ただのコードスキルであるはずがない」

「深海に滞在費など、必要ですの?あ!まさか!お魚さんにでも支払えとおっしゃるのかしら?ふふふ!」


 ヒメカの精一杯の冗談を、クラウゼの冷徹な一言が塗り潰しました。

 彼が放った一言、それは意外にも肯定でした。


「ああ。命でね、発動者の。…多分」


 クラウゼの視線が、ヒメカを射貫くように向けられました。

 深海という生者が立ち入れない場所に留まるための対価。それは金貨などではなく、等しく飲み込まれた魂、肉体、存在そのものである。 

 クラウゼは、旅の途中で拾い集めた断片的な情報から、そう推察していたのです。


 彼の瞳の深淵に浮かぶのは、一人の人間としての等身大の恐怖でした。

 

「では、このコードは…」


 呼吸も忘れ、ヒメカはパズル盤を見つめました。

 ルーンの配列によって導かれる―――はずだった、思い描いていた目的地ゴール。それと、あまりにもかけ離れた終着点ゴール

 自分が先ほど、無邪気に指を伸ばした先、そこに待っていたのが『真の虚無』であったことを悟り、彼女は今度こそ、本当の戦慄に身を震わせました。


 ―――…カチリ。


「ヒィィッ!」


 ヒメカの動揺をよそに、クラウゼは新たなコードを構築し始めました。

 それが、彼女の知るものであるはずがありません。

 いてもたってもいられず、ヒメカは震える声を絞り出します。


「ク、クラウゼ様!わたくしにも何か…何かお手伝いできることはありませんの!?」


 この場からいち早く立ち去りたい一心で、ヒメカは尋ねました。 

 しかし、クラウゼはパズル盤から一瞬たりとも視線を逸らさず、低く呟くように言いました。


「邪魔をしないでくれ。君には何も期待していない」


 その言葉に、ヒメカは息を呑み、力強く頷きます。

 小さな指先をぎゅっと握り込み、彼女は、その要請に応えることにしました。


―――


「…クラウゼ様?まだですの?」


「ああ」


―――


「まだですの?クラウゼ様?」


「ああ」


「…退屈ですわ」


―――


(……チラ)

「まだだ」

「…まだ何も言ってませんのに」

「そうかい」


―――


「ずっと立ったままで、お疲れになられませんの?」


「君こそ、よくこんなところで寝そべっていられるね」


「だって、退屈なんですもの」


―――


「うかー!…チラ。うかー!……チラ」

「…」

「…」


―――


「ところで、君のその髪。どうなっているんだい?なぜ色が変わるんだ」


「スーパーモードですの」


「…スーパーモード?」


「そうですわ」


「そうかい」


―――


「クラウゼ様!しりとりの、り!でございますわよ?」

「理論」

「ッ!またわたくしの勝ちでございますわね!」


―――


「すぴー…すぴー……」

「…」


―――


「まだ終わりませんの?クラウゼ様?」


「ああ」


「もう!朝になってしまいますわよ?!」


「そうだな」


―――やがて。


 パズル盤の上で、無秩序な情報として存在したピースは、数えきれないほどの置換を繰り返し、膨大な四つのコードへとその形を変えました。


 『ルームフィー・オン・シーアビス』。


 『ミース・オン・ガイアクラフト』。


 『メディア・オン・トーネード』。

 

そして―――。

 

『ワールド・オン・ヴォルケニオン』。


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