イノセント・ヘイブン。
~教会都市・アトラス魔法学校、賢者の庭~
深夜のアトラス魔法学校。
天を衝く校舎の影が、青白い月光に照らされた広大な中庭を切り裂いています。
「……ひ、ヒメ姉さま!今、あそこの植え込みが動きましたっ!」
「もう!またですの!?あなたたち!」
ヒメカは凛とした声で、震える年若き白百合たちを宥めました。彼女はこの数週間、住み込みで学校の防衛任務に就いています。寮長としての厳しさは崩しませんが、暗闇に怯える部下たちの前を歩くその背中には、確かな慈愛と責任感が宿っていました。
「ヒメ姉さま!気を付けて!」
「……まったく、また気のせいなどとおっしゃったら。承知いたしませんわよ?」
規則正しい靴音が、回廊に響きます。
ふと、植え込みの中から鋭く影が伸びました。
『ヒィィィィ!!!!』
背後の白百合達の悲鳴。一瞬遅れてヒメカ。
「ヒィイイイイイ!!!」
直立したまま傾く体を、背後の白百合たちが総出で受け止めます。
混乱の只中で、植え込みの奥からだらりと力なく歩み出た影が、書庫へと続くアーチの下へと現れました。
「……まさかばれるなんてね」
現れたのは上級聖務特使がひとり、クラウゼでした。
厚手のコートの襟を立て、その口元には自嘲のような歪みが発生しています。
ヒメカは即座に我に返りました。自らの失態を誤魔化すかのように、真夜中の校舎に甲高い声を響かせます。
「あなたでしたのクラウゼ様!こんな真夜中に出歩いて、どうして平気でいられますの!」
「そんなに殺気立たないでくれ。かつてのような間柄じゃないんだ」
クラウゼが言葉を返している間も、ヒメカはぷいと顔を背けたままでした。
尖らせた唇も、微かに震える肩先も、全身が誠意ある謝罪を今か今かと要求しています。
彼はあえて、ヒメカの望む役割を演じてやることにしました。
「悪かったよ」
「…ふんっ!それで、何のご用ですの?理由によっては、たとえクラウゼ様といえど、見過ごせませんわ」
「なに、少し困ったことになっていてね。学校側が隠ぺいしているエレメントの乱調。その調査だよ。どうやら、地下に溜まった澱みが、騎士たちの精神に悪影響を及ぼしているらしい。君にも覚えがあるだろう?」
クラウゼは吐き捨てるように、もっともらしい嘘を並べたてました。
彼の真の目的は、この学校が極秘に研究している『原理魔法』の原典。しかし、それを悟らせるつもりは毛頭ありません。
「乱調?それで、皆さまがおかしくなったのですの?けどそんなの…変ですわ!だってわたくしたちは……」
「だから隠ぺいと言っただろう。ベラの直感さ、僕や君が無事なのも、かえって変だと思うだろ?…だからヒメカ、君たちの防衛網に、少しだけ風穴を開けてもらえないか?君たち騎士が目を光らせている場所が、ちょうど観測ポイントに重なっているんだ。……もちろん、功績は全て君たちのものにしていい。僕の名前は出さないでくれ」
発言を途中で遮られ、ヒメカは不審げに目を細めました。
心の内で、クラウゼは使徒の名を思い浮かべています。
少しでも妙な気配があれば、彼女らを排除してからでも何ら問題はなかったのです。
「よくわかりました。クラウゼ様」
深々と頷く小さな姿に、クラウゼは内心ほくそえみました。
しかし、それも束の間、ヒメカが放った次なる一言に、彼を含め、一同は困惑することとなりました。
「その調査とやら、このわたくしも、ご協力させて頂きますわ」
「なにッ……!?」
『えー!』
白百合たちの、ひな鳥のような悲鳴。
ヒメカは眉一つ動かさずにそれらを一蹴します。
「落ち着ちなさいませ」
『…』
白百合たちは、冷徹な言葉に口を噤みました。
ヒメカは堂々と胸を張り、乱れた呼吸が静まるのを待ちます。そして彼女は、まだ肩を寄せ合って震えている後輩たちへと振り返りました。
「あなたたちは引き続き、通常通りの巡回任務を。いいですわね、不審な影があったとしても決して取り乱さないこと!先ほどのような醜態、二度と許しませんわよ!」
「は、はいっ!ヒメ姉さま!」
