アトラス地下迷宮第二層。
第一層の歪む空間を抜けた先に待っていたのは、静止した空気と、異常なまでに天井が低く続く、鈍色の回廊でした。
「…!なんですの、この重苦しさは。身体が…重い……!」
二人がその階層に足を踏み入れた瞬間、ヒメカは膝をつきそうになりました。
第二層―――選別と排除。
侵入者の数に比例して、空間そのものの質量を増していく。二人のプレイヤーがそこに存在するだけで、体感重力は通常の三倍を超えていました。そしてその圧は、なおも緩やかに増し続けています。
「……たった二人でこの重さか、実にアトラスらしい悪趣味なコンセプトだ」
クラウゼは平然と言い放ちますが、その額にも微かな汗が浮かんでいます。
「感心している場合ですの!?……このままでは…お…重いですのっ!」
「どちらかが潰れるまで待って、残った方が進むという手もないわけではない。どうする、ヒメカ?」
「なっ…当然却下ですの!」
「ククク、そうかい」
短い言葉の応酬にもかかわらず、二人にかかる圧力は増していきました。
「…却下、と言ったそばからこれか」
クラウゼが皮肉げに視線を走らせた先、鈍色の壁に異変が起きました。
無機質な石の表面がスライドし、そこから鈍い光を放つ砲台がいくつもせり出したのです。
「あそこ!クラウゼ様!何か出てきましたわ!」
「…ああ。あれは侵入者排除用の狙撃端末だね」
「…ッ!?クラウゼ様、危な――」
ヒメカの警告が終わるより早く、砲台側面に刻まれたルーンが着火します。重い砲弾が凄まじい轟音とともに放たれました。
砲台はもれなく、より後方のプレイヤー。すなわち、重力に膝を付く、クラウゼを優先的に狙い澄ましていました。
「おっと…僕か」
「!」
ヒメカは歯を食いしばり、全身を縛る鎖を振り払うように、重くなった腕を強引に突き出しました。
彼女の意志に、世界が応えます。
刹那、クラウゼの直前の床が盛り上がり、弧を描く分厚い盾へと姿を変えました。
ッドォォン!!
盾の至近距離で砲弾が炸裂しました。凄まじい衝撃波が回廊を駆け抜け、爆風が二人の髪を激しく乱します。
立ち込める煙は不自然な軌道を描き、空間の四方に張り付きました。
その中から、クラウゼの姿が現れます。彼に目立った外傷はありません。
ヒメカが咄嗟に作り出した防壁は、粉々に砕け散りながらも、彼をその直撃から守り抜いたのです。
「クラウゼ様!ご無事ですの!?」
「ああ。僕は平気さ。だが、余計なことをしてくれたね」
「な!なんですの!?その言い草は!…クラウゼ様ッ!!」
ヒメカは子供をしかりつける母親を彷彿とさせる顔で、両目を吊り上げました。
呼吸は重さで乱れ、両ひざは、小鹿のように震えています。
クラウゼはそんな彼女を横目に、通路の奥を見据えていました。壁の向こうで、砲台が再装填される乾いた金属音が、壁を伝い二人の耳にも届いていました。
「だってほら、見てごらんよ」
「…」
ヒメカはまだ不貞腐れながらも、視線をそちらへ向けます。
すると、通路全体が渋い摩擦音を立てながら、ゆっくりと、しかし確実に内側へ向かって狭まり始めていました。
「通路が…なぜですの?!」
「エレメントの変化に反応するのさ。言い忘れてた」
「クラウゼ様ッ!?」
まるで他人事のように、どこまでも平然と告げる彼に、ヒメカは仰天を禁じ得ません。
再発射を控える砲台を前に、小さな肩をわなわなと震わせるヒメカ。
そんな彼女を尻目に、クラウゼは興が削がれたように、低く鼻を鳴らします。
(…仕方ない)
「…仕方ありませんわ…!」
「なに…!?」
ヒメカの栗色の螺旋の双髪。それが瞬く間に、眩い黄金色へと輝き始めました
「『グローリーロード』ッ!!」
彼女が地面を力強く踏み抜いた瞬間、空間が悲鳴を上げました。
重力を跳ね除け、黄金の波動が四方の壁へと伝播します。刹那――
通路の床、壁、天井のあらゆる表面を貫き、おびただしい錐状の黄金が一斉に隆起したのです。
「っはぁああ!!のびろおおおおお―――で、ございますわぁぁッ!!」
ヒメカの声に応えるように、黄金の錐は、凄まじい速度で増殖し、通路の奥まで突き進んでいきました。迫りくる壁を力づくで押し戻し、迎撃装置を悉く粉砕しながら、それは文字通り、選別と排除のためだけに存在していたはずの空間に、新たな黄金の道を舗装してしまったのです。
「おーっほっほっほっほ!見ましたかクラウゼ様!これが白百合の!この一条院姫香の!実力ですの!」
ヒメカは降りかかる超重力に全身の筋肉を軋ませ、膝をがくがくと震わせながらも、腰に手を当てて白百合の矜持を見せつけるように高笑いを上げました。額には玉のような汗が浮かび、呼吸は激しく乱れています。それでも彼女は、その瞳の海に爛々とした輝きを宿していました。
クラウゼは、そんな彼女を黙ってじっと見つめていました。
称賛でもなく、呆れでもない。ただ、実験動物の変異を観察するような無機質な視線です。
「それで?」
「へ?」
「どうやって進むつもりだい?」
「!?」
嘲笑を浮かべた視線の先。そこはもはや通路と呼べる代物ではありません。
わずかな隙間から見えるのは、おびただしい数の鋭い棘の先端です。
「え?…あ。…と、止めることに集中しすぎて、わたくしたちの通る場所を確保し忘れてしまいましたわ…」
「…」
クラウゼは天を仰ぎ、今日何度目か分からない深いため息をつきました。
「仕方ない…」
「あ!危ないですの!」
「…」
ヒメカの忠告を無視し、クラウゼは足取りに倦怠を滲ませながら、黄金の森の端へと歩み寄りました。
彼の指先が、一切の躊躇なく、触れればただでは済まないはずの鋭利な刃先へと伸びていきます。
「…」
クラウゼが触れる直前、足元から這い出した濃い影が、黄金へと伸びました。
彼はそのまま、錐の側面に手を掛けると、まるで邪魔な草藪を分けるかのように、それを強引に押し広げます。
ヒメカは、思わず目を閉じ、体を縮めました。
「!」
重々しくねじれる金属音、あるいはクラウゼの押し殺すような悲鳴。
辺りに響くのはそのどちらでもありません。
――ギュ…ギュゥゥゥウ
それは、揺れたゴムが擦れ合うような、なんとも間の抜けた摩擦音でした。
恐る恐る目を開けると、そこに映るのは、ゴムまりのようになった黄金の塊を足蹴にするクラウゼの姿です。
「クラウゼ様ッ!っうふふ!」
ヒメカは小さな体を精一杯揺らし、喜びを表現しました。
その間に、クラウゼは隙間にできた歪な道へと体を滑りこませます。
「……範囲は最小限だ。早くしなよ」
「あっ!待ってくださいまし!わたくしもいきますの!…うーんッ!……重いッ!」
「ああ、急がないとまずそうだ」
「この重さも、ドク様で書き換えてくださればよろしいのに!」
「そんなの簡単すぎるだろ」
クラウゼは振り返りもせず、吐き捨てるように言いました。
ヒメカは彼の発言に深い感銘を受けた時のように首肯します。
「ああ!確かに!せっかくの催し、ご用意してくださった方々の想定通りにならなければ、無作法というものですわね。ふふふッ!さすがクラウゼ様!その通りでございますわ!」
「やれやれ」
お世辞とも本気とも取れるヒメカの全幅の信頼に、クラウゼは肩をすくめました。
二人が四苦八苦しながらも、黄金の迷宮を抜けきった瞬間。
背後で凄まじい音が響きました。
ガシャァァァン!
ドクの書き換えが限界を迎え、黄金の錐が本来の硬度を取り戻すと同時に、通路の壁がそれを完全に圧砕したのです。
間一髪。あと数秒遅ければ、二人は黄金と石壁に挟まれ、この地下迷宮から望まぬ帰還を果たしてしまうところでした。
「…ひっ!危ないところでしたわ…!」
ヒメカが冷や汗を拭いながら振り返ると、通ってきた道はありませんでした。
代わりに二人の目の前に現れたのは、これまでの閉そく感とは真逆の、底知れない開放感でした。