「よろしい。では、よしなに」
「はい!」
白百合たちが敬礼して持ち場へと去っていくのを見届け、ヒメカはクラウゼに向き直りました。
「では、案内してくださいませ。クラウゼ様、わたくしも同行いたしますの。騎士団の防衛区域を無断で通すわけにはまいりませんし、万が一の際、あなたお一人よりも、このわたくし、一条院姫香がいたほうが、心強いでございましょ?」
「…相変わらずだね、君は。前衛は任せていいんだろうね?」
「当然でございます。このわたくしに何卒お任せくださいませ」
「そうかい、せいぜい頼らせてもらうとするよ、おしゃべりはこれくらいにしよう」
「よしなに」
クラウゼはコートのポケットに手を突っ込み、内心の嘲笑を押し隠して歩き出しました。
―――
二人が向かったのは、アトラス魔法学校の中枢。巨大な螺旋を描く大図書室。
普段は学生たちの活気であふれるその場所も、深夜の今は、数千もの書物の囁きが聞こえてきそうなほどに重苦しい沈黙に包まれています。
アトラス魔法学校。
自らをウィザードと呼称する彼らの傲慢さが象徴するように、物々しい監視の目は一つもありません。
選ばれし者の、知恵の聖域。それを侵す愚か者など、ここには存在しない――そんな思い上がりが、夜の校舎を無防備な空白地帯に変えていました。
クラウゼは皮肉げに口角を上げると、迷うことなく巨大な書棚の陰へと手を伸ばします。
彼の手が特定の書棚にある装飾に触れると、床のタイルが音もなくスライドし、地下へと続く漆黒の階段が口を開けました。
「これは……。いったいなんでございますの?!…ッ!」
ヒメカの甲高い声が、重苦しい沈黙を引き裂きました。
彼女は慌てて、両手で口を塞ぎます。
クラウゼは、手にしていた手帳を閉じ、コートのポケットへと戻しました。
「表向きは、非常口みたいなものだよ」
「非常口…ですの?」
ヒメカが怪訝そうに眉をひそめます。その視線の先にあるのは、およそ避難路には見えない、狭く先の見えない、深淵へと続く急な階段でした。
「そうさ、でも避難させるのは人間じゃない。この場に溢れる情報の方さ」
クラウゼは、わずかに口の端を歪めました。それは自嘲のようでもあり、この建物を設計した賢者たちへの痛烈な皮肉のようでもありました。
「アトラスの地下迷宮は、リピートエクスプロアを再現した空間になっているんだ。たとえ地上の建物が跡形もなく吹き飛んだとしても、この中は無事ってことさ」
彼は喉の奥で低く、くぐもった笑い声を漏らしました。
「だが傑作だと思わないかい? 外界から完全に切り離して保護したその情報を、一体誰が、どうやって取り出すつもりなんだ……ククク。開ける術のない金庫に宝を詰め込んで、守り抜いたと悦に浸る。滑稽の極みだ」
クラウゼは躊躇なくその闇へと一歩を踏み出しました。
大図書室の沈黙が、彼の自嘲を吸い込み、地下へと引きずり込んでいきます。
「お…お待ちになって…クラウゼ様!」
ヒメカは背筋を走る得体の知れない不快感を振り払うように、急いでその背中を追いました。
二人の足音が階段を降り切った瞬間。
背後の入口が、まるで初めから存在しなかったかのように壁と一体化して消滅しました。
即座に訪れる真の闇。
視界という概念そのものが失われた状態に、ヒメカの引きつる様な悲鳴が、狭い通路の、硬い壁に反響しました。
「ヒッ……!ククククラウゼ様!暗い!暗い!暗いですわ!暗すぎますの!!」
『…暁よ来たれ』
クラウゼが低く呟くと、二人の行く手を照らすように、不気味な光の球が浮かび上がりました。
それは教会が掲げるような、一般的なコードスキルではありませんでした。中心に冷たい光を宿しながらも、その周囲には触手のように蠢く、黒い闇を従えた、歪な光です。
本来ならば、上級聖務特使の御業に関心すべきヒメカでしたが、今の彼女にその余裕はありませんでした。
「あ、ああ、光………!光ですわ……!クラウゼ様!光ですの!」
彼女は、その光にすがるように視線を吸い寄せられていました。周囲に蠢く闇には、まるで気づいていません。
「………さて。進もうか。いつ敵が出てきてもおかしくない。もしもの時は、互いに助け合わないとね」
「クラウゼ様…!」
心にもないことを口にするクラウゼ。
しかし、ヒメカの瞳には、感謝と尊敬の念すら浮かんでいました。傷つけあった過去も、今の彼の禍々しい独自のコードも、恐怖というフィルターを通せばたちまち頼もしさへと書き換えられてしまいます。彼女はクラウゼの言葉を、すっかり信じ込みました。
二人は、吸い込まれるように通路を進んでいきました。
―――
石壁から放たれる冷気は、地上の夜風とは異質な、澱んだ地下の臭いを含んでいます。クラウゼのブーツが刻む規則正しい足音と、ヒメカの衣擦れ だけが、静寂の中に新たな情報として書き込まれていきます。
先を行くクラウゼの影が、ルーン照明の微かな光に引き伸ばされ、壁に蠢く怪物のように投影されます。
曲がり角の先、視界が開けたその時でした。
二人が最初の一歩を踏み出した瞬間。
アトラス魔法学校の地下迷宮は、侵入者へと牙を剥きます。
「…!?クラウゼ様、今、廊下が!」
そこは、第一層―――認識と導線の防衛。
認識が肉体を蝕む、アトラスのウィザードたちの啓蒙が形となった空間でした。
直後、壁一面に刻まれたルーンが一斉に発光し、周期的に、脈動するように明滅を始めます。
カチ、カチ、と規則正しい音が響くたびに、ヒメカの視界が物理的に揺らぎました。
つい先ほどまで、真っすぐに伸びていたはず廊下が、瞬きの間にねじれ、枝分かれを繰り返し、終わりなき迷宮へと姿を変えていきます。
「…!なんですの!?床が…いえ、壁が動いていますの!」
ヒメカは壁に手をつこうとしましたが、伸ばした指先は空を切り、壁は一歩分だけ遠ざかりました。廊下はゴムのように引き伸ばされ、ついさっきまで隣にいたはずのクラウゼの背中が、一瞬で数十メートル先へと遠のきます。
「…クラウゼ様!」
焦燥に駆られた彼女が駆け寄ろうとすると、今度は廊下が短縮され、危うく彼の背中に激突しそうになりました。
「落ち着きなよ、ヒメカ。ここは観測者の認識を食い物にする場所だ。廊下の長さも、扉の位置も、君が『進みたい』と願うほどに逃げていく。…ほら、見てごらん」
クラウゼが指さした先、ぐにゃぐにゃと、捩じれた通路の突き当りにある分厚い扉が、ルーンの明滅とともに、天井へ、あるいは遥か後方の角へと、まるでスライドパズルのようにその位置を入れ替えていきました。
「扉が、入れ替わっていますの!…あ!……あっ!…お待ちなさいっ、これではどこにもたどり着けませんわ!」
「ああ、君の脳が『出口』を認識した瞬間に、座標が再構築される仕組みさ。…おっと、そのまま止まっていろ。今、君の足元のルーンが書き換えの周期に入った。不用意に動けば、君の体は右と左で別々の廊下に配置されることになる」
「そんな!?嫌ですの!やめさせてくださいまし!」
取り乱したヒメカは、両手を彷徨わせ、必死にクラウゼを求めました。
すぐ目の前に彼の背中があるはずなのに、伸ばした指先は虚しく空を掻くばかり。わずか数センチ先に見えている彼の袖に触れることすら叶いません。
彼女の精神が、混乱の極致へとたどり着いたその瞬間、足元のルーンが目もくらむような白光を放ちます。
「ああああああ!?きます、なにかがきますの!!」
ヒメカは硬く目を閉じ、衝撃に備えて身を縮めました。
…しかし、痛みも衝撃もありません。ただ、不思議な浮遊感と、自分の体がどこにでも存在しているような、奇妙な感覚に包まれただけでした。
「…?痛く…ありませんわ?」
恐る恐る目を開けたヒメカは、その場で言葉を失いました。
彼女の右足は、数メートル先の右の壁から突き出し、左手は遥か後方の天井からぶら下がり、そして胴体は元の場所に戻ったまま。視界がいくつにも分割され、自分の手足があちこちに展示されているかのような、異様な光景が広がっていました。
「やれやれ、いわんこっちゃない」
クラウゼの深いため息を、ヒメカの甲高い声が塗り潰します。
「…っ、ふふふ!!ははっ!見て、見てくださいましクラウゼ様!わたくしの足が、あんなところに!指を動かすと、壁が動いているみたいですわ!」
恐怖の限界を超えたのか、あるいは認識の歪みの影響なのか。
先ほどまで怯えていたヒメカは、バラバラに配置された自分の部位を眺め、まるで魔法の鏡を覗き込む子供のように、無邪気に笑い声を上げ始めました。
「見てくださいまし!天井のわたくしと握手できそうですわ!」
クラウゼは盛大なため息をつき、手帳を叩きつけるようにポケットへと戻しました。
「いいかい、ヒメカ。遊びは終わりだ。そのままじゃ君の精神はバラバラに固定される。……失礼するよ」
「えっ…!バラバラ!?なにをするんですの………ひゃっ!?」
クラウゼは背後からヒメカに歩み寄り、その両手で、彼女の瞳を完全に覆い隠しました。
「…暗いッ!!また暗いですわ!何も、見えませんの!」
「見なくていい。視界を遮断して、君の認識をリセットする。僕の歩幅に集中しろ。……そのまま、一歩ずつ進むんだ」
視界を奪われたことで、ヒメカは再び元の姿に戻りました。その新たな発見を、沈黙したままのクラウゼが観測します。彼は、ヒメカを抱え込むようにして、法則性が失われた迷宮の、すき間を縫うように最短ルートを進みます。
やがて。
空気の重さが変わりました。
(あ……出口。もうすぐ、出口ですのね!次はどのような楽しい仕掛けがあるのでしょうか…ドキドキ)
出口…。
出口を渇望したヒメカの脳裏に、鮮明な扉のイメージ(?)が浮かび上がりました。
しかし、ここは認識と導線の防衛。認識を食い物にする空間です。
直後、クラウゼの手の平の下で、ヒメカの視界が閉じているにもかかわらず真っ白な閃光に包まれました。
「あ…!」
「ん?そうか。イメージしたのか。愚かだな君は」
クラウゼの吐き捨てるような声が響くと同時に、ヒメカの足元の床が消滅しました。
彼女の体は、ぽっかりと開いた穴へと、瞬く間に吸い込まれていきました。
「ギャ―――!!」
「ほぉ…外か」
穴の縁から覗くのは、下方に広がる水面と、両手をばたつかせながら落ちていくヒメカの姿です。
「クラウゼ様!クラウゼ様ぁ―ッ!」
ヒメカの絶叫が、奈落の底へと遠ざかっていきます。
穴の縁に立ったクラウゼは、焦る様子もなく、ただ無機質な瞳でその光景を見下ろしていました。
(………やれやれ)
クラウゼは、忌々しげにその名を呼びました。
「―――ドク」
直後、クラウゼの足元から、粘り気のある濃い影が爆発的な速度で伸びました。
「ドクトルファウスト!?…いつの間に!?」
それは蛇のように空間を走り、落下するヒメカの胴体を空中で強引に捕縛。凄まじい力で彼女を上層へと引き戻します。
「ひゃうっ!?」
ヒメカの体が、まるで巻き戻される映像のように穴から飛び出してきました。
彼女は空中でくるりと一回転すると、見事な身のこなしで回廊の床へと着地しました
「……とっ!」
さっきまでの悲鳴が嘘のように、彼女は得意げに胸を張り、完璧な決めポーズを取って見せます。
(…ふふん!)
クラウゼをちらり。
彼の背後では、漆黒の影がゆらりと鎌首をもたげるように蠢いています。
ヒメカは驚愕に目を見開きました。
「すごいですの!いつの間に召喚してらしたの?!」
「ずっとさ。ここに潜入したときから」
「まぁ!」
ヒメカが何かを言いたげに目を輝かせます。
クラウゼは、続きを聞くつもりはないようです。ヒメカの両目を、再び塞いでしまいました。
「もがっ!?また暗いですわッ!」
「…黙っていろ。次、余計なイメージをしたら君の精神そのものを書き換える。そうだな…ベラみたいにしよう」
「そ……そんな……!ベラトリス様のようにしてくださいますの?!…ハァハァ!!」
「…」
クラウゼは答えませんでした。
ただ、ヒメカの視界を覆ったまま、何事もなかったかのように歩き出します。
二人の足音が、認識の迷宮の奥へと静かに溶けていきました。
―――アトラスの地下は、まだ入り口に触れたに過ぎません。




